<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



N社の自己中心的上司であったT野氏を説得するために磨きはじめたCGの技術は、転職に有利に働いたのであった。

「これええやないか」
新しく入社することになった会社の社長は中小企業に良くいる「新しもの好き」の典型的な人なのであった。
とりわけ製造メーカーということもあり、他の中小企業仲間を出し抜けるような、「何か」をいつも探し求めていたのだった。
CGはその点、社長が求めていた「何か」と合致するものがあったのであろう。
私を採用してくれたひとつの要素になったのであった。

一度も見ることなく、私をけなし続けたN社のT野氏とはエライ違いではあった。

私がこの会社の玄関のドアを叩いた時、ちょうど私の上司になるHさんが社長の指示でCADを探している最中なのであった。

1990年代前半といえば、それまで高価なワークステーションでなければ動かなかったCADのシステムが、パソコンの能力向上に伴ってPC-9801のようなコンシューマーパソコンで動くようになってきた頃だった。
この時期、ものすごい数のパソコンCADが登場してきており、選定するのはなかなか骨の折れる作業だった。

どのように骨が折れるかというと、JW-CADは未だ無い時代。
パソコンCADといえども、ちゃんと買いそろえようとすると数百万円かかり、中小企業にとってはかなりの重荷になる設備だったのだ。

暫く私は自前のC-TRACEで製品のデザインを試みることにした。
で、日経CGへの投稿も相変わらず続けたのだったが、投稿の際に会社名を入れておいたら掲載時に私の名前と会社名を一緒に掲載してくれたのだった。

「おい、何冊か買っといてくれるか」

と、社長は私のCG作品が掲載された日経CGを何冊か買い求めるよう命じるくらい、喜んでくれたのであった。

あれやこれやしているうちに、CADの購入については結論が出た。
何百万円もするものを知らない一限企業から買うのではなく、お得意様から買って点数を稼ごう、いや、仕事につなげよう、ということになったのだった。
この頃、私の勤めていたこの会社は東京に本社を置くいくつかの大手家電メーカーと取引をしており、その一社からCADのシステム、正しくはCGのシステムを買い求めることにしたのだった。

その会社とは日本ビクターなのであった。

日本ビクターとコンピュータグラフィックス。
なんとなく結びつかない取り合わせだが、世界のJVCのCGソフトを使うことにより、私のCG経歴は新たな時代を迎えることになった。

つづく

※二~三回の連載のつもりがミャンマー旅行記「ミャンマー大冒険」を書くように、だらだらと長くなってきてしまいました。
別のトピックもアップしたいのでCG私的創世記はちょこっと一週間ほどお休みします。以上、お知らせでした。

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出張で東京へ行くことになったので航空券を購入した。
何も考えずに。
いつものように。
いつものとおり。
ANAカードを使ってインターネットで購入したのだ。

で、今朝。

目覚めてすぐにラジオのスイッチを入れてNHK第1にダイヤルを合わせると。

「全日空のグループが今日始発からストに突入しました」

とアナウンサーは言った。

えええ!
スト。

私は驚いた。
私の購入したチケットがストで欠航になるかもしれない、と思ってビックリしたのではない。
私の今日のストで私の乗る便が飛ぶのか飛ばないのかを心配する必要はないのだ。
なぜなら、私の便は、明日の便だから。

私が驚いたのは、
「この時代。賃上げや自分の立場の向上のためにストライキを打つ労働組合があるなんて。なんて時代だ錯誤なんだ」
という理由にある。

ANAのような大企業。
それが中小のバスやタクシー会社みたいなことをしてどうするというのだろう。

ということで、ANAの今どきのストライキ。

もしかするとJALの方が安全なのかも知れない、と思ったのであった。

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C-TRACEのレンダリングというのはトランスピューターボードを導入するまで画面のドットをひとつづ「ポチ........ポチ.........ポチ........ポチ」と描いていた。
その動作の気の遠くなること。
たとえば100×80のイメージサイズであれば8000個のドットを「ポチ........ポチ.........ポチ........」っと描いていたのだった。
ひとつのドットを計算するのが10秒であっても、8000個を描くためには80000秒。
実に2時間15分程度もの時間がかかったのだ。
100×80といえば、今ではネットに貼付けているバーナーのイメージファイルの大きさもない。
ほとんどアイコンみたいなものだ。

これがトランスピューターボードを導入してどういう変化が訪れたかというと、100×80のイメージサイズであれば、横方向の100ドットを一瞬で描いてしまい、次々と縦方向を埋めていくのだ。
「ザッ...ザッ...ザ....」
てな感じ。

ほんの数分もあれば小さなイメージデータであれば作成してしまうのであった。

しかし、トランスピューターボードを導入しても遅いことに変わりはない。
100個以上のプリミティブを組み合わせ、フルスクリーン以上のサイズのイメージデータを作ろうとすると1フレームを描くのにやはり数時間から数日の時間を要したのであった。

コピーライティングの仕事をしながらC-TRACEで絵を描く練習を続けた。

描き上げた作品は日経BP社発行の月刊日経CGの投稿欄へ投稿した。
投稿した作品でボツにされてしまったのは1作品だけで、どういう作品がボツになったのか今では思い出すこともできないということは、もともと対した作品ではなかったのかも知れない。

