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フェレー司教様:カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について(その4)

2008年09月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
Sermon de Mgr Bernard Fellay, lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.
20/8/2008


アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2008年8月15日、サン・マロ(フランス)におけるフランス王ルイ13世の宣誓の聖母行列における、フェレー司教様の説教 の抜粋の続きをご紹介します。

(From DICI: Sermon de Mgr Bernard Fellay, lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.)
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私たちは砂の上に家を建てるのを望まない
しかし、私たちの立場としては、このことを良く理解して頂きたいのですが、私たちはローマからのことを何も拒否したことは絶対にありません。今でも私たちは、まず最初に最も基本的な質問を見ることなしに、聖ピオ十世会の教会法上の状況を調整することはできないと言い続けているのです。この基本的なこととは、正に、第二バチカン公会議以後、教会に導入された全ての新しいことです。これと反対のことをする、ということは次の提案を受け入れることと等しいのです。私たちには家が提供されたが、その家はしっかりと建てられていない、何かの上に、地の上に立てられている、もしもこの家が動き続ける砂の上に建てられているとすると、この家に住みますか?もしも明日、この家が崩壊すると知っているなら、この家が沈没してしまうと知っているなら、こう言うでしょう。引っ越して住む価値は無い、と。もしも、ロールス・ロイスという高級車が与えられる、としましょう、ただしこれは車庫にいつも眠っているしかできないとしたら、どうしてこれを与えるのでしょうか?船が与えられるとしましょう、しかし、航海してはならない、としたら。

 これが私たちに起こっていることです。ローマは、教会法の同意を与えようとしながら、もう一度この先ほどのたとえに戻ると、私たちに車や船や家を与えようとしながら、この家がその上に建てられているはずの土台については話し合うことを望まないのです。

 ローマ当局にとって、この車、この船が動く環境とは当然のことなのです。つまり、第二バチカン公会議の環境です。ローマ当局にとって、第二バチカン公会議の新しい点について話し合うなど無いというのが絶対的に明白なことなのです。正に、この点こそが、最大のポイントなのです。この点にこそ、私たちはローマを導きたいのです。ローマがこのことをすることを望まない限りにおいて、私たちは前に進むことが出来ないのです。私たちはどうしても第二バチカン公会議の問題点を吟味することを避けて通ることは出来ないのです。何故なら、そうしないのなら、私たちは砂の上に建設することだからです。私たちは砂の上に建築することは望みません。信仰の名において、教会の教えの名において、教会の実践の名において、私たちはこれを言っているのです。


Nous ne voulons pas construire sur du sable
Mais de notre côté, que l’on comprenne bien, nous n’avons absolument rien refusé de la part de Rome. Encore maintenant nous continuons à dire qu’on ne peut pas régler la situation canonique de la Fraternité, sans avoir d’abord regardé la question de fond, - ce fond qui est justement toutes les nouveautés introduites dans l’Eglise depuis Vatican II. Faire le contraire équivaudrait à accepter la proposition suivante : on vous offre une maison, mais une maison ne tient pas en l’air, elle est bâtie sur quelque chose, sur un terrain…, si cette maison est construite sur des sables mouvants, allez-vous la prendre ? Si vous savez que demain elle va s’écrouler, qu’elle va disparaître engloutie dans les marais, vous vous dites : cela ne vaut pas la peine. De même, si on vous dit qu’on vous donne une Rolls Royce, mais qu’elle ne peut que rester au garage, pourquoi vous la donne-t-on ? Ou si on vous dit qu’on vous donne un bateau, mais qu’il doit rester en cale sèche.

C’est ce qui nous arrive. Rome, en voulant passer un accord canonique ou, pour reprendre cette image, en nous proposant une voiture, un bateau, une maison, ne veut surtout pas qu’on discute de la pierre sur laquelle doit être bâtie la maison. Pour les autorités romaines, il va de soi que l’ambiance dans laquelle circulerait cette voiture ou naviguerait ce bateau, c’est l’ambiance doctrinale de Vatican II. Pour elles, il est absolument évident qu’il n’y a pas de remise en cause des nouveautés de Vatican II, et c’est précisément là le point crucial, le point sur lequel nous voulons amener Rome. Et tant que Rome ne veut pas faire cela, nous ne pouvons pas aller de l’avant. Nous sommes obligés de passer par là, parce que sinon c’est construire sur du sable. Et nous ne voulons pas construire sur du sable. C’est au nom de la foi, de l’enseignement de l’Eglise, de la pratique de l’Eglise que nous disons cela.

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【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:司祭職の目的

2008年09月22日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

From "La sainteté sacerdotale" Mgr Marcel Lefebvre
(マルセル・ルフェーブル大司教「司祭の聖性」)

La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre



La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre


司祭職の目的
 司祭が御聖体に向かって発する聖変化の言葉は、私たちの主イエズス・キリストのいけにえの現在化であると同時に、御聖体において私たちのために糧として与えられた私たちの主イエズス・キリストの現存の、特別な、素晴らしい、神秘的な、天主的な秘蹟を構成する。
 これこそが、決定的に、ミサ聖祭という奉献の心臓であり、本質であり、目的でさえある。これこそがトリエント公会議が言っていることである。司祭職の目的は、聖別し、奉献し、執行し、御聖体を聖別し、天主であるイエズスを私たちの祭壇に来させ、新に天主聖父に私たちの霊魂の救いのためイエズスを捧げ、霊魂たちにイエズスと与えること。何と素晴らしいことであるか、それと同時に単純であることか、そしてどれほど崇高なことであろうか!
【ルフェーブル大司教、1985年3月23日の説教、エコンにて】

[*] - トリエント公会議の公教要理 第26章



La finalité du sacerdoce
Les paroles que le prêtre prononce sur la sainte Eucharistie constituent à la fois la réactuation du sacrifice de Notre-Seigneur et en même temps ce sacrement extraordinaire, admirable, mystérieux, divin, de la présence de Notre Seigneur Jésus-Christ dans l’Eucharistie pour nous être donné en nourriture.
Voilà, en définitive, le cœur, l’essence, le but même de l’ordination : le saint sacrifice de la messe. C’est bien ce que dit le concile de Trente. Le but du sacerdoce est de consacrer, offrir, administrer [*], consacrer l’Eucharistie, faire venir Jésus, qui est Dieu, sur nos autels, l’offrir de nouveau à Dieu son Père pour le salut des âmes et le donner aux âmes. Quelle chose admirable, simple également, mais combien sublime ! - Homélie, Écône, 23 mars 1985.

[*] - Catéchisme du concile de Trente, ch. 26, § 1, 8 et 10.

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【関連記事】

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:聖司祭によるアルス宿弊の改革

2008年09月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


宿弊の改革

 ヴィアンネー師(M. Vianney)は、アルス(Ars)の村びとの恐るべき罪は、宗教に関する無知、いいかえれば、習慣的になってしまった宗教的の無頓着であるということを知った。そして、彼は自分が牧するすべての霊魂の、永遠の運命に深く責任を感じていたから、この悪癖を克服するまで、決して休むまいと決心した。

 彼が最初につとめたのは、信者のすべてに主日の務めを守らせることであった。これなくしては、キリスト信者としての生活は不可能である。

 彼は村びとに礼拝に関する興味をもたせるために、聖堂の心臓なる祭壇と、それから祭器と祭服とを、できるだけ華麗にした。彼はたびたび徒歩でリヨン市に出かけて、教会用貴金属商の店に立ち寄っては、よい物を、よい物をと選んで買って来た。彼はそのために私財をついやした。この買い物は、彼の粗服と貧相な容姿とに、奇妙な対照となって、商人を驚かせたそうである。驚いたのは商人ばかりでない。一日、彼といっしょに買い物に行ったアルスの城の女主人も、彼の選択の贅沢なのに、びっくりしたと伝えられている。

 こうして、聖堂の内部は、見ちがえるほど美しくなり、祭日も祭日らしくなった。日曜日に集まる信者の数も・・・まだ好奇心にかられて来たのかもしれないが・・・増加してきた。

 宗教上の無知を癒すためには、教育のほかはない。彼は着任早々、少年少女の公教要理のクラスを作った。村の子供たちは六、七才のころから牧童の役をつとめ、一二才ごろになると、父兄を助けて畑に働いた。この地方では、農家の雇い男というものはほとんどなかった。子供たちの大部分は読み書きを知らず、公教要理の勉強も、雨の多い冬の時期にかぎられていたようなありさまで、農業が忙しい季節には、主日の務めも忘れられてしまう。このような具合に成長して青年期にはいると、まもなく悪い友だちができ、ついに気ままな生活にはいり、全然物質化してしまう。それで、せっかくの初聖体も、子供にとって、なんの意味もない、形式的の出来事になってしまうのである。

 それゆえ、師は一一月一日の諸聖人の大祝日から、春の初聖体の季節まで、子供たちを毎朝六時、すなわち仕事に出かける前に教会に集めた。日曜日の公教要理は、夕べの務めの前で、午後一時ごろだった。彼は愛と親切とをもって、彼らを導き、やさしい、短い説明をこれに加えた。しかし、彼は同時に子供たちにまことの天主への奉仕を要求した。

「世の中には、なぜこの世に生まれて来たかということを知らない信者がいる。」
「天主様、なぜあなたは私をこの世に生まれさせたのですか?」
「それは、おまえを救うためである。」
「それならば、なぜ、あなたは私を救おうとおぼしめしになるのですか?」
「それは、私がおまえを愛するからである。」
「そのとおり、天主は私たちを愛したもうがゆえに、私たちをつくってこの世においてくださったのだ。私たちの霊魂を救うためには、私たちは天主を知り、天主を愛し、天主に仕えなければならない。このような一生は、なんと美しい一生だろう。天主を知り、愛し、天主に仕えることは、なんと美しいことであろう。この世で私たちがしなければならないのは、このことだけだ。これ以外に、私たちがすることは、時間の無駄使いというものだ。」

 あるいは、また、彼は次のように説いた。
「世の中の人々は、霊魂を救うのはむずかしいと言っている。けれども、こんなにたやすいことはない。天主と教会との戒めを守り、七つの罪源を避ければよい。言いかえれば、善を行ない、悪を避けるのである・・・私たちの行ないのよい規則がある。それは天主にささげることができることのみを行なえ、ということだ。」

