<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





普通一般的に言って、会社の忘年会というものはその費用は会社が負担すべきものである、と私は勝手に思っている。
少なくとも「高価」なものを「自腹」で食べさせる何ぞ許されるものではない、と思っているのだ。

先日わが社の忘年会が京都で開かれた。
なぜ京都で、というかというとわが社といっても京都支店の忘年会だったからだ。

私の普段の勤務は大阪7割、東京2.5割、その他0.5割という勤務スタイルなのだが、所属はなぜか京都支店なのだ。
大阪や東京の事務所で働きながら「京都支店」から給料を頂戴しているへんてこリンな身分なのである。
ということで、京都支店の忘年会となると参加せねばならない。
いわば会社員の務めであるわけで、だからたとえそれが自分のポリシーに反する「自腹」であったとしても欠席は許されないのだ。

で、うちの京都支店の忘年会は毎年恒例の京阪電車祇園四条(変な名前じゃ)駅近く、観光写真にもなる新橋通り近くの「祇園山名庵」という焼き肉屋なのであった。

会費は最低でも「8000円払え」とのお達し。
ボーナスも寸志ぐらいしか支給されておらず8000円以上払えとは、まるで追い剥ぎのような冷血さではある。
なんせ8000円もあれば自宅近所の安物イタリアンを家族3人で堪能することのできる金額だ。
それを一人で払えとは、いい根性をしている。

その8000円の肉は次の写真だ。



一見非常に高級そうに見えるが、高級なのであった。
なんといっても肉が霜降りなのだ。
しかも国産の霜降り。
オーストラリアやアメリカ合衆国で泥沼をゆっくらゆっくらと歩かされ運動不足の結果無理やり霜降りにされた肉とは違う「本格的」な霜降り肉なのだ。

メニューははわざわざ焼き肉としゃぶしゃぶを選択し、私はあえて焼き肉の席に座ったのであった。

ここの肉はタレをつけずに食べるスタイルのものが最初に供された。
タレの代わりに、タレの染みついた京都九条ネギを肉に乗っけて食べるのであった。
イメージは次の写真。



これが美味い。
めちゃくちゃ、美味い。

京都で焼き肉というとイメージが合致しないのだが、こういう焼き肉であれば言うことはない。
さらにこれが会社負担の忘年会であれば高得点。
さらにビールがキリンクラシックではなく、キリン一番搾り、サッポロ黒ラベル、はたまたヱビスビールなんかであったら満点であったであろう。

コースなので食材はゆっくりと次々に運ばれてきて、最後は韓国風の冷めんでの仕上げとなった。
でも、それだけでは足りなかったので勝手に追加の肉を注文したが、これは会社が負担してくれたらしく、清算後に別途請求されることはなかった。

焼き肉忘年会。



来年はもっと稼いで忘年会の費用は会社負担でお願いしたい。さらにちゃんとしたボーナスをもっとくれ、と思う私なのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




面白い映画が必ずしもヒットするとは限らない。
また面白くなくとも映画はヒットすることもあり、興行物というのはえてしてなにがなんだか分からないことが少なくない。

ロバート・ゼメキス監督の新作「Disney'sクリスマスキャロル」は前者に該当する面白いけど外れている映画なのであった。
なぜなら冒頭からラストまで全編息を継がせないスリルと驚きの連続のワクワク作品であるにも関わらず、私が観た回の上映では、私の家族を含めても全観客は10人程しかいなかったのだ。

これでは興行的に失敗であろう。

それにしても大胆な映像だ。
ゼメキス監督の前作「ポーラ・エクスプレス」も同じようなモーションキャプチャー技術を使った3DCGの映画だったが、今作はその時の技術を上回る表現力で観るものを圧倒する力を持っていた。

いわゆる「不気味の谷」はすでに通り越し、不自然さはほとんどない。
観客もその世界にどっぷりとはまりこみクリスマスキャロルの世界を自身も同じ場所にいるように十二分に体験できる仕上がりなのだ。
アラン・シルベストリの音楽もテンポが良いし、主演のモデル(?)ジム・キャリーもなかなかだ。