で、掲載された作品は、
「雨に濡れた植物の葉っぱをゆっくり移動しているカタツムリ」(アニメーションではない)、「古代出雲大社」「ラスベガス」「大川にかかる水晶橋」
などであった。
とりわけ大川にかかる水晶橋は自分で言うのもなんだけど力作で、初の縮尺通りの作品になった。
しかもマッピングをあれやこれやと動員し、できるだけ本物に近いグラフィックになるようあれやこれやと試みた作品であった。
凝ったこともあり、演算には1週間を要した。

尤も、1週間もかかってしまったのは演算速度がトランスピュータボードを持ってしてもトロイ、ということもあったが、演算途中、ちょうど夏だったこともあり、パソコンが内部熱で暴走し、その暴走していることにこっちもなかなか気付かなかったことも原因になっている。

熱で暴走。

X68000単体では暴走することはなかったのだが、トランスピュータボードを取り付けたら恐ろしく熱が出ていたらしく、小型扇風機で風を当てると、やっと止らずに演算を継続させることができることを見いだすまで、かなりの時間を要したのであった。

日経の雑誌で原稿料を稼いでいる間に、またまた転職をすることになった。

ついに独裁者(但し、私相手の限定的な独裁者。なぜなら部下が私しかいなかったため)T野氏の訳の分からない指示に私はブチ切れN社を退社することしたのだった。
N社の人事部長は気の毒がって別の部署への配属を打診してくれたが、私は私で意地をはってしまっており、もはや誰にも止められない事態に陥っていた。

おまけに、
「しょせんは広告屋。ええもんやのうても(良い製品ではなくても)、『これ、めちゃくちゃええ製品でっせ』とウソをつかなあかんような仕事はもうええ(もう、お断りだ)」

と、究極的な気持ちになっていたので配属転換をお断りすることにしたのだった。

ということで、幸いにも私は新しい職場は縁あってすぐに見つけることができた。
しかも、工業デザインというCGとは切っても切れないジャンルの仕事なのであった。

つづく

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そんなこんなで最初に購入したC-TRACEはレイトレーシングのソフトとして正直いって私レベルのパーソナルユーザーでは実用化にいたらなかった。
広告の恐竜の絵のように本格的な作品を作成できることはわかっていても、プログラムを組まなければならないという煩雑な点に於ても、計算に気が遠くなるほどの時間が必要なことを考えても「よし、これを使おう」という気にはならなかったのだ。

しかし、転機は突然訪れた。

とあるきっかけで私は建築業界を離れることになった。
私は大阪市内の広告代理店N社でコピーライターとして働くことになったのだ。
某大手家電メーカーの空調製品のカタログを作成するために私の「建築設備屋」としての経歴が買われて採用されたのであった。
芸大卒の私としては、少しでもクリエイティブな仕事をしたいと考えていたので、卒業後の建築設備業界での経験も生かせる仕事として大いに張り切ったのであった。

ところが、この新しい会社の上司というのが自分の意思で決めたこと以外、すべてを否定したがるという、とんでもなオッサンなのであった。

広告業界で30年近く働いてきて、自分で会社も設立。
ところがその会社が傾いたので懇意にしていたN社の社長に拾われた。
そして自分のやっていた仕事を継続し始めたところに採用されたのが私だったというわけだ。

このT野という名のオッサンは後にも先にも一緒に働いた人間の中では最低の人間だった。

私はコピーライターとしてカタログの文章を作成していたが、やらい映像系出身であるため写真やイラストがどうしても気にかかる。
「この人は、テクニカルイラストレーターとしては第一級なんや」
と紹介されたデザイナーはメカを描くのをほぼ専門にしている人だった。
確かにエアブラシを駆使して描いた手書きのイラストは目を見張るものがあり、家電メーカーの担当者もここ数年、ずーっと満足してくれていたのだという。
しかし、私はこのときすでに「テクニカルイラストはCGや」という信念ができており、

「CGで描いたほうが分かりやすいンちゃいますか」

とT野氏に言ってみた。
するとどうだ。
意見の詳細も聞かず、世の中にどんなものがあるのかも検討せず、私に一言、

「君はコピーだけ書いてたらええねん。他を気にする必要は、ない」

クソッタレなのであった。

こんなことを言うのなら、どうしてデザイナーを私に紹介したのか理解に苦しんだ。

悔しいので私は自分でコンピュータを使ってテクニカルイラストを描いて見ようと試みた。
しかし、先述したように肝心のレイトレーシング3DCGソフトであるC-TRACEはレンダリングをするのに恐ろしいほどの時間がかかる。
悔しい。
ほんとに悔しかったのだ。

そんなところにC-TRACEの発売元の会社から1通の郵便が届いた。
電子メールが存在していなかったので、普通の封書が届けられたのだ。
開封して中を確認すると、
「トランスピューターボード販売!初回につき記念価格」
というチラシが出て来た。

このトランスピューターをX68000に組み込むと、C-TRACEのレンダリング演算が飛躍的に早くなるのだという。
しかし、価格がなんと40万円以上もするのだ。
私は悩んだ。
軽自動車を購入できそうな金額のボードを果たして買っていいものかどうか。
もし、使いこなせなかったらどうするつもりだ。

私は自問自答しつつ、建築設備業界で働いたときに蓄積した貯金をはたき、清水の舞台から飛び降りたつもりでそのトランスピューターボードなるものを買い求めたのであった。

後にも先にもこれほど高価なソフトウェア関連製品を購入したことはない。
今や、アドビCS4、その中のイラストレーターだけでさえ、高すぎて買うことができない安月給の身分に落ち込んでいるのだ。
当時の若かった私は、オッサンになった今の私よりも金持ちだったことになる。