 日曜日の説教は、また特にヴィアンネー師に苦心を求めた。師の記憶は神学生時代から、あまりすぐれていなかったからだ。彼はまず聖人伝や、トリエント公会議の教理解説や、ロドリゲスの信心書や、その他二、三の説教集などをひもといて勉強し、ついで祭壇の前に行き、重体のうちにまします主のみ前にいでて、読んだ題材を黙想した。それから、自分の話そうとする説教を書く。細かい文字で、大きい紙の八ページから十ページまでを埋める。これまでに六、七時間はかかるのである。彼はしばしば夜おそくまで勉強をしていた。

 次が最も困難な仕事で、説教の暗記である。土曜日から日曜日にかけての夜を、師はそれに当てた。夜おそく家に帰る村びとは、彼が説教の諳唱をしていたのを、よく聞きつけたものである。眠くていよいよたまらなくなると、彼は敷石の上に、そのままうたたねした。

 翌日は日曜日で、ミサは十一時である。彼は前日の正午から少しも食事をせず、彼の頭は終夜の努力につかれきっている。それなのに、彼は歌ミサを歌って、一時間続く説教をした。それだから、途中で説教の続きを忘れて、そのまま説教壇をおりることなども、最初のうちはあったそうである。
彼の声は高かったが、調子と身ぶりとはきわめて自然であった。

「神父様、なぜあなたはお祈りをする時には、小声でして、お説教の時だけ、あんなに大声をお出しになるのですか?」と、開いた信者があった。彼は人のよさそうな笑いをうかべてこう答えた。
「それは、私が説教をする時には、耳の遠い人たちや、いねむりをしている人たちに話をしているのだが、お祈りをきいてくださる天主は耳が遠くないからね。」

 説教壇上で、彼はなにを語ったか?彼の説教には無駄な世辞や、曖昧な言葉は、まるでなかった。彼は卒直に、明瞭に、村民の悪習慣を責めた。ことに最初の時期において、彼のことばは激しく村民をおびやかすようだった。

「キリスト様はエルザレムのためにお泣きになった。・・・私もまたあなたたちのために泣くのだ。私の兄弟たちよ、私はどうして泣かずにおられよう。地獄はあるのです。それは私が考え出したものではない。天主がそうおおせられた。それなのに、あなたたちは少しも注意しない。・・・あたたたちは、そこにやられるような暮らし方をしている。あなたたちは天主のみ名を冒涜する。あなたたちは居酒屋で夜ふかしをする。あなたたちはダンスの罪にけがれた快楽を貪る。あなたたちは隣の人の畑のものを盗む。あなたたちは、天主のみ旨に背くことばかりしているのだ。あなたたちは天主があなたたちを見ないと思っているのか。いな、私の子供たちよ、天主は、今私があなたたちを見ているのと、同じようにあなたたちを見ておいでになる。そして、あなたたちをしわざに応じてお裁きになる。なんたることだ!地獄はあるのだ。どうか、地獄のことをお考えなさい。あなたたちは、あなたたちの神父が、あなたたちが永遠に焼かれるために、地獄に投げ入れられるのを、見てだまっていると思いますか?あなたたちはこの苦しみを、あなたたちの神父にかけようとするのか?」

 それは「なんじみ言葉をのべつたえて、時なるも時ならざるも、しきりにすすめ、忍耐をつくし、教理をつくして、かつ戒め、かつ願い、かつ脅せ」(チモテオ後書四ノ二)という聖パウロの訓戒のそのままの実行であった。

「居酒屋は悪魔の店で、地獄がその教理を教えこむ小学校だ。居酒屋は信者が霊魂を売る所だ。家庭が滅び、健康が失われ、喧嘩が始まり、殺人の犯される所だ。」
「酔いどれは一番馬鹿な畜生よりも、もっと馬鹿なのだ。」
「居酒屋は貧しい妻と子供たちのバンを奪って、一週間の労働を日曜日につかってしまうよいどれに酒をのます所だ。・・・夜や教会のお務めの時間によいどれに酒を売る居酒屋に罪のゆるしを与えると、神父が地獄におちてしまう。・・・悪魔は居酒屋をあまりいじめない。ただ彼らは軽べつして唾を吐きかけるだけだ。」

 主日の労働に対しては、彼は次のように言った。
「あなたたちは働いているのだが、もうけるものは、霊魂と身体との滅びだけだ。日曜日に働く人に《あなたはなにをしているのですか?》と問う人があったならば、《私は私の霊魂を悪魔に売り、イエズス・キリストを十字架にかけて来た。私は地獄に行こうとしているのです》と答えるがよい。私は日曜日に車をひいている人を見ると、自分の霊魂をその上にのせて、地獄に運びこむ人を見ているような気がする。」
「日曜日は天主のもの、天主の日で、主日と呼ばれている。天主は一週間の日をみなおつくりになったのだから、みなご自分のものとなさっても差支えがなかった。しかし、天主はご自分のためにただ一日をおとりになって、残りの六日をあなたたちにくださったのだ。あなたたちは自分のものでないものに、なんの権利があって、手をふれるのか?盗んだ金は決して役にたたないとは、あなたたちも知っている筈だ。天主から盗んだ一日も、やはり役にたつものではない。私はたしかに貧乏になる二つの手段を知っている。それは、日曜日に働くごとと、他人の金を盗むこととだ。」

 ヴィアンネー師は、ダンスに対しても、歯に衣をきせずに、説教壇上から攻撃した。しかし、ダンスはこの地方で非常に流行していたために、さすがの師も、これを全然アルス村からなくしてしまうために、二五年を要した。彼がダンスと少女の慎みを欠く服装とを叱責したのは、これらに夢中になる人々は、質朴な、純潔な楽しみを味わえなくなるからである。また、子女に、かかることを許容する家庭は、決して、信心を重んずる家庭ではないからである。罪を避けようと欲する者は、罪をおかす機会をも避けねばならぬ。彼は、罪と機会とをひとまとめにして、これを攻撃した。

「ダンスで犯されない罪はない。《なに、私は娘に気をつけますからだいじょうぶです》と言う母があるかもしれない。あなたがたは娘の化粧に気をつけることができるかもしれないが、娘の心に気をつけることはできないのだ。のろわれた父よ、母よ、地獄に行くがよい。そこには天主の御怒りがあなたたちと、あなたたちが子供たちを手ばなしにしてかってな真似をさせた、そのあなたたちの仕業とを待っている。地獄に行くがよい。まもなくあなたたらの子供たちも、あとを追って来るだろう。あなたたちが彼らに道を教えてやったからだ。その時、あなたたちはあなたたちの神父が、このような悪魔的な娯楽を禁止したのが、ほんとうだったということがわかるだろう。ああ、ダンスは悪魔を地獄にひきずりこむ綱であるのに、ダンスにはなんらの幸もないと思いこむほど、盲目になってしまうとは、なんたることであろうか?」

「兄弟たちよ、ダンスに行く信者は、その入口で守護の天使を残して、その代わりに悪魔に案内してもらうのだ。だからダンスの部屋には踊り手と同じ数だけの悪魔がはいっている。」

 あるときは、彼は次のように告げる。それは、最後の審判に関する福音書のことば、「のろわれし者よ、われを離れよ」の一旬についてであった。

「天主にのろわれるとは、なんという恐ろしいことであろう。わが子供たちよ、それがわかりますか?祝福することを好みたもう天主にのろわれる。善そのものにまします天主にのろわれることは取り返しがつかない。永遠にのろわれる。それが天主にのろわれることだ」

 信者の中で、笑う者はなかった。なぜならば、師は自分が天主にのろわれている罪人であるかのようにみじめに泣いていたからだ。彼は続ける。

「世の終わりにひとりひとりの信者が神父に会う。主イエズス・キリストはのたもうであろう。《神父よ、彼らをのろえ》と《主よ、私が主のために洗礼をほどこした子供たちをのろうのですか?》《神父よ、私の命令だ、彼らをのろえ》《主よ、私が主のために教え、主の聖体を与え、主のみ言葉のパンを頒った子供たちを、私がのろうのですか?》と、神父は彼らのためにしたことを、キリスト様に申し上げるだろう。けれども、主イエズス・キリストは答えたもうであろう。《神父よ、彼らは汝の言葉を聞かなかった。彼らをのろえ。わたしの命令だ、彼らをのろえ》と。ああ、わが兄弟たちよ、神父にとって、これはどんな悲しみだろうか?けれども、そうなるのだ、ほんとうにそうなるのだ。」

 信者たちが、地獄の中におちたような気がして、恐れにふるえていた時、彼の言葉は一転した。「きたれ、わが父に祝せられし者よ」試練の時はすぎ、収穫の日は来た。

「われらは天主を見奉るのだ。われらは天主を見奉るのだ。わが兄弟よ、あなたがたはそのことを考えたことがありますか?われらは天主を見奉るのだ。まっすぐに天主を見率るのだ。天主のましますそのままを、おもてとおもてを合わせて見事るのだ。」

 ある時、彼は脱魂の状態におちいって、自ら天主を見奉れるもののように、数分の間、「われらは天主を見奉るのだ」「われらは天主を見奉るのだ」と言い続けていたと、目撃した人が証している。
 彼はこのような調子で、ひとつひとつ村の悪習と戦って、まことにあきることを知らなかった。彼は確固たる信念をもって、どうしても、もろもろの悪を、アルスから駆逐せねばならないと考えていた。彼は全心、全霊をそのことばのうちにこめて、信者たちに語った。彼の説教は通り一遍のものではなかった。彼は真理を語った。彼は悪を憎んだ。それゆえ、酒に酔う者、天主をののしる者、日曜日に労働する者、ミサをなまけてもダンスをなまけない者どもは、ヴィアンネー師の説教を聞いて顔を赤らめ、頭をたれた。(師は特に、平素教会に顔を出さない連中も、大部分は集まって来る、年に数回の大祝日を選んで、激しい攻撃をこれらの悪習の上に加えたのであった。)彼らは少数の善良な信者が彼らの上に加える非難を無言のうちに感じたのである。そして、その後、また同じ罪の生活にもどっても、もはや、彼らの良心は安らかではなかった。