正直「クリスマスキャロル」の物語は有名だ、程度しか知らなかった私だったが子供のように単純明快なクリスマスの物語をじっくり堪能できたのは言うまでもない。

これだけ質の高い映画なのに、人気のないのは何故なのか。
映画ビジネスは難しいと思ったのだった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




深夜に米国テレビシリーズ「M.A.S.H.」が放送されていた頃、私はちょくちょくチャンネルを合わせてその馬鹿馬鹿しいコメディを堪能していた。
「朝鮮戦争」を舞台にした珍しいドラマだなと思って見ていたのだが、それが実は衣装もセットもベトナム戦争そのもので、舞台だけ、つまり地名や年号だけを朝鮮戦争に合わせた完全なベトナム戦争ドラマであったことはデイビット・ハルバースタム著「朝鮮戦争」を読むまで、まったく気付かなかった。
まったくもって不注意であった。

いうなれば、それだけベトナム戦争たけなわの頃はコメディドラマでも直接ベトナム戦争を批判することができない不自由な時代だったわけで、人民の人民による人民のための政治をしている国、米国の本質を疑いたくなる要素がある。
まるで赤穂浪士の討ち入りを室町時代に置き換えた仮名手本忠臣蔵のような作品だったわけだ。

裏を返せば、朝鮮戦争はベトナム戦争にすり替えることのできるほど存在感のない戦争だったということもできるのではないだろうか。
天然資源も人材も何にもなかった極東のやせ細った半島の戦争は単なる騒動程度に扱われ今日に至っている。
かなり驚きだ。

思えば第2次大戦後すぐに勃発した朝鮮戦争がどのような戦争なのであったのか。
正直隣国のことなのにあまり知らなかった。
まったくもって、再びここでも不注意であった。
戦後日本の経済的復興のきっかけになった戦争だ、という程度の知識しかなかったのだが、本書を読み進めるとかなりディープな部分が明らかになってきて面白かった。

朝鮮戦争。
主役は李承晩でも金日成でもなく、ダグラス・マッカーサー、トルーマンと毛沢東、スターリン。
これら2人を取り囲む人たちの人間模様が絶妙で、とりわけ「現場を見ようともしないマッカーサー」と「聞く耳を持たなくなりはじめている毛沢東」はこの時代の真の歴史を表現していると思えるのだ。
その中でも最も気になる部分のひとつがマッカーサーの取り巻き達の構成と態度だ。
マッカーサーの取り巻き達は「バターン組」と呼び、特別扱いされていたのだ。
バターンとはまさしく死の行進エピソードのそれであり、今日もなお一方的に日本軍を悪者にしなければならなかった理由が、まさにこの当たりにあるのだろうか、と考えずにはおかれないものがあった。
つまり米国の日本占領を正当化するための理由としてバターンがある、ということだ。

ダグラス・マッカーサーは日本では戦後の日本復興を支えた人としてとらえる向きがないではない。
しかしその本性は朝鮮戦争で露になる。
自己中心的。
強欲。
名誉欲。
愛国心よりも自己愛。
軍人としての人格的欠陥。
などなど。

デイビット・ハルバースタムはアフガン、イラクの鏡として朝鮮戦争を描いたのだろう。
しかし日本人の目から見るとアフガンではなく冷戦初期における露骨な利益のみを追求する米国、中国、ソビエトの極東の占領政策が見えてくるのだ。

~「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争 上下巻」文藝春秋社~

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




子供の頃から腸が弱くてよく下痢をしていた。

高校生になった最初の夏休み。
いつものように勉強もせずにかき氷を食べたりアイスクリームを食べたり、腹を出して昼寝をしていたりしたら俄におなかを下した。
下しようがいつもと違い強烈だったので、とりあえず薬を飲まなければならないと思った。

そこで登場するのが「正露丸」。

高校生のとき、既に愛国心いっぱいであった私は「正露丸」は「征露丸」でなければならないと日頃から思うほどのアホ・ナショナリストで、ロシアを打ち破る力のある薬なので下痢ぐらい瞬時に止めると、いつもこの臭い薬を愛用してた。
で、このときもやはり飲むのは正露丸。
俄下痢ピーを止めるべく、いつもより多めに飲んだのであった。