ああ、若かった私よ。
金貸して。

ということで、トランスピューターを使いこなすために、私は真剣にC-TRACEのプログラムについて学習を始めたのであった。
まずは球体から。
そして光の設定方法から。
さらにマッピングとはなんやら、というところまで。

100x80ぐらいの小さなイメージサイズで特訓を積んでいる私のもとに、ついにトランスピューターボードが届いた。
そしてX68000本体に取り付けて私は驚いた。
本当にレンダリング速度が早いのであった。

つづく



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X68000は本格的なCGを製作することができる初めてのパソコンであった。
当時、圧倒的なシェアを誇っていたPC-98シリーズもグラフィック機能というカテゴリーの中ではとてもX68000の敵ではなかった。
約65000色の表示能力と512×512ドットの表示画面、スプライト機能など。
それまで7色程度しか表示できなかったX1や他の機種と比べても各段の違いで、まさに実用に耐えうるワークステーションなのであった。

その本格的なCGを作成するにはかなりのトレーニングと追加費用が必要になることは後ほど知ることになった。

ともかく、X1購入時には金欠でプリンタを購入できなかった私も、今回はきっちりとカラープリンタを購入した。
インクジェットプリンタはまだこの世にないので感熱式のプリンタだった。
また、テレビ画像を取り込んだり、パソコンの映像を書き出したりすることのできるイメージユニットも購入した。
前回初めてパソコンを購入したときのように本体とモニターで満足しなければならない、ということはなかった。

本体があればソフトも購入しなければならいだろう。
X1を購入した時は市販のソフトウェアが無かったので自分でBasic言語を使ってプログラムしたことは先述した通りだ。
今回も自分でプログラムを組むのはやぶさかではなかったが、X68000ともなると私のような素人にとって自分でプログラムを作成するにはあまりにも機能が高次元になりすぎていた。
いや、それよりもなによりも、まだ建築業界に勤めていたためプログラム作成などという悠長なことはできなかったのだ。
つまり暇がなかったのだ。

X68000と一緒に購入したのは以下の2本のソフトウェアだった。

Z'sSTAFF Pro68K
C-TRACE 68K

Z'sSTAFF Pro68KはX68000シリーズの標準的グラフィックソフトで、65000色をフルに使用し、様々な絵を描くことのできる優れものソフトだった。
今で言えば、アドビのPhotoshopとコーラルのPanterを足したようなペイント系のソフトだった。
マウスを使って自由に描画していくことのできる能力は快適で、画期的で、革命的でさえあった。
ビデオで取り込んだ映像も静止画ながらレタッチすることができた。

ちなみに販売価格も現在のソフト同様、革命的に高価なソフトなのであった。
たしか4万円以上はしたように記憶する。

そしてC-TRACEは雑誌Oh!Xに掲載されていたCGで作った恐竜の映像を使った広告に誘発されて購入した3DCGソフトウェアだった。
このC-TRACEの操作性はZ'sSTAFF 68Kとはまったく対照的だった。
それは悲惨なくらいの違いがあったのだ。

なんといっても使い方が複雑怪奇で、芸大出身の私としては、これほど絵を描くのに、その方法を根底から覆さなければならない事態に出会うとは、夢にも思わなかった。
なぜなら、このソフトで絵を描くというのは、絵筆でキュキュキュ、ササササと描くのとは違い、ほとんどプログラムを書くのと同じであったからだ。
X68000ではプログラム作成などする暇はなかったはずなのに。
絵を描くためにはプログラムを覚えなければならなかったのだ。

このため、このソフトを使いこなせるようになるために実に1年以上の期間と意外な出費が必要となった。

しかし、このC-TRACEを使いこなせるようになったことで、私のCG歴は新しい時代を迎えることになる。

C-TRACEの衝撃的体験は以下の通りだった。
初めてC-TRACEのフロッピーディスクをマシンに挿入して起動してみたが、何がなんだか分からない。
Z'sSTAFF 68Kの取扱説明書が家電製品のそれと同じように立派なものであったのに対して、C-TRACEの説明書はまるで会社で使ったコピー書類のファイルと言った趣だった。
つまり、がさつだったのだ。

「なんちゅう取説。1本1000円のソフトとちゃうぞ」
とさえ思った。

説明書には3DCGを描くためのプログラム用言語が記されており、それを見ただけで正直めまいがしてきたことを今も昨日のことのように覚えている。
多くのC-TRACE購入者はきっとこの最初の段階で広告にあった恐竜の絵のようなCGを描くことを断念していたことだと思う。
私の場合は、
「しばらくして、暇になったらゆっくり覚えよお〜っと」
と自分自身をごまかして、高い金を出してC-TRACEを購入したことを不問にしようとしたのだった。

今でも多くの場合そうだが、当時の3DCGは立方体だとか球体、円すいなどといった決まった形の物体を組み合わせて造形するのが一般的なモデリング方法だった。
これはメモリ制限が大きく、処理速度がめちゃノロイ当時のパソコンにはぴったりの造形方法だった。
現在のようにCADからデータを持ってきてそれで面を生成したり、スムースにしたり、変形させたり、色をつけたりする、ということはコンピュータの処理能力からいって不可能なのであった。

