今、私たちは公民館活動について、そのシステムが立ち上がったときと社会情勢や住民のライフスタイル、ニーズの変化により転換の岐路に立たされています。
そうした中、そのための改革のためのアクションプラン(行動計画)・案を策定し、松山市公民館連絡協議会の理事会に投げかけを行いました。
どの理事も、公民館がこのままでいいとは思っていないという共通認識を得ることができましたが、その内容については、まさにこれから議論を深めようということになりました。
担当者の中には、もっとスムーズにことが運ぶと思った者もいるようですが、「改革」とは、そんなに生易しいものではありません。
過去に、私は行政改革の担当者として、やればやるほど身内に嫌われていくのが、ひしひしと感じた時期があります。
「改革」とは、それほど過酷なものなのです。
しかし、匙(さじ)は投げられました。
後ろに引き下がるわけにはいかないのです。
そう覚悟を決めたとき、毎週土曜日に定期的にくる三重県の職員の山路さんからのメーリングリストが届きました。
その内容は、次のようなものです。(山路さんに許可をいただきましたのでご紹介します。)
【改革に伴う痛み】
カエサルはローマの政治を改革するために、自らの軍団を率いてルビコン川を渡ったとき、「犀は投げられた」と叫んだという。
ひとたび改革というサイコロを投げてしまったら、そのサイコロの目はもう変えられない。だとすれば、自分の運命をすべて投じて改革に乗り出すしかない、何があっても後悔はしないとカエサルは言っているのだ。
最近の自民党やマスコミは「痛みを伴う改革」と言っているが、改革とは最初から痛みや犠牲を伴うものと決まっている。「痛みを伴わない改革」などはどこにも存在しない。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、多くの国民に幸せをもたらすものでなければ、それは改革とはいえないということである。
国民のために本当の改革を実行しようとするならば、その理念とビジョンを明確に掲げて、国民に示さなければならない。
そして、その上でひとたび改革をしようと決意すれば、どこまでも前進あるのみで、妥協は許されない。もし、妥協するのであれば、最初から改革などしないほういい。
今の日本は改革を必要としている。そのことに異論を持つ人はいないだろう。
しかし、いざ改革を実行しようとすると、マスコミをはじめ、さまざまなところから「総論賛成、各論反対」の大合唱が起こる。「もっと人にやさしい改革を」という話だが、僕から言わせれば、それは「改革を止めろ」と言っているに等しい。
もちろん、改革によって既得権を失い、不利益をこうむる人はかならず出る。
既得権者の中には、それまでの仕事を失う人たちだって出てくるかもしれない。
しかし、大多数の人たちに幸せをもたらすためには、それは乗り越えなければならない。
改革がもたらす「現実」におびえて、改革そのものを中途半端なものにしてしまうのならば、最初から改革などやらないほうがいい。
(「小沢主義」小沢一郎著 集英社インターナショナルより)
~~~~~~~~~~~~ここまで引用~~~~~~~~~~~~~~
痛みを伴わない改革などなく、あるとすればそれはせいぜい小手先の改善レベルのもので、それは改革と呼ぶに値しません。
現状の課題を克服するため、変革しようとすれば、多かれ少なかれ、必ず痛みが生じます。その際、痛みを伴うから改革を止めようという、本末転倒の議論にならないように、その痛みは誰が被る痛みか、そしてその痛みを乗り越えた暁には今より幸福になることができるかを冷静に考えなければなりません。
痛みを被る人たちがある特定の、これまで理由なく既得権益に預かっていた層ならばその痛みより、国民大多数の利益の方を当然優先すべきです。
また、国民一般が広く痛みを伴うとしても、その痛みを克服すれば今よりずっと幸せになるのであればそれを説明して、一緒に乗り越えようと説くのがリーダーの役割です。
かのレーニンも漁民相手にはロシア革命の意義を説くのではなく、革命後の幸せや社会を話しています。
また、日産を再生したカルロス・ゴーンは、V字回復ができたら必ず社員に報いると約束し、社員が痛みに耐え、業績が回復した時には、あの世界のトヨタをはじめ同業他社が横並びのベア凍結をしている中でベアをアップしたのです。
私は、ここに本物の改革を見る思いがします。
どうですか?