この「多めに」がいけなかった。

薬の接種量は説明書通りでなければならないことをこれほど感じたことはこれまでも、これからも一度もない。
多めに飲んだ正露丸は確実に作用し、私は便秘になったのであった。

夏休みのこと。
暑いさなかの便秘はなかなか気分を盛り上げない。
そこで私は生まれて初めて体験している便秘を克服すべく、当時盛んにテレビコマーシャルされていた「コーラック」という便秘薬を購入。
説明書通り水でゴクリと飲み込んだのであった。

それから地獄が始まった。

コーラックも確実に作用した。
これは下痢を止める正露丸とは反対の効果をもたらしたが、その効き目は想像を絶した。
便秘を止めるどころか下痢が止まらなくなり、水便になり、そしてついに何も出ないほど危機迫る状況に陥った。
既に肛門はヒリヒリを通り越している。
食べ物も口を通らない。
下痢を止めるべく正露丸を飲んでみたが、全く効果がない。

今度日露が戦争することがあればコーラックには注意を払う必要がある。

そして、「食べる」と同時に「出る」という単なるパイプ状態になったとき、私は尻の穴を押さえながらかかりつけのお医者さんを訪ねた。

「アホかいな。あんた。コーラックは強度の便秘を治したい『女性のための薬』やで。」

とお医者に笑われ、点滴を処方された。
強烈な下痢ピーは間もなく終息したが、体重が10kg以上も減少したのであった。

「お、○○。えらい痩せたやん。夏休み中、なんかしたん?」
9月。
夏休みが終わって学校へ行ったら、ダイエットでもしたのかという友人の質問を笑ってごまかしたのはいうまでもない。

忘れられない昭和55年の夏の出来事なのであった。。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ちょっとニュースとしては古いけれども東京メトロが都営地下鉄を買取る計画をしているそうな。

私のような東京都民ではない(大阪府民です)にとって、東京の地下鉄は魔の鉄道と呼んでも過言ではない。
なんといっても縦横無尽に街中を走っているのは大阪の地下鉄も変わらないのだが、東京は路線が多い上にグチャグチャ。
大阪のように碁盤の目に走っておらず、かつ乗換駅であっても名称が異なり、異様にややこしい。

おまけに東京の地下鉄には私鉄各社が乗り入れたりしているので、さらにややこしい。
地下鉄に乗っていると思っていたら、知らないうちに京急やら京成やらに乗っており料金体系が変わっていたりするのだ。
その辺、まったくもって手品の如くである。

最もややこしいのが切符の買い方。
ほとんどの場合、切符は自販機で購入することになるのだがボタンが沢山表示されるので初めて操作する時は訳がわからなくなる。
液晶画面に少なくとも4つ以上の会社名が映し出され、どこでどのように乗り換えるのか、自分自身の経路を把握していないと後ろに切符を買いたい人の行列ができてしまう。
正直言って、東京の地下鉄の自販機の操作は、まだ台湾新幹線の難しい漢字で書かれた文字をジーックリ読みながら操作する方が優しいくらいだ。

で、さらにさらにややこしいのは、東京の地下鉄には2つの会社があって一方が東京メトロでもう一方が都営なのだ。
上方からやってきた私なんかは最初はどの線がメトロ(当時は営団と呼んだ)で、どの線が都営なのかサッパリわからなかったことを記憶している。
当然会社が違うと運賃も違う。
メトロの初乗りは160円。
都営は170円。
乗換えはもっとややこしく、大阪で言うところの1区と1区を乗り継ぐと単純計算で170円+160円=330円となるように思うのだが、そこはメトロと都営、根性が悪いのかいいのか、何を根拠にしているのか割引料金が適応されるらしく260円になる。
丁度大阪市バスと地下鉄の乗り継ぎ乗車券のようなものだ(読者にはもっと分からないかも知れない)。

で、今回のニュースでいいところはメトロが都営を買取ると多少ともややこしさが緩和されると思えるからだ。
少なくとも地下鉄2社があるややこしさは解消される。

ということで、今回の計画は大いに歓迎する非東京都民の私なのであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »