山形の森 保守醒論

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コミンテルンとの大東亜20年戦争論(1924~1945敗戦)

2013-02-11 21:14:30 | Weblog
現代史で「15年戦争論」が幅を利かしている。
戦後10年ほど経った中央公論1956.1月号に載った鶴見俊輔「知識人の戦争責任」で「15年戦争」用語が使われたとされる。
鶴見は戦前から不良少年で、渡米先でも逮捕歴ある左翼人士である。
戦後は左翼言論人として「15年戦争論」を説いた。1931年の満洲事変から敗戦までの15年を区切りとする日本侵略戦争の悪玉史観である。
この歴史観に侵されている日本人は大半かも知れない。
自民党国会議員のなかでも濃淡はあれど6~7割は侵蝕されていると言って良い。
石破茂幹事長始め、国防に理解ある議員ですら歴史観は「15年戦争史観」、靖国参拝した小泉元首相でさえ歴史観において同様である。
小泉に日本人としての精確な歴史観があったなら、外交問題を含めて一気に解決できる機会があったのである。
2002.2のブッシュ大統領訪日で靖国神社参拝の申し入れがあったにも拘らず、(小泉政権)政府は断わり、明治神宮参拝に代えたのである。
この時点で、中国(特亜)の圧力に屈することなくブッシュと並び立って靖国参拝を行っていれば、国連憲章問題もすべてが一瞬にして解決したのであった。
ところが、小泉には日本人としての確信的な歴史観が備わっていないから実行できなかったのである。
もっとも他の首相経験者が、小泉以下であることは言うまでも無いのだが。
これが多くの「15年戦争史観」の誤った理解なのである。
ブログ子がこれまで巡らした結果として、「コミンテルンとの大東亜20年戦争論(史観)」を、学ぶのが取敢えずの転向理解の早道かと思い論じてみる。
1924.6.17~7.8コミンテルン第5回大会(モスクワ、徳田球一・片山潜・近藤栄蔵らが出席)で、日本問題委員会は日本共産党解党に反対し「即時党再建」を決議する。
再建ビューローを立上げ組織工作を重ねて、1926.12日本共産党再建第3回党大会(山形県五色温泉)で再建を果たす。
委員長に就任した佐野文夫は米沢市出身であり、就任が予定されたことで、出身地米沢市での開催となったものと見られる。
翌1927年(昭2)、日本共産党指導部はモスクワのコミンテルン本部の指導会議に参加、「1927テーゼ」を受けて、地下非合法組織と公表組織との2面策を取り、革命闘争を展開していくのである。
(1927.4)田中義一内閣が発足、反共田中体制を挫く狙いを持って、1929.12いわゆる南京発の「田中上奏文(田中メモリアル)」をでっち上げて、対日陣営工作を進めて行く。
その延長過程で満洲事変は実行されるのである。
この事変については石原莞爾が述べているから間違いはないのだが、コミンテルン工作が内外で侵攻したなかでの、日本側の止むに止まれぬ実行計画であることを理解すべきである。
その意味で満洲事変以前の戦端までのプロローグがあることを知って欲しい。
先の総選挙で自民党新人議員が100名を超えた。45歳までは自動的に党青年局員に任ぜられる。
小泉進次郎が青年局長であり、メディアが派閥の数合わせと同様に報道しているがまったく違う。
青年局は時節に見合う活動をフレッシュな中で活動するだけで、震災復興事業に取り組むことなどが喫緊の似合うものである。
小泉進次郎のみならず期待したいのだが、取敢えず「15年戦争史観」から「20年戦争史観」に視野を広げて欲しい。
自民党研修会でも「木から森を見る歴史観」の涵養を望みたい。
石原莞爾(東京裁判尋問供述)や林房雄(大東亜戦争肯定論)などのように、ペリー来航以来の「100年戦争史観」まで理解されれば、それに越したことは無い。
日本人くらい不偏の道義を持った地球人はそう居ないと信じている。
誇りを埃にしてしまっては、散って逝った先人に申し訳がたたない。
まずは、自民党のみならず多くの政治家に「コミンテルンとの大東亜20年戦争(1924~1945敗戦)」の経緯理解を求めたい。

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