全国には、同じ志をもつ人たちがいます。
そして、同様の思いを抱きながら、突き進んでいる人たちがいます。
自分だけが、がんばっているんじゃない。
勇気が出てきたメールでした。
そうした中、そのための改革のためのアクションプラン(行動計画)・案を策定し、松山市公民館連絡協議会の理事会に投げかけを行いました。
どの理事も、公民館がこのままでいいとは思っていないという共通認識を得ることができましたが、その内容については、まさにこれから議論を深めようということになりました。
担当者の中には、もっとスムーズにことが運ぶと思った者もいるようですが、「改革」とは、そんなに生易しいものではありません。
過去に、私は行政改革の担当者として、やればやるほど身内に嫌われていくのが、ひしひしと感じた時期があります。
「改革」とは、それほど過酷なものなのです。
しかし、匙(さじ)は投げられました。
後ろに引き下がるわけにはいかないのです。
そう覚悟を決めたとき、毎週土曜日に定期的にくる三重県の職員の山路さんからのメーリングリストが届きました。
その内容は、次のようなものです。(山路さんに許可をいただきましたのでご紹介します。)
【改革に伴う痛み】
カエサルはローマの政治を改革するために、自らの軍団を率いてルビコン川を渡ったとき、「犀は投げられた」と叫んだという。
ひとたび改革というサイコロを投げてしまったら、そのサイコロの目はもう変えられない。だとすれば、自分の運命をすべて投じて改革に乗り出すしかない、何があっても後悔はしないとカエサルは言っているのだ。
最近の自民党やマスコミは「痛みを伴う改革」と言っているが、改革とは最初から痛みや犠牲を伴うものと決まっている。「痛みを伴わない改革」などはどこにも存在しない。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、多くの国民に幸せをもたらすものでなければ、それは改革とはいえないということである。
国民のために本当の改革を実行しようとするならば、その理念とビジョンを明確に掲げて、国民に示さなければならない。
そして、その上でひとたび改革をしようと決意すれば、どこまでも前進あるのみで、妥協は許されない。もし、妥協するのであれば、最初から改革などしないほういい。
今の日本は改革を必要としている。そのことに異論を持つ人はいないだろう。
しかし、いざ改革を実行しようとすると、マスコミをはじめ、さまざまなところから「総論賛成、各論反対」の大合唱が起こる。「もっと人にやさしい改革を」という話だが、僕から言わせれば、それは「改革を止めろ」と言っているに等しい。
もちろん、改革によって既得権を失い、不利益をこうむる人はかならず出る。
既得権者の中には、それまでの仕事を失う人たちだって出てくるかもしれない。
しかし、大多数の人たちに幸せをもたらすためには、それは乗り越えなければならない。
改革がもたらす「現実」におびえて、改革そのものを中途半端なものにしてしまうのならば、最初から改革などやらないほうがいい。
(「小沢主義」小沢一郎著 集英社インターナショナルより)
~~~~~~~~~~~~ここまで引用~~~~~~~~~~~~~~
痛みを伴わない改革などなく、あるとすればそれはせいぜい小手先の改善レベルのもので、それは改革と呼ぶに値しません。
現状の課題を克服するため、変革しようとすれば、多かれ少なかれ、必ず痛みが生じます。その際、痛みを伴うから改革を止めようという、本末転倒の議論にならないように、その痛みは誰が被る痛みか、そしてその痛みを乗り越えた暁には今より幸福になることができるかを冷静に考えなければなりません。
痛みを被る人たちがある特定の、これまで理由なく既得権益に預かっていた層ならばその痛みより、国民大多数の利益の方を当然優先すべきです。
また、国民一般が広く痛みを伴うとしても、その痛みを克服すれば今よりずっと幸せになるのであればそれを説明して、一緒に乗り越えようと説くのがリーダーの役割です。
かのレーニンも漁民相手にはロシア革命の意義を説くのではなく、革命後の幸せや社会を話しています。
また、日産を再生したカルロス・ゴーンは、V字回復ができたら必ず社員に報いると約束し、社員が痛みに耐え、業績が回復した時には、あの世界のトヨタをはじめ同業他社が横並びのベア凍結をしている中でベアをアップしたのです。
私は、ここに本物の改革を見る思いがします。
どうですか?
全国には、同じ志をもつ人たちがいます。
そして、同様の思いを抱きながら、突き進んでいる人たちがいます。
自分だけが、がんばっているんじゃない。
勇気が出てきたメールでした。