遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
当たり前のことですが、いろいろなことが毎日起こり続けます。
それに対して、違和感があろうが何であろうが、いろいろなことが起こり続けます。
後で考えれば、なるほどそういうことだったのかと思うことがほとんどです。
起こることは、起こるべくして起こるということです。
そして、今でも起こるべきことは起き続けるということです。
既に年頭は過ぎました。
年末年始の御礼御挨拶を欠いたまま、無礼に生きています。
それではよくないと思いつつ数十年です。
何はともあれ、何とか足元を固めたいと必死に生きてきた数年ではありました。
なんとかかんとか、足元が固まりつつある感触はあります。
楽しいかと聞かれれば、黙るしかありません。
楽しかろうが苦しかろうが、覚悟の上の途上です。
楽しさも苦しさもひっくるめた上の行脚です。
幸いなことに、悔いというのは何ひとつありません。
どこへ向かっている行脚なのか?
ぼくがぼくであるための行脚です。
ぼくがぼくであることが幸せであるための行脚です。
その他はすべて遊戯です。
ビジネス遊戯、恋愛遊戯、哲学遊戯・・・。
でも遊戯もとても大切な行脚の行程です。
行脚自体が壮大な遊戯なのだとは思いますが。
今年初めてのブログなので、「愛」について書きます。
愛という訳語ほど厄介なものはないかもしれません。
仏教では「愛」という言葉は、愛執という「執着心」に近い超脱すべき心境とされていますが、
おなじ「LOVE」という言葉で、西欧の精神世界は至高の世界をイメージしているようです。
好きな人や家族ととずっと一緒にいたいというのと、世界人類の恒久的平和を願う気持ちというのは、
同じ「愛」という言葉でくくれるもなのでしょうか。
誰かを大事にしたいという気持ちということでは一緒なのですが、「自分にとって」大切なものに執着するという気持ちと、
「自分には直接的には関係ない」何かを大切に使用とする気持ちとの間には、
大きな大きな心境の境界なもののようなものがあると思います。
自分と直接的にはかかわりのない人に対する大きな関心や共感や心痛というのは合理的な反応ではありませんが、
きわめて精神的な反応です。
自分に関わる人に対する共感や同情や哀感というのは、猫や犬でも持つ精神的というよりは生物的な反応です。
猫はアフリカや中東の猫に同情はしません。
で、ぼくが思うに、「愛」という概念がうまく日本人に溶け込めない理由は、もっとすぐれた概念が東洋にあるからだと思うのです。
東洋といい方が最近好きではありません。
少なくとも日本にはあるからなのだと思います。
それは「慈(いつく)しみ」と「愛(め)でる」です。
まさに「慈愛」という言葉があります。
慈愛という言葉には、誰かを独占的に愛し愛されたいというニュアンスは微塵もありません。
仏教では、「慈悲」という言葉もあります。
「慈」
この言葉がキーポイントのような気がします。
なんにせよ、誰かが何かをしてくれて自分を幸せにしてくれるという無意識の願望を持っていると、
この先どんどん生きづらくなると思います。
「自分」という宝の山をとっとと発見しないと、ですね。
宝の山は自分以外の外にはありませんよ。
偽物だから、様々な攻略を巡らしては、人目を引いてるわけです。
さてさて、その「自分」とは?
そこからがスタートです(笑)
当たり前のことですが、いろいろなことが毎日起こり続けます。
それに対して、違和感があろうが何であろうが、いろいろなことが起こり続けます。
後で考えれば、なるほどそういうことだったのかと思うことがほとんどです。
起こることは、起こるべくして起こるということです。
そして、今でも起こるべきことは起き続けるということです。
既に年頭は過ぎました。
年末年始の御礼御挨拶を欠いたまま、無礼に生きています。
それではよくないと思いつつ数十年です。
何はともあれ、何とか足元を固めたいと必死に生きてきた数年ではありました。
なんとかかんとか、足元が固まりつつある感触はあります。
楽しいかと聞かれれば、黙るしかありません。
楽しかろうが苦しかろうが、覚悟の上の途上です。
楽しさも苦しさもひっくるめた上の行脚です。
幸いなことに、悔いというのは何ひとつありません。
どこへ向かっている行脚なのか?
ぼくがぼくであるための行脚です。
ぼくがぼくであることが幸せであるための行脚です。
その他はすべて遊戯です。
ビジネス遊戯、恋愛遊戯、哲学遊戯・・・。
でも遊戯もとても大切な行脚の行程です。
行脚自体が壮大な遊戯なのだとは思いますが。
今年初めてのブログなので、「愛」について書きます。
愛という訳語ほど厄介なものはないかもしれません。
仏教では「愛」という言葉は、愛執という「執着心」に近い超脱すべき心境とされていますが、
おなじ「LOVE」という言葉で、西欧の精神世界は至高の世界をイメージしているようです。
好きな人や家族ととずっと一緒にいたいというのと、世界人類の恒久的平和を願う気持ちというのは、
同じ「愛」という言葉でくくれるもなのでしょうか。
誰かを大事にしたいという気持ちということでは一緒なのですが、「自分にとって」大切なものに執着するという気持ちと、
「自分には直接的には関係ない」何かを大切に使用とする気持ちとの間には、
大きな大きな心境の境界なもののようなものがあると思います。
自分と直接的にはかかわりのない人に対する大きな関心や共感や心痛というのは合理的な反応ではありませんが、
きわめて精神的な反応です。
自分に関わる人に対する共感や同情や哀感というのは、猫や犬でも持つ精神的というよりは生物的な反応です。
猫はアフリカや中東の猫に同情はしません。
で、ぼくが思うに、「愛」という概念がうまく日本人に溶け込めない理由は、もっとすぐれた概念が東洋にあるからだと思うのです。
東洋といい方が最近好きではありません。
少なくとも日本にはあるからなのだと思います。
それは「慈(いつく)しみ」と「愛(め)でる」です。
まさに「慈愛」という言葉があります。
慈愛という言葉には、誰かを独占的に愛し愛されたいというニュアンスは微塵もありません。
仏教では、「慈悲」という言葉もあります。
「慈」
この言葉がキーポイントのような気がします。
なんにせよ、誰かが何かをしてくれて自分を幸せにしてくれるという無意識の願望を持っていると、
この先どんどん生きづらくなると思います。
「自分」という宝の山をとっとと発見しないと、ですね。
宝の山は自分以外の外にはありませんよ。
偽物だから、様々な攻略を巡らしては、人目を引いてるわけです。
さてさて、その「自分」とは?
そこからがスタートです(笑)