 その理由の一つは、たとえ、ヴィアンネー師の目をのがれようとしても、そのことが不可能であったからだ。師はいつも畑や往来を歩いているように、彼らには思えた。そして、何も見ていないようで、その実、何一つ見落とさないように感じられた。何か罪がおかされそうな所には、師はきまってやって来た。それはまるで彼が罪の匂いをかぎつけて来るようだった。実際、聖人が罪の一種の、きわめていとうべき悪臭を感ずるということは、聖人伝中にまれではないのである。

 ある夏の日曜日のことであった。彼が野道を歩いていると、牧草を満載した車がやって来た。百姓は師の姿を見かけると、すばやく積んだ牧草の中にもぐりこんだ。彼は行きすぎる時に声をかけた。
「こんな時に、私に会ったので、おまえは困っているようだが、天主さまはいつでも、おまえを見ておいでになるのだよ。おまえが恐れなければならないおかたは天主さまなのだ。」

 また、ある時に、彼は娘をダンスに連れて行こうとする父親に出会った。百姓は非常に困って、どもりながら種々と弁解した末に「私は娘を踊らせはいたしません。ただ見ているだけなのです。」と言った。

 師は皮肉に、「その手は踊るまいさ、けれども、その子の心は踊るだろうよ。」と答えた。
ヴィアンネー師は、ある種の弊善を除くためには、すすんで積極的な行動をとった。たとえば、居酒屋のうちで、ことに教会に近い一軒の亭主が、師に「神父様のように説教をなさっては、私たちの暮しがたって行きません」と、苦情を言って来た時、いくばくかの金をやって、断然店をしめさせてしまったことがある。

 また、ある日、教会のそばの広場でダンスがあるということを聞いて、師は朝早く村はずれまで行って、そこで音楽師を待ちうけた。そして、このバイオリン奏者がもらう金の倍額を彼にやって、彼をかえしてしまった。いよいよダンスの始まる時刻になったけれども、肝心の音楽師がやって来ない。若者たちはがやがやさわぎだした。しかたがないから、バイオリソなしで踊ろうということになって、その代わりに歌をうたいだした。つまらなさそうな娘たちを無理にひっぱり出して、踊ってはみたものの、少しも興がのらなかった。それでも、やけ半分にしいて、愉快なまねをしてさわいでいる時に、ヴィアンネー師が姿をあらわした。師はだまって広場のかたわらを通りぬけて聖堂のほうに行った。けれども、それで十分だった。あとで笑いながら師の語るところを聞けば、若者も娘たちも、師の姿を見るやいなや「すずめの群れのように」ちりぢりに逃げて行ったそうである。

 もちろん、なかには、どうしても師に反抗しょうとした若者があって、彼らは教会から遠い、村はずれに行って踊ったが、師の勝利はこれで明白になった。もはや、天主の家は不潔なにぎわいに災いされることがなくなった。しばらくのちには、村長から教会の近くでダンス会を催すことが禁じられ、居酒屋は、客人がないために閉店してしまったのである。

 これらの物語でもわかるとおり、ヴィアンネー師は完全に村民の心を征服してしまった。村の中心である教会の付近は天主のものとなった。

 危険な娯楽を駆逐した師は、それに代わる高尚な楽しみを村民に与えなければならない。楽しみのない日曜日は気がぬけた一日だ。まず第一に、師は村民を教会の夕べの務めに興味を持たせるようにした。その後にロザリオ会をおこした。アルスでも、最初に師のまねきに応じて、師の周囲に集まって来た者は、純真な少女たちであった。彼女たちは、夕べの務めと、ロザリオとを愛するようになり、しだいに、それがむしろ彼女たちにとって、一つの必要となるまでになった。のちには、師は彼女たちを司祭館の庭園にまねいて、そこになっていた桜んぼをかってにつませた。師はその間、司祭館の中にはいっていたが、しばらくたってから、彼女たちを台所に呼び寄せて、彼女たちのために聖人伝の一節を読んで聞かせた。村はずれのどこかでは、ダンスが行なわれている時刻だった。

「あなたがたは、ここにいるほうが幸福でしょう。」と師は少女たちをかえりみて言った。

 かくて一〇年あまりの不境不屈の努力(どれほどの苦業、どれほどの祈祷、また、どれほどの訓戒と苦心)の後に、アルス村の改革は成った。酔いどれは姿を消し、居酒屋は閉店し、ダンスもなくなり、青年男女のいかがわしい散歩姿も見えなくなった。たまに両親の目をぬすんで、となり村に踊りに出かける不心得の少女があれは、家に帰って来ると、両親の激しい懲戒を覚悟しなければならなかった。

 日曜日は主の日として、ふさわしく守られるようになった。祭日に集まる人がふえるにつれて、教会の装飾はますます充実してきた。師が祭器、祭服のために、どれほど金銀をおしまなかったかということは、前にしるした。師は実に自分一個の生括のためには、どのようなそまつな器具、そまつなスータンでも十分であった。しかし彼が、天主の司祭として、万軍の天主なる主のみ前にでる時には、どのような美々しい祭服をつけ、高価なる銀の器を用いても、それで足りると思わなかったのである。

 師はまもなく、教会の建物、それ自身にも手をつけ出した。一八二〇年には古い木造の鐘楼が、四角のれんが造りの鐘楼と代わった。同年に、師は聖堂の側方をひろげて、聖母にささげた小聖堂を造った。一八二二年には聖堂の天井を修理した。

 翌年、一八二三年には、師は第二の側方小聖堂を造って、これを自分の守護の聖人、洗者聖ヨハネにささげた。この小聖堂の欄間にかかげられた銘は、師の当時の心持ちを躍如として表わしている。「彼の頭はひとたびの舞踊の値なりきと。(これはもちろん、ヘロデの娘サロメの舞踊の結果だった、洗者聖ヨハネの殉教を暗示することばである。)のちにこの小聖堂の祝別式の時に、師は一つの出現を見たであろうという噂がひろがった。

 それは、ある日曜日に、説教の中で、彼が「わが兄弟たちよ、もしあなたたちがこの聖堂の中で起こった出来事を知ったならば、あなたたちはこの中にあえてはいりこまないであろう。私には、それ以上のことは言えません・・・」と、くりかえして、数回言ったからである。おそらくは、洗者聖ヨハネがヴィアンネー師にあらわれて、将来ここに置かれるべき告解場、およびその中にひざまずくべき無数の痛悔者を、師に示したのであろう。

 とにかく、師が自費でこの小聖堂を建てた時には、師は金が一文もなくなってしまって、しかも、なお建具屋から五百フランの支払い請求書が来ていた。もともと、師の私財というのは、教区から支給されるわずかな手当と、父よりの遺産の分として(父のマチュ・ヴィアンネーは師がアルス村に来た翌年の一八一九年に永眠して、師もまたいくぶんの遺産をもらった)兄のフランソアが毎年送ってくれる年金とであったが、それがすでに全部左官屋に支払われてしまったのである。師は非常に当惑して、少し頭をひやそうと戸外に出た。ところがしばらく行くと、先方から見知らぬ婦人がやって来て、なにかの善業におつかいくださいと言って、六百フランの金を師に手渡した。師はこれを天主の摂理のおんはからいとして感謝したが、しかしながら、同時にこれを天主の訓戒として、それからは、特別の場合を除くほか、商人や職人に、金を前私いにすることにきめたそうである。

 その後に三個の小聖堂がつぎつぎに加えられ、また後方にも増築された。

 師はまた多数の聖像を購入した。聖ヨゼフ、聖ペトロ、教会の守護者なる聖シクスト、聖ブラジオ、聖女フィロメナ、聖ラウレンシオ、アシジの聖フランシスコ、シェナの聖女カタリナ、聖ブノア・ラーブル、大天使聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルなどと、師は素朴な農夫らに、これらの聖像の与えるよい影響を知っていたのである。

 ヴィアンネー師の聖堂修理、および拡張事業の熱心な後援者となったのは、アルス城の女主人の兄弟フランソア・デ・ガレ子爵であった。子爵は平素パリに居住していたが、一八一九年の春に一週間ほどアルスの城に滞在し、その際、ヴィアンネー師と相知ることを得た。彼は、断食と不眠と伝道のためにやせおとろえた、この三三才の司祭に非常に感激して、絶対の信頼を置くようになったのである。こうして子爵は、たえずパリから貴重な祭器、祭服を師に発送した。師もまた重い木箱が届けられるたびごとに子供のように喜んで寛大な施しものをうけた。子爵はまた教会の入り口をひろげ、聖堂の前の階段を改築する費用をも喜捨した。

 こうして一八二六年ごろ、すなわち、ヴィアンネー師がアルス村に来てから一〇年ののちには、聖堂はほとんど今日残存する外観を呈したのである。

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:ミサ聖祭は、教会の偉大な祈り

2008年09月20日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

From "La sainteté sacerdotale" Mgr Marcel Lefebvre

La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre

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唯一の偉大な祈り、それはミサ聖祭である。ミサ聖祭こそあなたたちの使徒職の心臓となるだろう。もしもあなたたちがミサ聖祭が何であるのかを理解しないのなら、自分の使徒職において何も理解することが出来ないだろう。何故なら、ミサ聖祭は私たちの主イエズス・キリストの偉大な祈りであるからだ。カルワリオは私たちの主イエズス・キリストの偉大な祈りであったからだ。ここでこそ、自分を天主聖父に真に捧げなければならない、あなたたちが自分の全使徒職の恵みとあなたたちが霊魂たちに説教しに行くために必要とする熱心との泉は、そこ、ミサ聖祭にこそ見出さなければならない。そうしてあなたたちは霊魂たちを私たちの主イエズス・キリストへと、祭壇へと引き寄せることだろう。これがあなたたちの役割である。
【ルフェーブル大司教、1977年2月2日の説教、エコンにて】


La seule grande prière, c’est le saint sacrifice de la messe. C’est cela qui sera le cœur de votre apostolat. Vous ne pourrez rien comprendre à votre apostolat si vous ne comprenez pas ce qu’est le sacrifice de la messe, parce que le saint sacrifice de la messe est la grande prière de Notre-Seigneur. Le Calvaire a été la grande prière de Notre-Seigneur. C’est là qu’il s’est offert véritablement à Dieu son Père, c’est là aussi que vous trouverez la source de tout votre apostolat et le zèle dont vous aurez besoin pour aller prêcher aux âmes. Et vous attirerez les âmes à Notre Seigneur Jésus-Christ, vous les attirerez à l’autel. Voilà votre rôle - Homélie, Écône, 2 février 1977.




