小さな栗の木の下で

保護犬のミニチュア・ダックスを引き取り、
小型犬との暮らしは初めて!という生活の中で、感じたことを徒然に…。

父の戦時下の話

2015-08-15 | つぶやき
父は昭和5年生まれ、母は昭和10年。
どちらも太平洋戦争の戦中派だけど、
育ったというか、そのときいた場所の違いから、
戦争の思い出の悲惨さに差がある。

父は東京育ちで、千葉に疎開した経験もあるらしい。
東京では周知のとおり食べ物も手に入れにくく、爆撃も激しく、
育ちざかりの子どもにはつらい場所だった。

一方、母は静岡・富士川を渡った辺りの郷にいて、
育った家が農家だったこともあり、
食べ物には困らなかったようだし、
戦時下の父の日常とは、かなり温度差がある。

だから、8月15日の玉音放送に対しても、
価値観が180度変わってしまった、その後の生活に対しても、
思い入れ方がだいぶ違うように思う。

子どものころ、多分、夕ご飯のときだったと思うのだけど、
父は子どもたちを前に、よく戦争の話をした。
子どもたちというのは、兄と私と妹の3人。
ほかのきょうだいが、どう記憶しているか分からないけど、
子ども心に恐ろしく、私の心に残っているのが
東京大空襲のときの話。
耳にタコができるほど、聞かされていたように思う。

父方の祖父は、次男坊だったことから家を継がず、
故郷の静岡から上京し、紙問屋を営んでいた。
東京大空襲のときは、紙がたくさんあった家だから、
火が付いた途端に、いち早く燃えたという。
その説明には、子どもにも「納得!」であった。
何より怖かったのは、向かいの家のお姉さんの話だった。

東京大空襲の日、空襲警報が鳴ると3姉妹は、
防空壕には逃げ切れず、慌てて大きな風呂釜にこもり、
蓋で覆って、3人で身をひそめたという。

父は言った。
3人のお姉さんたちは、風呂釜中で蒸し焼きになった、と。
幼い私には、閉じ込められて蒸しあげられ、
焼け焦げになったというくだりが恐ろしく、
それでもいくら想像しても、漫画チックな描写しか頭に描けず、
父が見た戦火の中の惨状とはかけ離れたものだったと思う。

多分、中学生くらいの少年が初めて体感した、
身近な人のむごい死だったのだろう。
何度も話さずにはいられないほで、
父の心に深く刻まれた出来事だったのだ。

父は、人がすんなり理解できるように
きちんと話をすることができないタイプの人なのだけど、
思い返すと、戦争のころの話をよくしていたように思う。

戦後70年の節目の敗戦記念日ということで、
テレビ番組でも数々の特番が組まれている。
けれど、実際にあの戦争を経験し、語り継げる人たちは、
確実に減っていく。

悲惨な被害国として、そして横暴な加害国として、
腹の底からの声を伝えられる人がいなくなり、
心もこもらない「積極的平和主義」を唱える声が、
これからも支持されていくのでしょうか
コメント (2)
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