風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

まかす

2013年02月18日 | 雑感

子供の頃、何でかは分かりませんが、船の操縦士になりたいと思っていました。
船なんか見たこともないのに、そう思っていました。
友達なんかも、男の子であればプロ野球選手、ヒーロー、女の子であればケーキ屋さんとか看護婦さんとかが多かったように思います。
ある意味、成りたいことが明確だった時代は幸せでした。
成りたいとただそう思うだけで心が躍りました。

そのうち成長するにつれ、成りたいということよりも、なにに成れるか、なにが得かという計算が先に立っていきます。
成りたいけれども資格がどうの、学歴がどうの、職歴がどうのといった話が重きをなしてきます。
なにかに成りたかった自分というものが、どんどん置き去りにされていきます。

そうして、ふと自分を鑑みてみますと、なにに成りたかったのかが分からなくなっている自分がいます。
やれること、やれないこと、やりたいこと、やりたくないことというのは挙げることはできますが、
なにに成りたいかと問われれば、言葉に詰まります。
自分はなにに成りたかったのだろう?

成りたい自分に焦点を当ててこなかった結果、やれることを辛うじてしているだけの惨めな自分がいます。
俗な言い方をすれば、決められたレールを歩くようにすっかり洗脳されていたのでしょう。
認めたくはありませんが。
やりたいことよりも、やれることをしろ。
夢を追わず、現実を見ろ。
何よりもお金を稼いで自立しろ。

そんな網の目のように張り巡らされた「現実」のルールに対しては、できるだけ抵抗もし、逸脱もしてきたつもりでした。
でも、抵抗とか逸脱というのは、「現実」のそんなルールの存在を前提としてのジタバタした試みです。
結果的にいえば、そんなルールを超脱することはできませんでした。

超脱するとは、いかなる「現実」のルールに縛られることなく、成りたい自分に成ることです。
そうすることで、現実のルールが怒濤のように自分を苦しめにかかったとしても、成りたい自分で居続けることです。

そんな成りたい自分であり続ける強さがまだ自分に残っているだろうかと自分に問います。
それ以前に、成りたい自分が自分に残っているだろうかと自分に問います。
否、問い続けています。

冬の寒さや静寂は嫌いではありません。
春の喜びをすっかり忘れてしまっているような気がするだけです。
花はその時を迎えれば迷いなく咲くだけです。
成りたいだの、成りたくないだのの、世迷い言がありません。
散るときには散るだけです。
グズグズした執着もありません。

さてさて、です。
愛というのは絶対的な信頼です。
自分を咲かせることさえ、ためらい、疑う人間には、愛という境地は訪れません。
まだ根っこが土の中に張っているうちに、咲かせるなら咲かせなければ成りません。
それよりも、まず、おまえは本当におまえという花を咲かせたいのかという問いに、答えなければなりません。

しばし黙考。
「咲かせずに終わるのは嫌だ」というのがまず最初に来ます。
「咲かせたい!」という朗らかな気持ちが最初に来ません。
この期に及んで、我ながら嫌になります。

おそらく、自分が咲かせる花のイメージができないためでもあります。
なんのためにだとか、こうすればこうなるだとか、そんな意図的な思考にどっぷり染まっているわけですから、
花を咲かせれば、自ずから虫が集まり、実がなり、風に揺れて地に落ちるという風流が身についていません。

任す。
年を取ったら、味わいたい境地なのかも知れません。