La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre


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【関連記事】

フェレー司教様:カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について(その3)

2008年09月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2008年8月15日、サン・マロ(フランス)におけるフランス王ルイ13世の宣誓の聖母行列における、フェレー司教様の説教 の抜粋の続きをご紹介します。

(From DICI: Sermon de Mgr Bernard Fellay,
lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.)


===


私たちはこの神学的論争が本質的であると考える

 私は、ローマからの提供を拒否したと言われます。しかしローマから提供はありませんでした。ただ単に、これらのことが(枢機卿曰く)「長引く」ことに忍耐を切らせた枢機卿がいただけです。
 ところで、私たちは2000年から常にローマ当局に対して、私たちは彼らを信頼することが出来ないこと、もしも対話を望むのなら、私たちが何らかの信頼をもう一度することができるような印を与えることから始めなければならないことを言い続けてきました。
 このしるしとは2つあります。聖伝のミサの自由と司教たちの破門の教令の撤回です。7年後、これらの2つの内の一つのことは実現したと言えます。残るは第2の点です。この後で、私たちは既に言った通り、話し合う準備が出来ています。私たちはそのことをもう一度繰り返して言います。何故なら、これはとても大切なことだからです。私たちはこの神学的論争が本質的であると考えます。この論争が公会議と公会議後に言われていたことが啓示に、教会の教えに忠実であるか否かを見ることを許すはずだからです。教皇様の上に立とうとするのは私たちではありません。何故なら、幾つかの命題を列聖し、ドグマとして定義づけたのは過去の教皇様たちだからです。これらの命題は、変わることが出来ません。ドグマとは改革され得ないのです。従って、裁判官として立つのは私たちではないのです。
 私たちはただ単に今日の教皇様につぎのことをお願いしたいのです。つまり、教皇様が私たちに言うことが、御自分の前任者の教皇様たちが行ったこととどう対応しているのか私たちに説明してほしいと言うことです。使徒聖パウロのとても明白な言葉「たとえ天使であれ、あるいは私じしんであれ、あなたたちに私が教えたものとは別の福音を伝えるものには呪いあれ」(ガラチア1:8-9)を頭に浮かべなからこれを求めています。これ以上強い言葉はありません。
 聖パウロは既に私たちが今生きている状況を予見していたかのような印象を与えています。聖パウロは使徒でした、かれが「たとえ私であれ」というのです。もしも「私があなたたちに以前私が教えていたことと違うことを何か教え始めたとしたら、私に呪いあれ!」と。もしも、天使があなたたちに別のことを教えに来るのなら、呪いあれ!と。

 私たちには二十世紀の教会の教義の教えがあります。これこそが教皇様を判断するのです。私たちではありません。教皇様は、与えられた条件を満たすときに始めて不可謬となるのです。教皇様はそのことを知っているのですから、教皇様は御自分の不可謬権を行使しなければなりません!その時、御自分の前任者の教皇様たちのように、信仰を語るでしょう。今、第二バチカン公会議の時のように、もしも教皇様がこの不可謬権を行使することを望まないなら、第二バチカン公会議に起こったことが起こるでしょう。

Nous considérons comme essentielle cette confrontation théologique
On dit que j’ai refusé une proposition de Rome, mais il n’y avait pas de proposition de Rome. Il y avait simplement un cardinal impatient de ce que les choses, disait-il, « traînent ». Or nous avions depuis l’an 2000 dit aux autorités romaines que nous ne leur faisions pas confiance et que si elles voulaient un dialogue il fallait commencer par donner des signes qui puissent nous faire retrouver quelque confiance. Ces signes étaient au nombre de deux : la liberté de la messe traditionnelle et le retrait du décret d’excommunication des évêques. Après sept ans, on peut dire qu’un des points est réalisé. Reste le deuxième. Après cela nous sommes disposés à discuter, avions-nous dit. Et nous le disons encore car c’est très important, nous considérons vraiment comme essentielle cette confrontation théologique qui doit permettre de voir si ce qui a été dit au concile et après le concile, est fidèle à la Révélation, à l’enseignement de l’Eglise. Ce n’est pas nous qui nous érigeons au-dessus du pape, ce sont les papes du passé qui ont canonisé un certain nombre de propositions, qui les ont définies dogmatiquement. Ces propositions ne peuvent plus être changées. Un dogme est irréfragable. Donc ce n’est pas nous qui nous érigeons en juges. Nous demandons simplement au pape d’aujourd’hui de nous expliquer comment ce qu’il nous dit correspond à ce que ses prédécesseurs ont dit, ayant en tête les paroles très claires de l’apôtre saint Paul : « Si un ange, ou moi-même, vous annonce un évangile différent de celui que je vous ai enseigné, qu’il soit anathème » (Gal.,I,8-9). Cela ne peut pas être plus fort. On a l’impression que saint Paul prévoyait déjà des situations comme celle dans laquelle nous nous trouvons : Si moi-même – et il est apôtre – je commence à vous enseigner quelque chose de différent de ce que je vous ai enseigné auparavant, que je sois anathème ! Si un ange vient vous enseigner autre chose, anathème !

Nous avons 20 siècles d’enseignement de la doctrine de l’Eglise. Ce sont ces choses-là qui jugent le pape. Ce n’est pas nous. Le pape est infaillible quand il correspond aux conditions qui lui sont données. Et puisqu’il le sait, qu’il fasse usage de son infaillibilité ! Et il dira la foi, comme ses prédécesseurs. Maintenant si, comme au concile Vatican II, on ne veut pas faire usage de cette infaillibilité, il arrivera ce qui est arrivé.

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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:ミサ聖祭は、司祭生活の中心

2008年09月19日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

From "La sainteté sacerdotale" Mgr Marcel Lefebvre

La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre

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ミサ聖祭は、司祭生活の中心
 司祭は毎朝、聖なる玄義を執行するために祭壇に登る。ミサは司祭生活の中心である。ミサは最高の祈りであり、司祭の使徒職の源泉である。私たちの主イエズス・キリストは、その時、カルワリオで勝ち得た功徳を霊魂たちに適応させ、司祭が御自分の苦しみに司祭自身の苦しみを一致させ贖いの業を継続させるようにし給う。

ミサ聖祭は、教会の偉大なる祈り
 もしも私たちの主イエズス・キリストが信仰によって教会に真理を伝えたのなら、それは祈る教会を創るためであった。何故ならイエズス・キリストは偉大な祈りの人であったからだ。イエズス・キリストの地上での生活の間、そして今でも天国において、私たちの主イエズス・キリストは常に私たちのために祈っておられる(ヘブライ7:25)。イエズスは偉大な祈る方である。そこで、教会もまた、イエズスの姿に倣い、偉大な祈るものでなければならない。祈りへと導かないような信仰は、死んだ信仰である。
 ところで、イエズスが御自分の教会に伝えたこの祈りとは一体どんな祈りであろうか?これは明らかにミサ聖祭である。私たちの主イエズス・キリストの偉大な祈りがそのカルワリオであったように。[*] イエズスが最大なる祈りの方であったのは、十字架の上でであり、従って、教会の最大の祈り、教会が全ての信者たちに緊密に深く天主を礼拝しならが、私たちの主イエズス・キリストを礼拝しながら、私たちの創造主を礼拝しながら、私たちの贖い主を礼拝しながら一致するように求めているのは、ミサ聖祭である。[**] イエズスが御自分の教会に伝え給うたのは、何と偉大な祈りであろうか! この祈りにおいて、イエズス・キリストは私たちがその御体、御血、御霊魂、御神性に与るように望み給うた。それは私たちもイエズスのように祈るものとなるためである。私たちの全ての生活が祈りとなり、奉献となり、賛美歌となり、感謝の歌となるためである。これこそが、イエズスが御自分の教会に伝え給うたものであり、私の愛する友よ、これこそをあなたたちは行うことになるのです。
【ルフェーブル大司教、1982年2月2日の説教、エコンにて】

[*] - 「ミサはあり得る限り最高の観想の業である」(聖ヴィンセンシオ・フェレル)
[**] - 「たった一回のミサ聖祭でも、全ての天使の賛美と全ての人間の殉教がすることができるよりも更に天主に栄光を帰す。全ての天使の礼拝と全ての人間の殉教とは限界のあるものだ。しかしミサ聖祭は無限である。」(シャルル・ド・フーコー神父)

Le saint sacrifice de la messe : cœur de la vie sacerdotale
Le prêtre monte chaque matin à l’autel célébrer les saints mystères. La messe est le centre de sa vie sacerdotale. Elle est la prière par excellence et la source de son apostolat. Notre-Seigneur alors applique aux âmes les mérites acquis au Calvaire et engage le prêtre à unir ses souffrances aux siennes pour continuer l’œuvre de la Rédemption.

La grande prière de l’Église
Si Notre-Seigneur transmet la vérité à l’Église par la foi, c’est pour en faire une Église priante, car Jésus fut le grand priant. Au cours de son existence terrestre et maintenant encore dans le Ciel, il est toujours présent pour prier pour nous (He 7, 25). Jésus est le grand priant. Alors l’Église aussi, à son image, doit être la grande priante. La foi qui ne conduirait pas à la prière serait une foi morte. Or, quelle est-elle donc cette prière que Jésus a transmise à son Église ? Il est évident que c’est le saint sacrifice de la messe, comme la grande prière de Notre Seigneur Jésus-Christ fut son Calvaire [*]. C’est sur la croix qu’il a été le plus grand priant et c’est le sacrifice de la messe qui est la grande prière de l’Église, prière à laquelle l’Église demande que tous les fidèles s’associent intimement, profondément, adorant Dieu, adorant Notre Seigneur Jésus-Christ, adorant notre Créateur, adorant notre Rédempteur [**]. Quelle magnifique prière que celle que Jésus a transmise à son Église ! Et, dans cette prière, il a voulu que nous participions à son Corps, à son Sang, à son Âme, à sa Divinité, afin de devenir nous aussi des priants comme lui ; que toute notre vie soit une prière, une offrande, un chant, un cantique d’action de grâces. Voilà ce que Jésus a transmis à son Église et ce que vous aurez à faire, mes chers amis - Homélie, Écône, 2 février 1982.

