<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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「すべて私が悪いのじゃ」の「じゃ」。
「我らが秘密じゃ」の「我ら」。
「そんなことをしてはならぬ」の「ならぬ」。
「ウソはございませぬ」の「ませぬ」。

よくよく考えてみると、時代劇に出てくるセリフの中には不思議な言葉が沢山溢れている。

例えば、最初の「じゃ」。
この「じゃ」は「のです」の時代劇形なのであるが、男であろうと女であろうと使用することができる真に持って万能な言葉なのだ。
しかも江戸城が舞台でも、地方の、例えば熊本城が舞台でも「じゃ」は共通しており、地方性も超越しているという特長がある。
現代の東京や大阪において、誰が「なんとかじゃ」と言うであろう。

現在の日本において「じゃ」を言葉の最後に持ってくるのは岡山県ぐらいであろう。
「そんなこと、ワシにはわからんのじゃ」

大阪生まれの私は父の故郷である岡山を訪れるたびに外国のように感じたのを昨日のことのように覚えている。
ところが外国のように感じた岡山弁の「じゃ」も時代劇の「じゃ」になると不自然さを感じない。
不思議なことだ。

さらに深く考察してみると、時代劇では方言を使用することもほとんどない。
あの「水戸黄門」でも地方の言葉として登場するのは関西弁ぐらいで、それもヤクザか商売人に限られる。
黄門様が九州へ行こうが仙台に行こうが、だいたいは時代劇風共通語が話されており、時代考証も文化考証もメチャクチャになっているのだ。

お侍はまだいい。

参勤交代で江戸詰の経験があるだろうから共通語を話しても不思議ではない。
実際に幕末から明治にかけて活躍した桂小五郎こと木戸孝允は長州藩士でありながら江戸生まれの江戸育ちであったため山口弁は話せなかったのだということを聞いたことがある。

問題は百姓だ。

時代劇のお百姓は必ず語尾に「んだ」とか「だ」とか「だなや」などの言葉を付ける。
一人称は男も女も「オラ」。
例文として「オラ、お侍様も言うことはわかんねんだ」「んだ」「んだ」。
なんてのが書けるのだが、これもう農民をバカにしているとしか言いようがないように思えてならない。

大阪の農民を例にとると庄屋さんは船場言葉。小作人もその使えている庄屋さんの文化程度により言葉はかなり奇麗であったという。
いわゆるテレビなどで耳にする河内弁などは、かなり底辺の人たちが話す言葉であったらしい。
さらに付け加えると船場言葉は大阪訛りの共通語といっても不思議ではない。
テレビで良く聞く「だれだれはん」という「さん」に相当する言葉はテレビと舞台にしか存在せず、実際の船場島の内では「だれそれさん」とちゃんと「さん」付けて読んだという。(上方文化の本に書いてあった)

ということで、時代劇言葉。
ドラマと同様、その時代信憑性はまったくない、というのが真実のところか。

ちなみにあのNHK大河ドラマでも「じゃ」「のよ」「んだ」がはびこっているのだ。


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