この基本的な立体はプリミティブと呼ばれ、これらをいかに上手に使うかで作品の質が決まることがわかった。
しかし、問題はその組み合わせではなかった。
組み合わせをして、作品のモデルデータを作った後の工程が最も問題になるのだった。
どういうことかと言うと、レンダリングに途方もない時間がかかることが分かったのであった。

C-TRACEの広告に載っていた恐竜の映像は、特性のスーパーコンピュータによって演算されたものらしかいことがわかったのだ。
なぜなら、試しに描こうとした球体一個だけのレンダリングに、なんと1時間以上もかかってしまったからなのであった。

コンピュータグラフィックス。
それは途方もないメモリが必要で、その膨大なデータを処理するためにはめちゃくちゃ早いパソコンが、いやスパコンが必要なのであった。

X68000での新しい私のCG環境は大きな危機を迎えることになった。

つづく

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社会人2年目。
芸大卒業の私はなぜか建築業界で働いていた。
建築業界といっても日雇いの労働者ではない。
大手空調設備会社の竣工検査に必要な書類作成や検査立ち会いなどを行う会社に技術者として勤めていたのだった。
なぜ芸大卒の私が、そんな工学部卒がするような仕事をしていたのか。
そういった説明が複雑そうな話題はさておいて、この建築設備業界は給料がそう悪くない代わりに勤務条件の厳しい世界であったことを説明しなければならない。

建築現場の朝は早い。
だいたいが朝8時に始まるため、それに併せて出勤をせねばならない。
そのため、朝6時前に家を出発することなどざらで、しかも通勤距離が長かった。
どういうわけか私は京都市内か神戸市内の現場に配属されていたため、大阪府南部の自宅からは片道1時間半から2時間という関西では非常識な長時間をかけて通勤していたのだ。
通勤の最長距離は滋賀県の米原であった。
この現場仕事はたったの2週間で完了したのであったが、さすがに新幹線通勤となり、身も心もずたずたになってしまったのだった。

しかもこの業界は残業なんて当たり前。
竣工前のバタバタを手伝うのが私の仕事のため、徹夜仕事も珍しくなかったのであった。

この頃、家は寝るためだけにあった。

週休二日制が一般的ではない時代。
唯一の日曜日。
私はだいたいにおいて、日中でも寝てばかりいたのであった。
そんなある日。
「こんなことではいけない」
と思った私は大阪難波に繰り出すことにした。
久しぶりに大好きなはずの映画て、その後日本橋の電気街をうろつこうと考えたのだった。

当時の日本橋にはメイドカフェやアダルト本ショップ、コスプレ屋などのいわゆる萌え業界は一切なかった。
純粋な電器店とパソコン店、電子部品店などが軒を並べた東京秋葉原と同じく電機製品のメッカなのであった。

「何か新しい電機製品は無いかいな」

と歩いていると、パソコンショップの前に置かれたモニターにツタンカーメン王の黄金のマスクが映し出されているのが目に留まった。

「?」

画面に映し出された仮面はCGによるものであった。
驚いた。
リアルだった。
そしてとりわけ金色の輝きの表現が秀逸で、思わず見とれてしまったのであった。

「これ、すごいな」

私の2台目のパソコンとなるシャープのX68000との初めての出会いであった。

建築設備業でせっせと働いている中でも、私の創作意欲は休眠状態ながら冷めてはいなかった。
家に戻ってからもツタンカーメンの映像が頭から離れない。
家庭で使うパーソナルコンピューターで、ついに映画に出てくるような精巧なCGが描けるようになったのか。
にわかには信じがたいものがあった。
たった数年で、そこまで技術が進歩してしまうとは当時の頭では理解することができなかったのだ。
もし、本当にあんなリアルな映像が作れるのなら、是非ともチャレンジしてみたい。
と、私の創作意欲は突如復活し、考えれば考えるほど高まっていったのであった。

早速久しく買わなかったパソコン雑誌を買ってきた。
「Oh!X」という雑誌でシャープのパソコンがメインの大衆向けパソコン誌であった。
その中で、X68000の数々の特徴が記されていて、とりわけグラフィック機能に特筆すべきものがある、ということが分かってきた。
但し、値段もなかなか高価であることも分かってきた。

幸いなことに、建築設備業界に勤めていた私の収入は少なくなかった。
また、多くもなかった。
ただ1年中ほとんど仕事ばかりしていたのでお金を使う機会がほとんどなく、パソコンの一台ぐらい、すぐに買うことができる環境にはあった。

X68000というパソコンは今でこそ伝説の中に埋もれてしまい、Windows世代の人々にはその存在さえ知られていないマイナーな機種かも知れない。
しかし、日本のパソコン史上、これほどユニークなパソコンは他になかったのではと思われるのだ。
「日本のマッキントッシュコンピュータ」
一部の愛好家の中で喚ばれたその栄えある愛称は、まさにその喚び方にぴったりの性能とコンセプトを持っていた。

私はこのユニークなパソコンを近所に住むシャープ社員のZさんにお願いし、社員価格で売ってもらうえるようトライしたのであった。
普通の電器店で買えなくもなかったが、節約を旨とする私はあくまでもケチケチスピリットを堅持し、そして希望通り、X68000を購入したのであった。

つづく

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現在のそれと比べると当時のパソコンの処理速度はおそろしく、ノロイ。