[*] - « La messe est la plus haute œuvre de contemplation qui puisse être » (saint Vincent Ferrier, Sermon de Carême). 
[**] - « Une seule messe glorifie plus Dieu que ne pourraient le faire la louange de tous les anges et le martyre de tous les hommes ; le martyre de tous les hommes et l’adoration de tous les anges sont quelque chose de fini, une messe, c’est l’infini » (père Charles de Foucauld, 17e Entretien).

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韓国の聖ピオ十世会の新しい聖堂を写真でご紹介します

2008年09月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!


愛する兄弟姉妹の皆様

 韓国の聖ピオ十世会の新しい聖堂を写真でご紹介します。


聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
ソウルの地下鉄駅「東大門」の近く、イェイル・ビルの2階にあります。
一階は「ハナ銀行」です。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
エレベーターを降りると聖ピオ十世会のロゴが見えます。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
入り口です。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
ガラスの門を通して見える様子です。奥には聖母マリア様の御像があります。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
中に入ります。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
聖堂の中です。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」
祭壇の様子です。

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」

聖ピオ十世会韓国の聖堂「無原罪の御宿り」


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フェレー司教様:カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について(その2)

2008年09月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2008年8月15日、サン・マロ(フランス)におけるフランス王ルイ13世の宣誓の聖母行列における、フェレー司教様の説教 の抜粋の続きをご紹介します。

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 それではこの最後通常は何にあったのでしょうか?その目的とは何だったのでしょうか?このインタビューが終わって帰るとき、私はネリー神父様にこう言いました。私はやるせない、何故なら緊張で一杯の劇のような一幕に臨席しなければならなかったから、そこで枢機卿はこう宣言していた「もう終わりだ! 私は報道会見を開く。私は全てを止める!」私から枢機卿が期待していたこと、私には分からない、と。

 翌日、私はネリー神父様をもう一度送って、もう一度同じ質問をさせました。「あなたは何がお望みなのですか?」

 すると30分ほど待たせた後、この間、例の有名のインターネットで拡げられた5つのポイントが書き上げられたのです。

 5つのポイントの最初はこれです。「フェレー司教は、教皇の寛大さにつり合った応答をすることを約束しなければならない。」

 これは一体何を言おうとしているのでしょうか? 極めて曖昧な言葉で、全てを言うことも何も言わないことも出来ます。この「教皇の寛大さ」とはモートゥー・プロプリオのことであると想定しなければなりません。そしてこれにつり合った応答とは、この文書が私たちのためではなかったと言うことを認識しつつも、それを感謝することでした。何故なら、これは教会の全ての司祭たちのためのものだったからです。それ以外にはあまりよくわかりません。

 次に、この手紙の中には、私が教皇その人に対する尊敬するようにしなければならないことになっていました。これは、教皇様を傷つけてはならないということを言おうとしているのだと思います。しかし、もしも、教皇様がアメリカに行ってそこで全ての宗教の自由が宣言されているアメリカという国は素晴らしいと宣言したその旅行の後で、教皇様が完全にリベラルだということが「傷つけること」であると考えるのなら、本当にこれ以上リベラルな宣言は見つけることが出来ないからです。私は、自分の言葉で傷つけることが何なのかよく分かりません。

 第3のポイントは、もっと敏感な問題です。何故なら「教皇よりも優れた教導権を持つと主張し、聖ピオ十世会を教会と対立させるように提示しないこと」を私に求めているからです。これも同じで、全てを言うことも何も言わないことも出来ます。この表現で、私たちが反論をする度に、私たちはこう言われることでしょう。「あなたたちは教皇様の上に自分をおいている」と。

 これは、ローマが、私たちが第二バチカン公会議に反対して何敢えて言う事実に同意していないということを理解させる重要な点です。このために問題が生じているのです。

(続く)

Alors en quoi consiste l’ultimatum, quel est son objet ? A la sortie de cette entrevue, je disais à M. l’abbé Nély que j’étais très frustré parce que j’avais assisté à une mise en scène théâtrale, emplie d’émotion, où le cardinal déclarait : « C’est fini ! Je convoque une conférence de presse. J’arrête tout ! ». Mais ce qu’on attendait vraiment de moi, je l’ignorais. Si bien que j’ai renvoyé M. l’abbé Nély le lendemain pour qu’il pose la question encore une fois : « Qu’est-ce que vous voulez ? » ; alors on l’a fait attendre une demi-heure, le temps de rédiger les fameux cinq points qui ont été diffusés sur Internet.

Cinq points dont le premier dit ceci : « Il faut que Mgr Fellay s’engage à donner une réponse proportionnée à la générosité du pape ». Qu’est-ce que cela peut bien vouloir dire ? C’est une parole extrêmement floue qui peut dire tout et rien. On est obligé de supposer que cette générosité du pape était le Motu Proprio. Et la réponse proportionnée était de l’en remercier, tout en reconnaissant qu’il n’était pas pour nous, puisqu’il était pour tous les prêtres de l’Eglise. Sinon on ne voit pas bien.

Ensuite je devais m’engager, dans cette lettre, à respecter la personne du pape. Je suppose que cela veut dire qu’on ne doit pas l’injurier, mais si on considère comme une injure de dire qu’il est parfaitement libéral, juste après un voyage aux Etats-Unis où il n’a fait que louer l’Etat américain en déclarant que la liberté de toutes les religions était magnifique. Vraiment on ne peut pas trouver de déclaration plus libérale que celle-là. Je ne vois pas ce qu’il y a d’injurieux dans mes paroles.

Le troisième point est plus sensible, parce qu’on me demande de ne pas m’ériger « en magistère au-dessus du pape et de ne pas poser la Fraternité en contraposition à l’Eglise ». Là aussi cela veut tout dire et cela ne veut rien dire. Avec cette phrase là, chaque fois que nous poserons une objection, on nous dira : « Vous vous mettez au-dessus du pape ». C’est bien ce point qui fait comprendre que Rome n’est pas du tout d’accord avec le fait que nous osions dire quelque chose contre le concile. C’est cela qui fait problème.

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【関連記事】

フェレー司教様:カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について

2008年09月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2008年8月15日、サン・マロ(フランス)におけるフランス王ルイ13世の宣誓の聖母行列における、フェレー司教様の説教 の抜粋をご紹介します。

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カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について(A propos de l’ultimatum du cardinal Castrillon Hoyos)

 私はこの時間を利用して、今、ローマで聖ピオ十世会との関係において何が起こっているかのニュースをお伝えしたいと思います。

 皆さんもおそらくお聞きになったと思いますが、最後通牒のことが話題になりました。私たちは今一体そのどこにいるのでしょうか? まず、この最後通牒というのは奇妙なものです。何故なら、この種の手続きがある場合には何らかの目的があるのが当然であるからです。しかし今回の私たちに関する場合、私たちは一体この目的が何かと自問します。

 私はカストゥリヨン・オヨス枢機卿から招集を受けました。ことしの6月の初めです。何故なら、聖ピオ十世会の「友人と恩人の皆様への手紙」の最新号が、私たちが、第二バチカン公会議の中にある毒を飲み込むのを好まないということを明らかにしていたからです。これがローマ当局をして喜ばせなかったことです。

 私たちは変わらない、私たちは抵抗する、私たちはこの毒を飲まない、ということを言うことが、彼らを喜ばせなかったのです。従って、私はローマに招集されました。ローマで私に、何か書いてある一枚の紙が渡されました。この会合はエクレジア・デイ委員会の事務所で行われました。私にとってこの事務所に足を運んだのは、最初で唯一の機会でしたが、この会合には、枢機卿カストゥリヨン・オヨスと、委員会の副会長であるモンシニョール・ペルル、秘書のモンシニョール・マリニ、そして枢機卿の個人的秘書がいました。私はネリー神父と共にいました。

私たちにメモが渡され、枢機卿は私にそれを皆の前で読み上げるように命令しました。本当に最後通牒と思われるこの手紙には、次のような内容が書かれていました。

「今までは、私は、あなたたち(聖ピオ十世会のこと)が離教的ではないと断言してきた。しかしこれからは、それを言うことが出来なくなるだろう。今日、私たちがあなたたち(聖ピオ十世会)に強制する明確な条件を受け入れなければならない。」

 これを読み上げた後、私は枢機卿に尋ねました。この明確な条件とはいったい何なのですかと尋ねました。何故なら、この条件は書かれていなかったからです。しかし、枢機卿は私に全く何もこたえませんでした。

 私はもう一度枢機卿に質問をしました。「私がなにをするこのお求めなのですか?」

 この時、ほとんど低いボソボソという声で、枢機卿は答えました。
「もしもあなたが自分の信者たちにこれを言わなければならないと、良心に掛けて、考えているのなら、そうしなさい! しかし、あなたは教皇の人格を尊敬しなければならない。」

 これにたいして、私は、問題がありませんと枢機卿に答えました。そしてこうしてこの会合は終わりました。この会合の動機が本当に「友人と恩人の皆様への手紙」であったとどうして私が言うことが出来るでしょうか?私が枢機卿に尋ねたのはこのことです。何故なら、枢機卿がそのことに言及したからです。「枢機卿様、この手紙でどこが良くないのか私に言って下さいませんか?」

 すると枢機卿は私の前でこの手紙を読み上げ、枢機卿が言うことが出来た唯一の難点は、私が修道院も、神学校も空になっていると書いた事実でした。枢機卿は私に言いました。「これはウソだ。」これが唯一の非難でした。

(つづく)

A propos de l’ultimatum du cardinal Castrillon Hoyos
Je voudrais profiter de ces instants pour vous donner des nouvelles sur ce qui se passe maintenant à Rome par rapport à la Fraternité. Vous avez probablement entendu que l’on a parlé d’un ultimatum. Où en sommes-nous ? Tout d’abord c’est une chose bizarre que cet ultimatum, parce que lorsqu’il y a ce genre de démarche, il y a un objet. Dans le cas qui nous concerne, on se demande bien quel était l’objet. J’ai été convoqué par le cardinal Castrillon Hoyos, au début du mois de juin, parce que la dernière Lettre aux amis et bienfaiteurs de la Fraternité Saint-Pie X faisait le point en indiquant clairement que nous n’étions pas disposés à avaler le poison que l’on trouve dans le concile. C’est ce qui a déplu aux autorités romaines. Le fait de dire que nous ne changerions pas, que nous résisterions, que nous ne boirions pas ce poison, c’est cela qui leur a déplu. Donc j’ai été convoqué à Rome, et là on m’a remis une feuille écrite. Etaient présents à cette réunion qui se tenait dans les bureaux de la Commission Ecclesia Dei – c’est d’ailleurs la première et la seule fois que je me suis rendu dans ces bureaux -, étaient donc là le cardinal, le vice-président de la commission Mgr Perl, le secrétaire Mgr Marini et le secrétaire personnel du cardinal. J’étais accompagné de M. l’abbé Nély.
On nous remet une note écrite, et le cardinal me demande de la lire devant tout le monde. Dans cette lettre qui ressemble vraiment à un ultimatum, il est dit en substance : « Jusqu’ici j’ai affirmé que vous n’étiez pas schismatiques, mais désormais je ne pourrai plus le dire. Aujourd’hui il faut que vous acceptiez les conditions claires que nous allons vous imposer ». Après avoir lu, j’ai demandé au cardinal quelles étaient ces conditions claires, parce qu’elles n’étaient pas écrites. Et le cardinal ne m’a absolument rien répondu. J’ai reposé la question en lui demandant : « Qu’est-ce que vous attendez de moi ? » ; à ce moment-là, presque à voix basse, il a répondu : « Si vous pensez en conscience que vous devez dire cela à vos fidèles, faites-le ! Mais vous devez respecter la personne du pape ». Ce sur quoi je lui ai répondu que je n’avais pas de problème. Et c’est ainsi que cette réunion s’est terminée. - Comment puis-je affirmer que le motif de cette réunion était vraiment la dernière Lettre aux amis et bienfaiteurs ? C’est ce que je lui ai demandé, puisqu’il y faisait référence : « Pouvez-vous me dire ce qui ne va pas dans cette lettre ? » ; il l’a alors relue devant moi, et le seul reproche qu’il a pu formuler était le fait que j’écrive que les couvents étaient vides, ainsi que les séminaires. Il m’a dit : « Cela n’est pas vrai ». C’était le seul reproche.



聖書にはいかなる間違いも誤りもないことinerrantia Sacrae Scripturae

2008年09月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖書には、いかなる間違いも誤りもないこと(de absoluta inerrantia Sacrae Scripturae)をカトリック教会は常に教えています。

 例えば、教皇クレメンテ六世は、1351年、アルメニアのカトリックに正統信仰の一つとして「ローマ教会の権威が私たちに伝えた新約聖書と旧約聖書が、その全ての書において、疑うことの出来ない全ての真理を含んでいることを信じた、そして信じているか」を尋ねました。

1065 570 14., si credidisti et credis, Novum et Vetus Testamentum in omnibus libris, quos Romanae Ecclesiae nobis tradidit auctoritas, veritatem indubiam per omnia continere...

1065
14. Si tu as cru et crois que le Nouveau et l'Ancien Testament, dans tous les livres que nous a transmis l'autorité de l'Eglise romaine, contiennent en tout la vérité indubitable..

 例えば、教皇レオ十三世は、 回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス(Providentissimus Deus)』(1893年11月18日)で次のように言っています。回勅より引用します(和田 幹男神父様の訳を参考にしました)。


「聖書霊感を聖書のある一部に限って認めたり、聖書記者が誤っていたことを容認するのは、まったくできないことです。また諸問題を解決しようとして、聖書霊感を信仰と倫理の事柄のほか何ものにも関わるものでものではないと疑いもなく認め、聖書本文の真の意味が問題となるとき、神が何を言われたかということより、なぜそう言われたかを考えるべきだと間違った判断をするような考えかたは、是認することができません。なぜなら教会が聖なるもの、正典書として受容しているすべての書は、全体としてそのすべての部分も含めて、聖霊が書き取らせて書にされたものだからです。この天主の霊感には何の誤りも入り込むことができないので、それはそれ自体あらゆる誤りとは無縁であるだけでなく、必然的に誤りと無縁であり、誤りを排除します。それは最高の真理である天主が必然的にいかなる誤りの主人公でもありえないからにほかなりません(tantum vero abest ut divinae inspirationi error ullus subesse possit, ut ea per se ipsa, non modo errorem excludat omnem, sed tam necessario excludat et respuat, quam necessarium est, Deum, summam veritatem, nullius omnino erroris auctorem esse)。

 これは古来常に守ってきた教会の信仰であり、それはフィレンツェ公会議とトリエント公会議において荘厳に決議され、最後に(第1)ヴァティカン公会議において確認され、より明瞭に宣言された考えでもあります。それは決定的にこう断言されています。「旧約新約両聖書のすべての書はそのすべての部分も含めて、同(トリント)公会議の決議において数えあげられ、ラテン語訳ウルガタ聖書の古い出版に載せられているとおり、聖なる書、正典書として承諾されなければならない。教会がこれらの書を聖なる書、正典書としているのは、これらの書が人間の努力のみによって書かれ、後にその教会の権威によって承認されたからでもなく、また啓示を誤りなく含むからでもなく、聖霊の霊感によって書きとめられ、天主を著者としてもっているからである」。

 それゆえ、もちろん第一の著者からではないが、霊感を受けた著者からでも何らかの虚偽が聖書に入り込むことができるという具合に聖霊が書かせるために道具として人間を用いられたということは、まったく考えられません。なぜなら、天主は御自分が命ずることをすべて、またそのことだけを聖書記者が正しく把握し、忠実に書くことを望み、不可謬の真理性をもって適切に表現するように、超自然的な力をもって書くよう引き起こし、動かし、また書いている間には付き添われたからです。そうでなければ、聖霊は聖書全体の著者とは言えないでしょう。・・・

 その結果言えるのは、聖書の権威ある本文に何か虚偽が含まれ得ると考える者は、まさに天主の霊感についてのカトリックの考えを歪めるか、天主御自身を誤りの責任者とすることになるのです。

 すべての教父と教会博士も、聖書記者たちによって著された聖書各書がいかなる誤りとも無縁であることを深く確信していました。それゆえそこには少なからず何か矛盾すること、ないしぎくしゃくすることが書かれているように思われるところがありますが、(それがほぼ現在新しい学問研究の名のもとに問題とされているところですが)、彼らはこれを難しくというより敬虔に両立させ、調和させようと努めたのでした。彼らは心を一つにして、その聖書の各書がすべて、そのすべての部分も含めて同じ天主の息吹きを受けており、天主御自身が聖なる著者たちをとおして語り、真理を外れるものは何も書かせることができなかったと明らかに述べています。」

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【関連記事】

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:聖司祭のアルス任命最初のころの日常生活

2008年09月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

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最初のころの日常生活

 ヴイアンネー師は、天主と他人との愛とともに、いわゆる、征服的精神をもっていた。これは、フランス魂のあらわれであって、いにしえの好戦的ガリア人の遺産でもあろう。フランス人は愛も憎悪もはげしいのだ。宗教に対しても、フランス人は微温的態度をとることができない。この革命の恐怖時代はいうまでもない。今日でも、無神論者は極端にキリスト教を憎悪するが、これに反して熱心なキリスト教徒はもえるような献身犠牲の精神をもっている。アルスの聖司祭は実にその見本であった(チェスタートン)。他人であったならば、仕事がなくて困りもするだろうと思えるような、片田舎の農村の受け持ち司祭となったのだが、彼は決して、じっとしていなかった。赴任して来るやいなや、彼にはもうたくさんの用事があった。

 東の空がまだしらまない夜のうちに、毎朝、墓地を通りぬけて、聖堂に行く人の姿が見えた。(聖堂の周囲は墓地になっていた)

 ある時はありあけの月が、彼の影を、黒く地上に印した。ある時は、ほのぐらい手さげランプの光が、彼の行く手を導いた。雨が降っても、風が吹いても、しののめに先だって、ヴィアンネー師の姿が、聖堂の内部にあらわれなかったことはない。キリストの兵士はその取り次ぎの場に急ぐのだ。彼はまっすぐに、祭壇の前に進んで行って床にひれ伏した。そして、そこで、主のみ前におのが心情をひれきした。

「わが天主よ、わがすべてよ、私がどれほど主を愛しまつるか、主はご存じであります。けれども、私はまだ主を十分に愛しておりません。」

「わが天主よ、主は私にすべてをくださいました。けれども、私は主にわずかしか差し上げないのです。どうか、もっと多くをささげる力を与えてください。」

「わが天主よ、すべてのものをおとりください。その代わりに、この村を改心させてください。この村がもし改心しなかったならば、それは私が足りないからです。」

「わが天主よ、私の功徳はなにもありません。けれども、主の御功徳は無限であります。その御功徳によって、どうか、苦しむおめぐみを与えてください。」

「わが天主よ、一生涯でも、百年間でも主の御望みになるだけの苦しみを苦しみましょう。どんな、ひどい苦しみでも、けれども、どうか、彼らを改心させてください。」

 涙は床に流れた。感きわまると、思わず高い声が出て、他人に聞かれたこともまれでなかった。
薄明のころに、彼はミサ聖祭をささげた。その間彼はほとんど常に泣いていた。時として彼は微笑していたこともあった。彼は天使らにとりかこまれて、聖祭をささげていたのだ。

 そこには、彼の天使と、村の天使と、村の人たちの天使らとがみないたのだ。天主の僕の喜びは苦しみで、その昔しみは喜びだ。彼は自分が、はたして喜んでいるのか苦しんでいるのか、弁別することがほとんどできなかった。ミサ聖祭後の感謝の祈りは、いつまでも続いた。そして夕のアンジェルスの鐘が知らぬ間に鳴り渡ることもたび重なった。

