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親切な男

 携帯電話が鳴った。間違い電話だった。電話をポケットに戻して駅に向かった。その時、後ろから呼び止められた。
「手袋落としましたよ」
 中年の男が、私の手袋を持って小走りに寄って来て、手渡してくれた。
「ありがとうございます」
 私は、軽く頭を下げた。さっき電話を出した時に、落としたのだろう。
「いえ」
 男はそれだけいうと歩き去った。サラリーマンと思われる。私より少し年上。50代後半ぐらい。気さくな感じで好感が持てる男だった。
 電車が来た。いつもは座れるが、今日は妙に混んでいる。座れない。吊革を持って立つ。文庫本を読む。私はいつも電車では読書している。
 ページをめくるため、手を吊革から離した時、電車がゆれた。バランスを崩して倒れそうになった。後ろから背中を支えてくれた人がいた。倒れずにすんだ。
「どうも、ありがとうございます」
 振り返ってお礼をいった。手袋を拾ってくれた男だった。
「あなたもこの電車ですか」
 男は気さくに声をかけてくれた。
「重ね重ねありがとうございます」
「いえいえ、同じ電車とは偶然ですね」
 二人とも吊革につかまって言葉を交わした。天気の話、景気の話、なにくれとない会話をした。男は、非常にフレンドリーで、初対面の人物とは思えぬ自然な会話ができた。
 電車が次の駅に着いた。
「それじゃ、私はここで降りますから」
 男は、軽く手を振って電車から降りた。朝から気持ちの良い経験をした。私と同じ駅から乗った。乗車時間も同じだ。これからも電車内で会うこともあるだろう。良い友人になれそうだ。
 私はめったに残業はしない。毎日、この時間に電車を降りる。駅前の駐輪場に向かう。駅から自転車で5分走ったところがわが家だ。前のカゴにカバンを入れて自転車を引っぱり出す。出ない。両隣の自転車のハンドルが、私の自転車のハンドルにひっかかっている。片方を押して外すと、片方が深くくい込む。誰かに片方を押さえてもらわないと外れそうにない。事務所を見るが、管理人は席を外している。困った。
「私がこっちを押さえておきます。あなたはそっちを押しながらご自分の自転車を引き抜いてください」
そういうと男は左の自転車を押さえてくれた。いわれた通りすると、自転車は簡単に抜けた。男の顔を見てハッとした。あの男だった。不思議なこともあるものだ。同じ男に1日に3度も親切にされた。不思議といえば不思議だが、この駅の利用者で、電車での目的地が同じ方向なら、こういうこともありうる。
「ありがとうございます。あなたもここから自転車ですか」
「はい。そうです」
 見ず知らずの人物とはいえ3度も親切にされた。小さな親切だが、親切は親切だ。それに非常に好もしい人物だ,
「そこで軽く一杯やりませんか」
 もちろん飲み代は私が持つつもりだ。
「そうですね。では軽く」
 駅前の小さな居酒屋に入った。彼はよく飲み、よく食べた。実に楽しい酒だった。なんということもない話をした。天候の話。不景気の話。プロ野球の話。同じプロ野球チームのファンであることがわかった。そのチームの話題で盛り上がった。
 1時間ぐらい二人で飲んでいただろう。それではこのへんでということになった。私が先に立ちレジに行った。彼が財布を出そうとした。
「あ、いいです。私が誘ったんだから私が持ちます」
「それは悪い、ワリカンということで」
「いえいえ。今日は何度も親切にしていただてますし」
「そうですか。今度は私に出させてくださいね」
 居酒屋の前で別れた。 
 それから、しばらく彼とは会うことはなかった。
 部長に呼ばれた。例の件に違いない。
「どうするんだ君。あそこがヤバイことは判っていたはずだが」
 私が担当する取引先のK電気が倒産した。毎月、安定した売上げを見込める、私の持っている得意先ではAランクである。ところが、ここ数ヶ月は売上げが減少し、K電気が危ないらしいとの噂が営業マン仲間で飛び交っていた。部長からもそれとなくK電気を切るようにいわれていた。