500ポイント程度の座標を処理してワイヤーフレームのパース画を描くのに、私のX1は、その処理能力を誇る8ビットのCPUと、欲張り過ぎ加減のHuーBasicを動員して、1フレーム約30秒強を要したのであった。
プリンターは前述しているように買えなかったので映像を出力するのにはカメラでモニター画面を写すしかなかった。
そこで登場するのがフジカシングルエイトなのであった。

映像を専門とする学生は、当時8ミリカメラは必携であった。
8ミリ、といってもベータムービーも登場していないこの時代。
ビデオではない。
8ミリフィルムを使ったムービーなのであった。

私はその頃、フジカCZ-1000というカメラを手に入れたばかりだった。
このカメラは8ミリムービーのくせになんとレンズ交換ができる優れもの。
おまけに1コマ撮影や72コマ毎秒の高速度撮影が可能な16ミリや35ミリフィルムの映画用カメラのような強者なのであった。
で、私はこのZC-1000をパソコンモニター前にセットして一コマ一コマ描いては撮影し、描いては撮影しを繰り返し、アニメーションフィルムを作成しようと考えたのであった。
そしてこれがなんとなく成功し、ついに初の自作CGアニメーションとなった。

幸いなことに、モニターをフィルムムービーで撮影したのにフリッカーが少なかった。
予想よりも快適に見ることのできる映像に仕上がったのだ。
しかも、斜め線のギザギザもアニメーションになるとめちゃくちゃ目立つものではなかった。すこしは気になったが、このアナログ時代、CGの物珍しさも手伝ってSF映画のような雰囲気に仕上がっていたのだった。

作品の長さはわずか1分程度だった。
だが、これが恐らく大阪芸大に於て学生であろうが講師であろうが、学内をうろつく犬であろうが猫であろうが、金剛バスの利用者であろうが、つまり誰であろうが製作した、大阪芸大史上初めてのコンピューターアニメーションになった、と私は勝手に思っている。

作品は予想通り作品コンクールで大評判を喚んだ。
ということを耳にしたのはコンクールが終わった明くる日のことであった。
というのは、私は銭稼ぎのために大阪府下のおもちゃ屋でバイトをしていたのだった。
出席も取らない半分授業のようなコンクールを見るよりもバイトに精を出して金もうけに励んだほうがベターだ、と考え、そんな重要なコンクールなのにちっとも見ていなかったのだ。
当時は今以上に、現実主義者であったに違いない。

結果的にはコンクールでは栄えある準グランプリを受賞。
なぜ「準」なのかは定かではないが、友人の弁によると、
「グランプリ作品はずいぶん正統派やったで。ウケからいうと、おまえの作品のほうがバカウケしとった。どうやって撮ったんや、ってみんな言うてたし。第一、スポンサーのカメラ屋とかからの賞品、おまえの方が多いで」
ということなのであった。
その多いはずの賞品で今私の手元に残っているのは小さなオペラグラスひとつだけ。
なぜ賞品がひとつしか手元に残っていないのか。
それはコンクールとそれに付随した授賞式を私が欠席したことをいいことに、友人が「代理」で頂戴してしまったからであった。

結局、私は大学在学中、最大の栄誉を迎える瞬間に立ち会わなかったことになってしまったのであった。
みんなが、私のCGアニメを見て、「うぉおおおおお」と言ってくれていた頃、私はリカちゃん人形や宇宙刑事ギャバンのピストル、こなぷん、タカラのせんせい、ガンプラ、任天堂のゲームウォッチ、筋ケシなどの販売活動に精を出していたというわけだ。

翌々年、大学を卒業した年にはアメリカのSFテレビシリーズのパロディ映画を自主製作。
45分の作品に、いくつかのCGを組み込んだのだったがこれを最後に、私は約4年間、CGの世界とは離れることになった。

理由は阪神タイガースが21年ぶりの優勝を争っていたからであった。
「かーっと、ばせばせバース!ライトーへ、レフトへホームラン!」
「まゆみー、まゆみー、ホームラン!」
と、いう状態にあったわけではない。
日航機123便が御巣鷹山に墜落し、NHK「新八犬伝」のナレーションで大好きだった坂本九ちゃんが亡くなってしまったショックからでもなかった。
真実は、社会人になってしまい、業務にCGを使わない仕事であったため製作する時間を取れなくなってしまったからであった。
現実は厳しかったのだった。

つづく

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ある面をペイントしようと思ってカーソルを移動し、色を塗り始めるためにキーを押す。
するとカーソルの位置から上の方向に向かって「にゅるにゅるにゅる~」っと、まるでコップに水が注がれていくのを真横から眺めているようにゆっくりと色が埋められていき、一番上まで塗りつぶすと、今度は下側をゆっくり「にゅるにゅるにゅる~」と塗りつぶしていく。
この光景がシブイのだ。
そしてこれがなんともノロイのである。

これは8ビットパソコンの遅ーい処理速度とHu-Basicの重ーいプログラムが相互に作用した結果なのだったが、これが私のとって初めてのパソコンであったから、このにゅるにゅるペイント速度を遅いなどとはちっとも思わなかったのだった。