 しかしながら、午後になると、たいていの日には、彼は少しいなか道を散歩した。それは、聖務日課祈祷を唱したり、あるいは、心のままに祈るためであった。彼は野に働く農夫にはなるべく声をかけるようにして、それからコンタツを手にして、小川のほとりのくぼみや、潅木の林の中にはいりこんだ。神秘的な彼の心は、静寂と平和とに飢えていたのである。(ああ、しかし、彼のこの楽しみも、長くは続かなかった。なぜならば、まもなく、いつのまにか、彼の周囲には、霊魂の指導を求める人びとがつめかけて来て、彼はせまくるしい、日の目をあおぐことのできぬ告解場の中に、終日暮らさなくてはならなくなるから)かつて幼い日に、シャント・メルルの河畔でそうあったように、美しい自然は、彼の心をただちに天主の御もとにさそった。

 ヴィアンネー師は、祈祷に苦業をあわせた。彼はなかば廃屋であった司祭館内に、召使もなく、たったひとりで住んでいた理由の一つは、彼のはげしい苦業の秘密を保つためであったらしい。
「善業」の価値を認めないプロテスタントには、苦業は愚かな迷信としか見えないであろう。現代人は物質的世界に沈溺する。享楽をのみ追う人々はもちろんのことだが、宗教心をもっていて、祈祷の意義を知っていると称する人びとすら、苦業を理解することはほとんど不可能であろう。しかし、それにもかかわらず苦業は祈祷と並んでカトリック的修徳的伝統のうちに、きわめて重要な地位を占めるのである。

 カトリックにとっては、単に身体を苦しめることが苦業の最後の目的ではない。愛による天主との一致が、心霊生活の目的である。罪と被造物と自己からの離脱は、それに至る準備である。しかして、聖パウロのいわゆる「われ、わがからだを打ちてこれを奴隷たらしむる」ことの実行は、天主の摂理によって送られるすべての困難、辛苦の忍耐とともに、この離脱を完成する方法なのだ。修徳の道は、天主の恩寵による生活である。恩寵なき所に、われらは一歩をもふみ出しえない。「われをはなれては、なんじら何事をもなすあたわず」と救い主はのたもうた。けれども、われらはいのちなき木石ではない。われらは、恩寵に反応しなくてはならない。福音書にしるしていう「イエズス、ヨハネの事を、群衆に語りいでたまいけるは、なんじら何を見んとて荒野にいでしぞ、風に動かさるる葺か。さらば何を見んとていでしぞ、柔らかきものを着たる人か、見よ、柔らかきものを着たる人々は帝王の家にあり。・・・洗者ヨハネの日より今に至りて、天国は暴力におそわれ、暴力の者、これをうばう」と。肉体を有するわれらが、肉体より生ずるもろもろの誘惑を克服する最上の方法は苦業である。

 苦業はまた、われらのあがないのために、自ら進んでおのれを天父にささげたもうた主にならうことである。天主はもし欲したまわば、全然無償に人類の罪をおゆるしになることも、不可能でなかったに相違ない。しかし、天主は広大無辺なる御知恵をもって、キリストの鮮血を犠牲として要求したもうた。信者はキリストとともに一体である。それゆえ、われらはパウロの言えるがごとく「キリストの御苦しみのかけたるところを、御からだなる教会のために、わが肉体において補う」ことができるのである。

 彼がそれまで司祭館にそなえてあったよい寝台を、アルスの城の女主人に返却したことは前に書いた。それで、彼はエキュリーから持って来たバレー師の古寝台に寝ていたが、ある日、ふとんを貧乏人にやってしまった。まくらもまもなく、なくなってしまった。彼は二階を寝室にしていたが、それから階下におりて、台所のすみでまきをまくらにして寝ることにした。しかし、その部屋は、非常に湿気が強かったので、そのうちに、はげしい顔面神経痛を起こしてしまった。(彼は、それから、始終これで苦しんだ)よんどころなく彼は寝室をかえたけれども、新しい寝室は、納屋の二階だった。彼は床の上に横たわってむな木を枕にすることにした。

 しかも、彼は寝る前に、他の苦業をした。この奇妙な寝室にはいって、とびらをとざすや、彼はスータンをぬいで、古がねや鉛の片をむすびつけた数条のむちでもって、彼の「屍体」・・・彼の「古いアダム」(彼は自分の身体をそう呼んだ)をはげしく打った。ビボストおばさんが帰ってしまってから、隣家のルナール後家さんが、時々、師のへやを掃除したが、そのたびごとに、彼の寝室で青い小さなかぎや、鎖の数片や、鉛の玉などを拾ったそうである。彼のはだ着の左の肩は破れてしまって、血に染まっていた。

 彼は時々気を失って壁によりかかったらしい。カーテンでかくしてある壁の一部に、今も血痕が残っている。三つ大きな黒い汚点は、彼の肩のあとである。そこから、床まですじをひいて、血が流れている。小さな血痕は、指や手のひらのあとで、彼が壁を力によろめきながら立ち上がったそのしるしである。

 師は聖書の中で、悪魔を追うには祈りと断食とが必要であることを読んだ。彼は主の御ことばを文字どおりにとって、食事を減らした。もちろん、彼といえども、全然食せずにおることは、不可能だ。朝、彼は堅くなった古い一切れのパンを食した。どうかすると、もう一切れぐらい食した。昼と晩には、ひえたじゃがいもを一つ二つ(彼が一週間分だけ一度に煮ておくために使った鍋は、今でもアルス旧司祭館に保存してあるから、どの巡礼者でも知っている)まれに、三つめを食することもあったが、後はのちに三つめはたのしみのために食べたのだと言った。じゃがいもは、よくかびがはえかかっていた。ビボストおばさんや(その代わりになった)ルナール後家さんは、心配して、別に調理した料理をはこんで来たことがあったけれども、ヴィアンネー師は司祭館の戸をとざしてあけてやらなかった。そして、これよりよけい食べると、胃にさわると弁解した。

 時として、じゃがいもの代わりに、灰の中で焼いた卵を一つ食べたり、その地方で「うえすごし」と農夫らが呼んでいる菓子を一つぐらい食べた。(これは、小麦か黒麦の粉を水でねって、塩で味をつけ、鍋で焼いた偏平な菓子である)

 ヴイアソネー師が、全く孤独でいたアルス村での最初の数年間は、その苦業と断食とが、一番はげしかった時期である。時々、彼は熱情にかられて、二日も三日も、食事せずにいたこともあった。ある年(一八一八年)の聖週間には、たった二回しか、物を食べなかった。

 また、このような話もある。司祭館の前の庭が荒れるままになっていたので、ルナール後家さんがある日、草を食わせに牛を連れて来た。すると、どうだろう、ヴィアンネー師がすかんぽを摘んでいた。

「神父様、あなたは草を召し上がるのですか!?」驚いて、ルナール後家さんはきいた。

 師は見つけられて困ったような顔つきをして、「ああ、ルナールさんか、私はこいつばかりですましてみようと思ったのだが、どうも、そういかないのでね。」と返事したそうである。

 彼も、のちに当時のことを回顧して、それは「若気のあやまち」で、青年時代には、乱暴なことをするものだと言ったが、しかし、同時に、彼は、このようなはげしい苦業ができた昔がなつかしくてたまらなかった。

「友よ、悪魔は鞭やその他の道具には平気だが、飲食と睡眠との節制にはかなわないのだ。(と、彼はある若い司祭にもらした)これほど悪魔がこわがるもの、すなわち、天主の喜びたもうものはない。わたしはそれを経験した。わたしは八、九年間ほど、ひとりでいたが、その時分には、わたしは勝手にすることができたので二日三日も食べないでいることがあった。そうして、わたしは自分のためにも、他人のためにも、望むがままの御恵みを天主から得た。・・・ 今は、もう、そうではない。私はもうそんなに長く食べずにいられない。・・・私がひとりだった時は、幸福だった。私は乞食に施しのパンを買ってやった。私はたいてい夜中聖堂で祈っていた。その時分には、私は今ほど大勢の人の告白を聞かなくてもよかった。・・・そして、天主は、私に非常な御意みをくださった。」

 これが、彼の最初の日常生活であった。それは毎日の戦闘だ。きょうの戦闘に勝たなければならない。しかし、明日はまた新しい戦闘が始まる。彼は人類を誘惑にきた人類の敵(恵魔)と戦わなければならない。この敵は、最後の審判の日まで人類を誘惑することをやめないからである。そして、また、彼の日々の勝利は、一介のいなかの貧司祭を英雄と化する天主のたえざる御助けの生きたしるしであったのである。

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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:司祭とは、天主の修道者 (2)

2008年09月14日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

 あなたたちは、第一に、祈りと賛美と礼拝との司祭職による司祭である。あなたたちは、第二に、自分の霊魂を聖化させ[*]、あなたたちの隣人を聖化させる、特にあなたたちのもとに送られた霊魂の聖化をさせる司祭職による司祭である。従って、あなたたちは、自分自身を屠り、犠牲とする司祭による司祭である。
【ルフェーブル大司教、1958年10月26日の司祭たちへの手紙、ラ・クロワ・ヴァルメール(フランス)】

[*]「今日、ますます増加しつつあるキリスト教社会の諸要求が、いよいよ司祭に、内的完徳を要求しているのは事実ですが、司祭は、すでに天主にゆだねられた崇高な聖役の性質そのものによっても、絶えず、またどこにあっても、自己の成聖の業に、懸命に努力すべき義務を負っていることを忘れてはなりません。」ピオ十二世「メンティ・ノストレ」

Vous êtes prêtres d’un sacerdoce de prière, de louange, d’adoration en premier lieu. Vous êtes prêtres en second lieu d’un sacerdoce sanctificateur de vos âmes [*] et de celles de votre prochain et particulièrement de ceux vers lesquels vous êtes envoyés. Vous êtes en conséquence prêtres d’un sacerdoce d’immolation, de sacrifice de vous-mêmes  - Lettre aux confrères, La Croix-Valmer (Var), 26 octobre 1958.

[*] - « Si, de nos jours, les besoins accrus de la société chrétienne exigent de plus en plus la perfection intérieure des prêtres, ceux-ci sont déjà tenus, en vertu même de la nature du sublime ministère que Dieu leur a confié, à travailler inlassablement, toujours et partout, à l’œuvre de leur propre sanctification » (Pie XII, Menti nostræ).

