goo

最後のラーメン

「お、これは灘正宗の純米大吟醸無濾過生原酒じゃないか」
「はい」
「課長、この酒はそんなすごい酒ですか」
「もうオレは課長じゃないといったろ。灘五郷って知ってるか」
「はい。酒どころの西宮、神戸の東灘、灘ですね」
「そうだ、そこで造られる酒が灘の生一本だ。ところがこの灘正宗は、灘が名前についているが灘で造られていない。灘の東どなりの芦屋で造られている酒なんだ」
「へー。ハイソな酒なんですね」
「芦屋といっても全部がハイソじゃない。阪急より北、とくに六麓荘あたりはハイソやけど、阪神沿線、打出あたりは庶民的な下町だ。この灘正宗は芦屋の打出にある酒造会社だ。小さな酒造会社だから出荷数が少なく、うまい酒やがなかなか手に入らん。大将、よくこんな酒出してくれたな」
「はい。今晩が最後ですから。置いといてもしかたないでしょう。常連のお二人に飲んでいただこうと思って。これは、とういうより、今晩はぜんぶ私のおごりです。明日はないんですから、お金をもらってもしかたがありません」
 それから、二人と大将の3人は灘正宗を一升空けた。
「うまいですねえ。課長」
「もう課長じゃない。何度いったらわかるんだ。会社はさっき二人で終わりにしたろ。会社もないのに課長もガチョウもあるもんか」
 カウンターの上の皿はみんな空だ。3人とも真っ赤な顔。夜の九時を過ぎた。
「さて、そろそろお開きにしよう」
「そうですね。電車もなくなるでしょう」
「それでは大将、来世もまたここに飲みにきたいな」
「高山さん、河瀬さん、ありがとうございました」
 二人はその居酒屋を出た。夜の九時を過ぎたのに空はかなり明るい。東の空が朱色に染まっている。東の地平線の向こう側に禍々しいモノがあるのが良く判る。
「電車は10時過ぎにはとまるんだな」
「はい」
「そうか。ラーメンでも食うか」
「賛成です。酒のあとのラーメン。ほんとはいけないんでしょうが」
「ほんとはな。さすがに明日の今日だ。女房もぶうぶういわないだろう」
 駅前まで歩いた。ほとんどの店が閉まっているなかで、ラーメン屋が一軒ぽつんと開いていた。
「おい。まだやっているラーメン屋があるぞ。入ろう」
 二人はのれんをくぐって入った。おやじが一人カウンターの向こうに立っている。
「いらっしゃい。きょうは最後ですから私にまかせてもらえませんか」
「うん。ラーメンでありさえすればいい」
「はい。お客さんたちが最後のお客です。もう麺が二人分しかありません」
「おれたち、初めての客だよ」
「いいんです。この麺がなくなれば終わりにしようと思ってました。わたしゃラーメン屋で終わりたいんです」
 そのラーメンは二人がこれまで食べたうちで最もおいしいものだった。
「おいしかった。ごちそうさん。このスープ絶品だったな」
「はい」
「おれはいつもラーメンの汁を全部飲むと女房に叱られるんだ」
「ぼくもです」
「明日が最後の日なんだから、高血圧も尿酸値も血糖値もくそくらえだ」
「さ、帰りましょうか」
「うん。やっぱり女房と死にたいな」
 ラーメン屋から出た。冬なのに汗ばんできた。東の地平線の向こうから太陽ではないあれが半分出ている。
 
 
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )