<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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「タイが好きでよく行くんですよ」
と言っていたら、知らないうちにスケベおやじに仕立てられたことがある。
変な病気を持っているんじゃないか、とか、少女趣味や変態趣味があるんじゃないか、といった類いのまことに勝手な噂をつくられたので、以後注意を払うようにしている。
まったくもって貧弱な発想だ。
確かに男だけのタイ旅行と言えば、そっち系の旅行が主流だった時代が存在した。
私よりも一回り上の人たち(団塊世代後期の人まで)にはそういうことが一般的で、「タイへ行って豪遊をした」なんてことをさも立派なように喧伝していたアホウなオッサンが存在していたことも確かである。

しかし時代は変わった。

タイ旅行といえば頭の中の古い人たちにはまだまだそういった印象を与えることも少なくないが、今やビーチリゾートや遺跡巡りの拠点として、地域の地位は各段に高まっている。
事実、バンコクに向かう飛行機に乗ると大勢の女性旅行者がお喋りや食事を興じてるし、学生グループが大半を占めていることもある。
さらに金さえ積めば入学できる欧米の大学ではなく、もともとしっかり学業に励んでいないと入学できないチュラロンコン大学へ留学していたり、社会学や宗教の研究をするために滞在している学者や研究者たちも少なくない。

このタイでの滞在スタイルのひとつに「僧侶になる」というのがある。

タイやミャンマーで信仰されている上座部仏教は日本の大乗仏教と異なり一時的に僧侶になるということが可能であり、また男子は生涯のうち1度は仏門に入ることが尊ばれる文化を持っている。
実は私もこの地域を旅するようになって最も関心が高いのが上座部仏教で、日本の仏教と違って地域の生活と密接に結びついたこの仏教文化を最近では羨ましいとまで思うようになっていた。
それにはタイではなくミャンマーでの体験が大きく影響しているが、ともかく、もしこのまま安穏としたサラリーマン生活が続くようであれば一度僧になって修業をしてみるのも良いかも知れない、と今になれば安直な考えも持ちはじめていたのだった。

青木保著「タイの僧院にて」は1970年代、まだまだ現在のような日本人の訪泰スタイルが一般的ではなかった時代に、タイで留学中に仏門に入った社会人類学者の体験記だ。
随分と古い本で、わたしはこの文庫を古本市で見つけたので現在も普通に販売されているかどうか分からない。
しかし、この時代にタイの文化を僧侶の世界という内部に入り込みしっかりと研究しようとしていた人がいたことにわたしは驚きを感じた。

冒頭、僧侶となった著者が托鉢に出かけるシーンからこの体験記は始まっている。
その記述から連想するものは、
裸足で歩くバンコクの街。
割れたコンクリートの路面。
側道を汚しているゴミ。
そしてスコールの跡が残る泥道。
などなど。
バンコクの朝。その生の吐息を感じるのだ。

半年間に渡る著者の僧侶としての生活には驚きと困惑と、そして大きな感動。
日本人が僧侶になるということがいかに大変で、またその激しい体験から売るものがいかに素晴らしいことなのか。
本書は読んでいてある意味羨ましく、ある意味、わたしには出来ない、と思う物語でもある。
出会えて良かったと思える古書なのであった。

~「タイの僧院にて」青木保著 中公文庫~

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