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とつぜんコラム №163 テレビを考える

 最近の若い人はテレビを観ないらしい。小生の知人の息子さんで来春社会人になる人がいる。卒業したら家を出て独立するそうだが、パソコンは新しいのを買うつもりだが、テレビは買わないそうだ。その息子さんの友人たちもほとんどテレビは持っていないとのこと。彼らは今は大学院生だが、情報収集はパソコンがあれば充分らしい。若い人にとってテレビは情報収集の道具として必要ないということだ。
 そういえば、小生も最近はテレビをあまり観ない。小生が定期的に観ているテレビ番組といえば、「すずらん本屋堂」「美の壷」「グレーテルのかまど」ぐらいか。あとシーズンになれば阪神タイガースの試合は必ず観る。それに上方落語が放送されれば観てDVDに保存している。ドラマ、バラエティのたぐいは、まず観ない。昔は「探偵ナイトスクープ」を観ていたが、企画内容がどんどん薄くなってきたので観なくなった。
 テレビはかってはマスコミの王者だった。動く画が観られる。音が聞ける。他の媒体、新聞、雑誌、ラジオが持っていないものをテレビはすべて持っている。動く画が観え、音が聞けるモノといえば映画ぐらいしかなかった。映画は外出しなくてはいけなくて、いわばハレのモノだ。それが家庭で映画と同じように動画と音が楽しめる。これは画期的なことだった。
 そのテレビはいまや王座を陥落しつつある。テレビを創って送り出している人たちは、そのことに気がついていないのではないか。いまだにマスコミの王者のつもりで、自分を上に置いて、上から番組を放送しているのではないか。
 小生は以前、阪神大震災関連でテレビに出演したことがある。連絡を受け、近くの公園で待ち合わせて、そこでインタビューを受け、震災当時のことをしゃべらされたのだが、周囲のスタッフの態度にどうも横柄な印象を受けた。あまり愉快な体験ではななった。あんたの体験をテレビでいってやるという感じを受けた。
 報道番組のナレーション。悲しい事件を伝える内容なら悲しい調子のナレーション、憤慨すべき内容なら憤慨しているようなナレーションをかぶせて放送している番組がある。余計なお世話である。その事件を知って、悲しがるか、憤慨するかは、当方で決める。別にテレビに導いてもらう必要はない。余計ないお世話といえる。あったことを感情を交えずに伝えればいいのだ。
 テレビはこの余計なお世話が多い。彼らはどうも視聴者をバカだと思っているのではないか。バカだからナレーションで導いてやらなくてはならない。バカだから、この程度の「タレント」を出しておけば喜ぶだろう。笑うだろう。ところが、放送を受ける方、視聴者は彼らが思う以上にレベルが上がっているのだ。そらそうだろう。日本人がテレビを観はじめて60年ほど。60年もテレビをみ続けていれば、どんな人でも勉強するだろう。別段意識して勉強しなくても、自然とテレビなるモノが発する情報を受け取る方法が身につくというモノだ。それに比べてテレビ番組を送信するほうは、さしてレベルが上がらなかったのではないか。もちろん彼らも上がっているのだろう。しかし受ける方の上がるスピードの方が速かった。
 以前は、このレベルの差はさして問題はなかった、ところが、今は決定的な差となった。しかも、その差はこれからますます大きくなっていくだろう。
 ある日、だれも観ていないテレビが無人の部屋でついていた。

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