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一球

 甲子園球場。阪神タイガースVS神戸ドルフィンズ。セリーグ最終戦。同率首位の両チーム。勝った方が優勝です。
 9回の裏。1対0でドルフィンズがリードしている。ツーアウト満塁。マウンドにはドルフィンズの守護神木崎。フルカウント。あと1球でドルフィンズ球団創設以来の悲願の優勝を実現します。
 阪神のバッターは代打の神様椎山。サインがなかなか決まりません。木崎首を振ります。まだ振ります。キャッチャー緑川マウンドに行きます。相談がまとまったようです。木崎投げました。椎山打ちました。大きい。入りました。代打逆転サヨナラ満塁ホームラン。阪神タイガース優勝。ドルフィンズ悲願達成ならず。

「あれから20年だ」
「木崎さんは野球には未練はないんですか」
「ないね」
 木崎はその年に任意引退。ここS市で保険の代理店をやっている。事務所に電話一つ置いて、客から受けた保険の契約を保険会社に取り次いでマージンを稼いでいる。
「オレのことを憶えている人もいて、草野球に誘われることもあるが、オレはもう野球のボールを持つのはイヤなんだ。マスター、オレのボトルはまだあるな」
「あります」
 鏑木はブラックニッカのボトルを見せた。まだ半分ほど残っている。
「おかわり。ロックで」
「今年は阪神と巨人の一騎打ちになりそうですね」
「そうか。野球の話はやめよう」 
 鏑木は心ないことをいったと反省した。木崎はS市生まれだ。現役のときの自宅は神戸にあったが、引退してS市に引っ越してきた。独身の木崎は市内のマンションに事務所兼自宅を持っている。駅前のかなり古いマンションだ。
 神戸大阪のベットタウンとして人口が増えているS市。新築のマンションも多い。かなり高級なマンションもある。しかし木崎のマンションは老朽化した格安といわれるマンションである。保険の顧客を回っているのも中古の軽自動車で回っている。
 木崎が海神の常連になったのは5年ほど前からだ。有名な野球選手だったから鏑木は木崎のことを知っている。しかし、木崎は自分が野球選手だったことを忘れたいようだ。野球の話はしない。客で木崎のことを知っていて声をかけてくる者もいるが「他人のそら似」といってとぼけている。鏑木もそんな木崎を思いやって極力野球の話題はしないように気をつけていた。今晩はうっかりしていた。
「安い中古車が欲しいんだ。軽でいい。今の車はさすがに寿命なんだ。どっか適当な中古車屋しらないか。鏑木さん」
「わかりました。ウチの常連で修理工場やってる人がいますから、その人に聞いてみましょう」
「頼むよ。できるだけ安い中古でね」
 神戸ドルフィンズの守護神といわれた男だ。かなりの年俸をとっていたはずだ。それが木崎は金に困っている様子だ。ここ海神で飲む酒はいつもブラックニッカ。スコッチやバーボンは飲まない。

 カラン。カウベルがなった。ドアが開いた。足音がして、木崎に近寄ってくる。トン。ウィスキーのボトルが置かれた。バーボンだ。ワイルドターキーだ。
「お前、バーボンが好きだったな。マスター、ロックにしてやってくれ」
「緑川」
「久しぶりだな。吉崎さんが亡くなった」
「知ってる」
「告別式は明日だ。お前も参列するだろう」
 吉崎勇之助。あの時の監督だ。緑川も吉崎も木崎と同じ時期に球団を去った。神戸ドルフィンズは、結局、あの時の2位が最高で、そのあと5位が一度あっただけでずっと最下位であった。もともと不人気球団だったが、観客動員数は減少の一途。親会社も球団身売りを模索したが、買収する企業はなく、10年前に消滅した。少数の選手は他球団に移籍したが、ほとんどの選手は引退した。
「いやだ。オレがどの面下げて、そんな場に行ける」
「あしながおじさんはもういいよ」
「なんのことだ」
「お前、オレの娘の教育資金を出してくれていただろう」
「知らん」
「とぼけてもムダだ。オレにだけではないだろう。おい。入って来い」
 男が3人入ってきた。
「塩沢、荒川、赤城」
 いずれも、元神戸ドルフィンズで野球とは縁を切った男たちである。
「女房が白状したぞ。オレが癌で入院した時、金を出してくれただろう。おかげでオレは命拾いした。お前はオレの命の恩人だ」
「塩沢、再発は」
「6年たった。もうだいじょうぶだ」
「あの時の大量注文があったからオレの会社は立ち直った。おかげでオヤジから継いだ荒川鉄工をつぶさずにすんだ。あれ、本当の注文主はお前だろう」
「白状しろよ木崎」
「なんのことだ。赤城」
「お前はみんなに金を出していただろう」
 ワイルドターキーのロックをひと口飲んだ木崎は、目を伏せた。4人の視線を避けている。
「もう気がすんだろう木崎」
 緑川がいった。 
「あの時、オレはマウンドに行って、空振りを取れるフォークを投げろといった」
「あの日のオレのフォークは安定してなかった。ワイルドピッチになる可能性があった。同点になったかも知れなかった」
「お前は、まかせろといったな」
「そうだ、オレはストレートを投げた」
「そしてお前は打たれた」
「そうだ。あのオレの1球が球団をつぶし、みんなを路頭に迷わせた」
 塩沢が木崎の尻をポンとたたいた。ちょうどピンチにマウンドにかけより三塁にもどる時のように。
「お前だけではない。あの日の4回、オレの打球がもう少し伸びていたら」
「いいや。あそこでオレがバントを決めていたら」
 荒川がいった。赤城もいう。
「そもそもオレがエラーしたから満塁になったんだ」
「キャッチャーにもいわせてくれ。オレのキャッチングがうまければ、お前は安心してあそこでフォークを投げていたはずだ。お前にストレートを投げさせたのはほんとはオレだ」

 甲子園球場。今シーズン初めての阪神VS巨人戦。始球式が始まる。この始球式は元阪神タイガース代打の神様椎山勇次郎氏の発案尽力によって実現した。20年前神戸ドルフィンズという球団があった。今日の始球式はその神戸ドルフィンズの守護神といわれた木崎進氏が務める。なおキャッチャーは緑川義弘氏、一塁荒川信一氏、 二塁赤城宗助氏、三塁塩沢哲郎氏、この日のために元神戸ドルフィンズの選手が集まった。そしてバッターは代打の神様椎山勇次郎氏。
「木崎、投げました。大きな落差のフォークボール。椎山空振り」

 木崎は乞われてS市立S高校野球部の監督を引き受けた。今年の夏、生徒たちを率いて、再び甲子園に行った。 
 
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