ただこのプログラムにはいくつかの困った点があった。
まず、ペイントを実行したときに、その塗りつぶしたいエリアがLINEで完全に閉じられていないと、その閉じられていない隙間から、ドドドドドドと色が流れ出してしまい、画面全体が同じ色になってしまうということだった。
これは現在のペイントソフトでもよく見られる現象なので、原理は今もって変わっていないのだろう。
ただし今と違って塗りつぶしに問題があったからといって、すぐに命令を取り消してひとつ前の状態に戻すなどといこともできなかったし、線を閉じるためには再び座標入力ソフトにロードして修正しなければならなかったのだ。
ほんとに、気の遠くなるような作業の多さなのであった。

そして最も困った問題が、実はこのプログラム、掲載時にどこか写植ミスがあったらしく記載されているままプログラミングするとエラーが発生してしまう、という現象が発生してしまったことであった。
プログラムのバグ。
出版社に抗議すべきところであったが、そこはおとなしい芸大生の私。
一生懸命画面とパソコンのマニュアルをにらめっこしてプログラムを正常に導き、使い物になるように問題を解決したのだった。
このときほど「プリンターが欲しい」と思ったことはない。

これはある意味、良かったと言えるだろう。
なんといってもプログラムのバグを手直しするためにBasic言語では、どのような構造でプログラミングされているのか、かなり理解できたこと。
そしてもうひとつは、キーボードの操作に慣れることができたということだった。

災い転じて福となる。

この雑誌に掲載されていたBASICプログラムには、さらに2つのメリットがあった。

ひとつは7色しか表示できない色を16かける16ドットの中で組み合わし、パターン化して肉眼では別の色に見える、別色作成機能があったことだ。
世の中、考える人がいるものだとつくづく思った。
複数に色をドットごとに指定してやることによってそれこそ、かなりの色のヴァリエーションをそろえることができたのであった。

そしてもう一つは、三次元のワイヤーフレーム映像を作成するプログラムが掲載されていたことだった。
これが最も大きな収穫だったといえるだろう。

掲載されてプログラムは立方体や四角錐などの簡単な図形を立体的に描くプログラムで、三角関数などを用いて遠近感を与えながらパースを描くのであった。
ただ基礎的な3DCGプログラムであったため、隠線消去やポリゴン、レンダリングの機能はなく、本来なら見えないはずの裏側の線まで見えるという玩具のようなプログラムなのだった。
しかし、このプログラムで私のイマジネーションは大きく膨れ上がったのであった。

パースを描くための座標プログラムを作成するため、私はペイントソフトの座標入力プログラムを改造し、X点、Y点に加えてZ点を入力できるようにした。
側面、正面、平面の図はいちいち切り替え再描画させる必要があったが、かなり複雑な形状もプログラムできた。
どう複雑なのかというと、かの有名なボブ・エイブルの「シカゴ」を彷彿とさせる街のワイヤーフレームを描くことができるようになった。

ただし画面が640×200ドットの大画面であったため、斜めの線はジャギーがめちゃくちゃ目立つ、それはそれはぎこちないパース図なのであったが、格好だけは付いていたのだ。

私は2年生の時の学内コンクールで、このCGプログラムを使用したアニメーションを出展しようと考えた。

コンクールは学生が作る広告映像というコンセプトで、できるだけ市販の製品ではなく公共性の高いものを取りあげ、それを自分のイマジネーションで映像化するという内容であった。
当時、大阪では関西国際空港が泉州沖の大阪湾に建設されるのが決まったばかりだった。
私はさっそく将来自分が利用することになるかもしれない、この関西国際空港をワイヤーフレームで作成し、その滑走路に着陸する映像を作ろうと考えたのだった。

私は関西空港の計画略図をもとにデータ作成を開始した。
さらに始点のカメラ位置と終点のカメラ位置を入力し、その間を何コマの絵を作るのか数値を入力すると、自動的に一コマ一コマワイヤーフレームを作成するようにプログラムをさらに改造。
しらずしらずのうちにキーフレームを設定すると間のコマを生成してしまうという、現代のCGアニメの基本を幼稚なプログラムながら作成していたのだった。

関西空港を描くための座標点は確か全部で500ポイントを超えたと記憶する。
500ポイント程度で済んだのはプログラムがちゃちであったことと、ターミナルビルがとってもみすぼらしい建物になってしまっていたからであった。
ご存知の方もいらっしゃるかも知れないが、関西空港の現在のターミナルは建設途中で予算が削られた関係で計画よりも大幅に小さなものになっている。
しかし、小さくなっても単体の空港ターミナルビルとしては世界で最も大きく、全長2000メートルの姿は対岸の大阪府からは翼を広げた超巨大な鳥のように見えるほど壮観である。
ところが私のCGアニメ処女作の関空のターミナルビルは、まるで田舎の駅舎。
ひいき目に見ても、凝った給水塔のようなチャチな建物なのであった。

つづく

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当時のパソコンはオペレーションシステムではなく、必ずプログラム言語「BASIC」が付属していた。
オペレーションシステムがくっついていないパソコンなどあり得ないのだが、工学的に無知なユーザーである私には、当時のパソコンは後に利用することになる高性能パソコンと比較するとオペレーションシステムが無いも等しい代物なのであった。

私の愛機「X1」ではHu-Basicという言語が装備されていた。

新発売されたばかりのX1を購入したために、実は困ったことが起こってしまった。
パソコンは今でこそ操作するためにプログラム言語なんか覚える必要はないが、当時はBASIC言語の命令で全ての作業を行っていた。
データのカセットテープへの書き込みと読み込みはもちろん、計算式の構築、ゲーム、などなど。
しかもプログラムに出来合いのものはなく自分ですべてを作成しなければならなかった。