 ところが、K電気の購買課長とは長年の付き合い。発注があれば受注せざるを得ない。それに、私自身、こんなに早くK電気が倒産するとは思っていなかった。不幸中の幸いだが、購買課長から納品を先延ばしにしてくれとの連絡があった。自分の会社が倒産するとはいえないが、購買課長として、私がこうむる被害を最小限に防いでくれた。
 商品はわが社の倉庫にある。K電気に代わる売り込み先を見つければ、部長は不問に付すといってくれた。わが社でもリストラの噂が出ている。このミスをどうにかしなければ、私も決して安泰ではない。あらゆるつてを頼って売り込み先を探した。飛び込みで営業もした。しかし、2000個もの電磁リレーを一括して必要とする会社はない。万策つきた。
「係長電話です。外線2です」
 隣の女子社員が面倒そうにいった。
「どこから」
「さあ、リレーの件とおっしゃてます」
「はい。電話かわりました」
「私、NI電機のYと申します。初めてお電話します。OM社に電話したところ、御社にOMのリレーMY24DC24Vを2000個納入したと聞きました。もし、それがまだ在庫がありましたら、弊社にお売りいただきたいと思いまして」
 JRのA駅を降りて、線路沿いに西へ行く。踏み切りがある。そこを南へ真っ直ぐ。ホームセンターの隣。ここだ。NI電機。フォークリフトが忙しくトラックから荷を降ろしている。配電盤を造っている会社だとYはいっていた。
 正門を通ると、工場の入り口がある。発電所用の配電盤が何本か立てられていて、従業員が配線作業に勤しんでいる。今時、ある程度の受注量を確保していると見る。工場の向こう側からはクレーンの音が聞こえる。そちらでは完成品の搬出作業をしているようだ。
 階段を上がった2階が事務所だ。ムダ話をしている社員はいない。FAXしている者。電話を架けている者。声が聞こえてくるが、発注した物品の督促をしているようだ。
 私は仕事柄、このような工場には数多く訪問しているが、真っ当で健康な会社と見た。なんとか得意先として確保したいものだ。
 女子社員に名刺を渡して来意を告げると、応接室に通された。贅沢ではないが整理整頓が行き届いた応接室だ。ほどなくすると私より、いくぶん若い作業服の男が入ってきた。名刺をくれた。Yだ。肩書きはNI電機資材部購買課長。
「いやあ助かりました。短納期の仕事が入りまして、発注元がリレーはOMのMY24DC24Vを指定していまして、1週間で2000個必要だったんです。で、見積もりは持って来ていただけましたか」
 もちろん見積書は用意してある。少々高い見積もりでも、商談は成立するだろう。しかし、このNI電機は息の長い取引先にしたい。私なりに適正な価格を設定したつもりだ。
 見積書をだす。Yが目を通す。
「これで結構です。ではMY24DC24V、2000個発注です。実はもう注文書は作ってあるのです。あとはこれに単価を記入して、部長の印をもらうだけです。ちょっとお待ちください」
 Yは出て行き、15分ほどで戻ってきた。
「おまたせしました」
 単価、と合価、それに部長印を押した注文書を渡した。
「部長がごあいさつしたいといってます。実はあなたがこのリレーをさばきたがっておられることは部長から聞きました。私はOMに確認の電話を入れただけです」
「部長さんはなぜご存知だったんですか」
「わかりません」
 部長が入ってきた。あの男だった。
「おとうさん。こんどの日曜は家にいる」
 娘が聞いた。
「いる。なんだ」
「ちょっと人を連れてくるから、あってくれる」
 娘が彼氏を連れてきた。
 とんとん拍子に話が進んだ。女房が彼氏を気に入ったことが、話の大きな推進力となった。
 そして、今日。ここはこの街では一番の中華料理屋。私、女房、娘の3人で、彼氏の家族を待っている。
 来た。父親は、あの男だった。
 
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