これが富士通のFM-8だとかNECのPC-8801などであれば、使い方を記したすでに多くのハウトゥー本が出版されていたから、それらを参考書に使えば比較的楽にマシンを使いこなせるはずだった。
ところがこっちが買ったのは発売されたばかりのX1。
シャープのパソコンは基本的にMZシリーズというのが本流だったので、Xシリーズのことは、月刊雑誌「Oh!MZ」にもなかなか掲載されることはなかった。
つまり参考にできるものがまったくなかったのだ。

そこで、NECのN-Basicの解説本を購入し、それをHu-Basicに当てはめて簡単なプログラムを書く練習を始めた。
当時は大学生だったから、そんな退屈なことをする暇があったのだ。

Basic言語はメーカーが違ってもよく似ていたので簡単なプログラムは苦労しながらも書けるようになってきた。
しかし、ことがグラフィックのことに及ぶとそうは問屋が卸さない。
どの言葉を、どのようにプログラムすれば良いのか芸大生の私には、当初見当がつかなかった。
「エライ高い買い物をしてしまった。」
と一瞬ではあったものの悔やんだこともあった。

それでも説明書をじっくり読んでいくと、だんだんとひとつひとつの命令の意味がおぼろげながら分かるようになってきた。

まず「LINE」という関数と2つの座標で直線を引けることがわかった。
続いて「CIRCLE」という関数と中心点座標、半径などのパラメータで円が描けることがわかった。
しかし、それでどうせっちゅんだ。
と私は悩んでいた。
絵を描くためには多くの直線や曲線が必要で、時として面を色で塗りつぶしたくなることもある。
ちなみに塗りつぶしは「PAINT」という関数で塗れることがわかった。

膨大な量のデータをどうやって整理したらのいいのか。
いちいちデッサンした絵を方眼紙に写し取り、XとY座標を一点一点拾っていくなどという、チマチマとしたことはアホらしくてできない。
それでも簡単な図形ぐらいなら頑張って描いてみよう。
と、三角形や四角形を駆使して描いてみることにした。
しかしその初めてのCGは、それはそれは悲惨な作品なのであった。
しかも「Jpeg」なんてイメージファイルは無かったし、資金不足で白黒のドットプリンターも買えなかったため、その作品はモニター画面に映してカメラでパシャッと撮影でもしない限り、第三者に見せることもできなかったのだ。

CGは手間がかかる。
お金もかかる。
おまけに数学の知識も要りそうだ。

絵を描く為に直線や円をいじっていくうちに、数学の図形問題をやっているような気分になってきた。
なんとしてでもCGをものにしたかった私は不要になったはずの高校時代の数学の教科書や参考書をお仕入れの段ボール箱から取り出し、勉強のし直しを始めたのであった。

そうこうしているうちに、世界文化社から「パソコンテレビX1のすべて」なる雑誌が発売された。
なぜ理系雑誌の会社でもない世界文化社から出版されていたのか、今もって謎なのだが、その本にはX1の優れたグラフィック機能(当時のレベルで)を使って絵を描く「ペイントソフト」のBasicプログラムが掲載されていたのであった。

ペイントソフトといってもPhotoshopやPainterなどの現在のソフトを想像しては、もちろんいけない。
だいたい表示可能な色が7色で画面サイズが640×200ドットのパソコンで写真の加工はできないし、筆の質感とか鉛筆の質感を表現することなできるはずもない。
雑誌に掲載されていたBasicのプログラムは複数のパートに分かれていて、ひとつは線を描く為の座標を入力するプログラム。
またひとつは入力プログラムで作成した座標データで線を描画するプログラム。
そしてさらにその線画に色を塗るペイントプログラム。
などになっていたのだ。

描き方は簡単だった。
もちろんマウスやタブレットなんて存在しないのでカーソルキーを上下右左に動かし任意の座標でスペースキーを押すと最初の点を読み込み、そしてカーソルを動かし次の座標でスペースキーを押すとふたつめの点を読み込む、という具合に一本のラインの座標を入力していくのだ。
このプログラムでは円または円弧を使用することはなかった。
マウスが存在しない時代だったので、こういうまどろっこしい作業が当たり前で苦にならなかった。

線画が完成すると、描画ソフトで全体を描かせた後、ペイント工程に入る。
線画のデータは一旦カセットテープに記録し、ペイントソフトを立ち上げて、再びカセットテープから線画データを読む込むのだ。
今度もカーソルキーを動かして塗りつぶしたい場所にカーソルを移動させ色を番号で選ぶと、その色で塗りつぶされる仕組みになっていた。
その塗りつぶされ方が、なかなかシュールなのであった。

つづく

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1980年。
高校生だった私は友人の家を訪れた時、妙竹林な機械を目撃した。
それは小さなテレビとタイプライターが一体になった電気製品だった。
友人は自慢げに、電気製品を指さしてこう言った。

「これ、パソコンやねん」

シャープのMZ80とか呼ばれたそのマシーンを見せられた私は、軽い衝撃を受けた。

パソコンというのは、マンガ雑誌の裏ページに「アセンブラ語を取得しよう」などと書かれて電卓の親分のようなものが掲載されていた「あれ」だと私は思っていた。
しかし、友人はテレビみたいなやつを指して「これがパソコンや」と言うではないか。
しかもそいつを使うと、なんと自宅でインベーダーゲームができる!
それにスタートレックゲームができるのだ!

高校を卒業したら芸大に進んで映像を学ぶつもりだった私は、これからはこれかも知れない、とパソコン画面を「ボッバ、ボッバ、ボッバ」と這いずり回っている緑色のインベーダーのキャラクターを見て、来るべくコンピューターグラフィックスの時代を確信したのであった。
ちなみにインベーダーが緑色だったのは、ディスプレーがカラーだからというわけではなく、当時はグリーンディスプレーが一般的だったからだ。
つまり文字も緑、図形も緑、緑黒テレビなのであった。

翌年、大阪芸大に無事入学した私はコンピューターでアニメーションを作ってみようと思い、アルバイトで稼いだお金を資金にパソコンの購入を考えた。

この頃のCGといえばワイヤーフレームが主流。
ボブ・エイブルのジェットコースターの動画や数年前に見たスターウォーズのデススター攻撃作戦の説明に使われた動画が強く印象に残っていた。

そんななかでもNHKのニュースセンター9時のタイトルはレンダリングまでされていて、できればそのような滑らかなCGを作ってみたいと私は思っていた。
なお、当時はレンダリングなんて言葉は知らなかった。

ところが、1981年当時のパソコンといえば、グラフィック機種は限られており、しかも現在のようなフルカラー表示などできるはずもなかった。
だいたいがパターン化したキャラクターをスペースインベーダーの様にカクッカクッ、パタパタパタ、と動かすのが限界だった。
私は各社のパソコンのカタログを集めて吟味に吟味を重ねた結果、夏休みのアルバイトで貯めた30万円ほどを使ってシャープのX1という機種を買い求めることにしたのだった。

クリーンコンピューター(BASIC専用ではないという意味だったと思う)。
7色表示。
640×200ドットの大画面。
先進の8ビットCPU。
データ用カセットデッキ内蔵。
そしてなんといってもワイヤーフレームのグラフィックスが描ける。
などなど。

富士通のFM-8やNECのPC-8801と比べてもグラフィック機能が優れているように思えたのだ。

X1は当時としては極めて先進的な「テレビを見ることが出来る」パソコンだった。
商品名も「パソコンテレビX1」。
だからカタログにはモニターにテレビが映し出されている写真が使われ勘違いを招く原因を作っていた。
カタログの性能欄に表示できる色は7色と書いているが、もしかするとかなりの色数が実現できるんじゃないか。
テレビの映像とコンピュータの映像を合成できるんじゃないか、と間違った期待をさせる力をもっていたのだった。

残念ながら色は本当に7色しか表示できなかったが、確かにテレビの画面と組み合わせる機能はオプションで用意されていた。
ただ初期投資の30万円ではとても追いつかず、学生の私にその環境を実現させることはできなかった。
なんといっても資金不足で10万円以上もするドットプリンターを購入できず、購入したのはモニターと本体だけ。
プログラムの打ち出しは画面に表示された文字をノートに手で書き取るか、カメラでパシャッと写しとるか、どちらかをしなければならなかった。
いずれ漢字の表示機能と併せて購入しようと考えていたが、考えているうちにパソコンの性能が上がって購入する意味がなくなってしまったのだった。

1981年の終わり頃だったか1982年の始めのころだったかは忘れてしまったが、宣伝会議という出版社から「コンピューターグラフィックスのすべて」という雑誌が発売された。
CGへの関心が高かった私は迷うことなく購入。
そこにはテレビや映画で活躍する数多くのCGプロダクションが紹介されていたのだった。

日本国内のプロダクションではJCGLやトーヨーリンクス、白組、NHK、大阪大学などが紹介され、海外のプロダクションではトリプルアイ、ロバート・エイブル、ジョン・ホイットニー、ルーカス・フィルムなどが紹介されていた。

今となってみると、これらプロの会社が製作していたCGは、どれもこれも「コンピューターで作った映像」という特殊事情を除外すると、「素晴らしい」と感動を呼べるものはほとんどなかった。
当時のコンピューターの能力をある程度知っていれば、「あのマシンでここまでできる」と感動する作品ではあったのだが、そんなことは関係ない一般の人にとっては「なんじゃこりゃ」というクオリティの絵であったことは間違いない。
但し、その雑誌にはひとつだけ度肝を抜く映像が掲載されていた。
それはまもなく公開される予定になっていたパラマウント映画「スタートレック2カーンの逆襲」で使われるという架空の惑星をイメージした映像だった。

その映像はまさにリアル。
山があり、海があり、雲がかかり、空気の層までも感じられる。
「どうやって描いたんだろうか?」
「実写じゃないのか」
「うちのパソコンではとても描けないぞ」
という迫力を持っていた。
フラクタル理論に基づいて、と記事の中に書かれていたが、それがどういうものなのか数学の専門家ではない私には漠然としか理解することはできなかった。

ジェネシスと呼ばれるその惑星の映像はルーカス・フィルムのCG部門が製作したものだと紹介されていたが、それが将来のピクサーアニメーションスタジオだったなど、神様しか知らない未来だった。

そういう優れた作例やよちよち歩きのCGと比べても、さらなる低レベル、8ビットパソコン「シャープX1」を駆使しての私の芸大生としてのCG創作活動が始まったのだった。

つづく

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