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アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:アルスの村

2008年09月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

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アルスの村(Ars)

 アルス村はリヨン市の北方、約三五キロメートルの地点にあって、ドムブの丘陵(plateau de La Dombes)がこれから始まろうとする、ごく平凡な場所である。リヨンのほうから来ると、静かに流れるソーヌ川に美しい影をひたす緑の丘は、アルスの少し手前でなくなってしまう。アルスからさらにブール市の方に行けば、やがて曲がりくねった楡の木の下から、水鳥が飛び立つ湖沼地方になるのである。単調な地平線、黄色っぽい土壌、貧弱ないけがき、小川の岸にはえている二列のはんの木、川のこなたの木立の中にあるデ・ガレ家の古色のおびた赤れんがの城(昔は塔があって、堀がめぐらしてあったが、封建時代の名残りは全然なくなってしまって、ただ、大きないなかの邸宅としか見えなくなっていた。過去のはなやかな狩猟や宴会を、すっかり忘れ果てたような平和な、しかしゆううつな家であった)、小川を越せば黄色の、小さい、見すぼらしい聖堂、そのかたわらにある、百姓家とちがわない貧しい司祭館、それをとりまいて散在するいくばくかの藁葺屋根、これが、ヴィアンネー師が来た当時のアルスであった。

 ヴィアンネー師は、バレー師(M. Balley)からゆずり受けた少しばかりの書籍と身のまわりのものとを馬車に積んで、自分は、神学生時代から、エキュリー(Ecully)で世話になった「ビボストおばさん」(Claudine Bibost)という婦人(これはその家に寄宿していたあのほんとうの叔母ではない)と二人で、徒歩で、エキュリーからアルスへの約三〇キロメートルを旅行した。

 アルス村の近くに来た時分には、もう薄やみが迫って、そのうえに夕もやが低くたれていた。彼らは道に迷って、牧童に教えられて、ようやくアルス村にはいった。ここからが、これから彼が受け持つ小教区だと聞いた時、アルスの新しい主任司祭は、地にひざまずいて、自分に託せられた霊魂のために祈った。人家の屋根が見えだした時に、彼はもう一度地にひざまずいて、小教区の守護の天使に祈った。

 「いかにも、貧しい、小さな村だ」と、彼は思った。しかし、すぐに、ある不思議な超自然的な感覚に動かされて、「この小教区は、今に、来る人々が入れきれないようになる」と言った。到着すると彼はまず第一に、聖堂の中にはいって、聖体の前にひれふした。(彼がここにのべる予言をしたことについて、後年、巡礼の数が非常におびただしくたってから、ある人が、どうして、このような予言ができたのか?と、彼に尋ねたことがある。彼は非常に困った様子をして「なに、私のあたまには時々馬鹿な考えが、浮かぶものですからね」とほほえみながら答えたそうである。)

 次の日、二月一〇日の朝には、ミサ聖祭を告げる鐘の音が、久しぶりで村中に響き渡った。村の人たちは「おや神父さんが見えたそうな」と、言いあったが、格別、それに気をつけようともしなかった。

 アルスは、物質的にも貧しかったが、宗教的道徳的にも、極めて弛緩し、退廃した農村であった。それは、主として、かの(フランス革命)恐怖時代の反宗教政策のもたらしたものだった。

 当時、政府からアルスの主任司祭に任ぜられた人は、いうまでもなく、(フランス革命を支持する)離教的司祭であって、彼は、その後、全然聖職をなげうって、それまで自分が敬していたアルス村で商店を開くようになった。かかる出来事が、とれほど、信者の蹉きとなったかは、たやすく想像できる。

 そういうわけで、ヴィアンネー師の来る以前の二五年間というものは、アルス村は、異教の土地と、少しも違わなくなっていた。村びとが全然信仰を失ったと言っては、言いすぎであろう。しかし、なんぴとも極端に無頓着か、冷淡であった。師が来任しても、毎朝のミサ聖祭にあずかるものは、二、三名の婦人だけであった。村びとは、日曜日のミサも、口実をさがして、すぐに欠席した。また、出席している人々も、始めから終わりまで、堪えがたい退屈の色をあらわしていた。居眠りをする者、私語をかわすもの、祈りの本をあちこちと開けて見ている者、この最後の種類の人々に対して、師は「まるで、印刷屋の間違いでもさがしているようだ」と、説教の時に皮肉を言ったことがある。ミサ聖祭がすむと、師が祭壇をおりるか、おりないうちに、会衆は急に「まるで、一時に皆、心臓でも悪くなったように」新鮮な空気を吸いに、聖堂を出てしまう。

「神父さんが、あんな長く説教をするのは、みんなに、教会に行くのを嫌がらせるためなのだ」と彼らは言った。

 それだから、日曜日の夕の務めなどには、聖堂はほとんどがらあきであった。

 これに反して、ごくわずかの人口に対して、四軒あった村の居酒屋は、日曜日の午後は大繁盛であった。「玉ころがし」の遊戯で、的をはずして声高に笑う声や、酔いどれが石につまずいたりしてののしる声は、聖堂の内部まで遠慮なく響いてきた。大人も、若者も、さては少年までも、冒済ののしりを発する惑い習慣をもっていた。

 熱心な信者だと言われる婦人たちも、年に数回、大祝日に聖体拝領をするだけであった。男たちは、復活祭の義務を果たすことを恥辱だと考えていた。ある年、ヴィアンネー師に、だれにも見られないように香部屋で、聖体をさずけてくれとたのんだ男さえあった。

 アルス村の教会の祝日は、聖シクスト(Sanctus Sixtus)の祝日がそうであったが、それは、もうとうに宗教的な祭日ではなくなっていて、男たちは八日間、居酒屋に入りびたり、若い男女は八日間ダンスと夜ふかしとをし続ける時になってしまっていた。村の人たちは、別に盗賊を働くようなこともなかったが、家畜を売る時に年令をごまかす細工をしたり、また麻を売る時に粗悪なものを中に包んで、買い手をだますくらいのことは、なんとも思っていなかった。収穫期でもなければ、日曜日に畑に出ることはなかったが、しかし、日曜日以外にはしなかった他の戸内の労働があった。たとえば、道具の手入など。そして、収穫期にでもなろうものならば、日曜日の安息などあったものでない。牧草や麦を(その季節季節に)山のように積んだ車は、野道を右に左にせわしそうに動いていた。

 こう述べてくると、いかにも、アルスは宗教的に実にひどい所のようであるが、その実、その辺の村落はみな五〇歩、百歩であったので、村びとが、特に司祭や宗教に対して、敵意をいだいているというわけでもなく、前に言ったとおり、それらは要するに、極端なむとんちゃくと冷淡から出たことなのである。なおアルス村の最初の状態を知るには、ヴィアンネー師の説教集を読めばよい.現存する彼の説教の大部分は、比較的初期のものである。

 師に託せられたものは、このようにやせた畑であった。神の御恵みによって、少数のよい麦もあるにはあったが(たとえば、城に住んでいたデ・ガレ家の女主人(Mademoiselle Marie-Anne-Colombe Garnier des Garets, Mademoiselle d'Ars)で、当時六四才になっていた老婆や、村長、その他、数名の人々は、各自、自分らの能力に応じて、師の改革事業を援助した)、しかし、畑に茂っていたのは、毒麦だったのだ。これを見て、若いヴィアンネー師の胸が張りさけるようだったのも無理はない。しかし、彼はすぐに気を取り直して、改革事業に着手した。

 彼はけっして、夢のような野望をいだいたのではない。師が改革しようと望んだのは、全世界ではなく神より託せられたこの小さいアルス村であったのである。彼はアルスの村民のために説教し、アルス村民の悪習を攻撃した。もし神の摂理が彼を他の場所におきたもうたならば、彼もまた違う手段を講じたかもしれない。しかし、ほんとうは、弊害の根源はどこに行ってもたいてい同一で、ただ、その現われ方が時と所とで多少違っているにすぎないのである。それだから、その治療法も結局同一で、つまり古来の伝統的の方法となるのである。

 ゆえに彼が祭壇の前にひざまずいて祈りながら案出したプログラムは、決して新奇なものではなかった。それはすべてのよい司祭が、自己の牧する羊の救霊のためにとるべきあたりまえの方法であった。すなわちなるべく早く、信者に近づくこと。よい信者の助力を求め、同時に、彼らをますます徳にむかって奮発せしめること。無頓著な人びとを宗教の務めの実践に導くこと。よこしまな生活を送っている人びとを改心させること。そのためには、なによりもまず、いっさいの善のみなもとなる神に祈り、その恩寵をこい求め、人びとを聖ならしめるために、自分自らをまず聖ならしめ、罪人に代わって苦業をすることである。自分の前途に横たわる事業を見て、若いヴィアンネー師は、自分の無力を感じたに相違ない。しかし彼は同時に、自己のうちに、不可思議な恩寵の能力をも感じたのである。神はたかぶる者の誇りをうちひしぐために、かよわく、いやしき者をえらびたもう。聖なる司祭は、一見、平凡の手段をもって、偉大なる事業を成就するのである。

 師が着手した最初のことは、司祭館の内部の整理(?)であった。司祭館は城の女主人の好意で相当によい家具(寝台や、安楽椅子や、上等の食卓など)が無償で貸し与えられていたのであるが、師はバレー師の古い寝台をはこんで来たので、華麗な寝台は不用になった。その他の家具類も、師がこれから営もうとする生活には、不向きのものばかりだったので、デ・ガレ家に敬意を表わしに行ったついでにそれらを引き取ってもらうように依頼した。

 連れて来た「ビボストおばさん」も、始めは、料理番にするつもりであったのだが、用事がないので長くはおかなかった。

 村の人たちは、すぐに新しい神父さんが、並の人とは違うのに気がついた。やや裕福に暮らしている百姓らは、自分たちが貧乏人に一銭、二銭を施してやることが困難なのに引きかえて、ヴィアンネー師が、自分のためになにもとっておかないことにびっくりした。乞食は乞食たちで、師の慈悲深い評判を立てたけれども、同時に、「ヴィアンネー神父さんは、エキュリーから、どっさりはいっている財布を持って来たようだが、長く続くまいぜ」と言ったりした。

 司祭館がかたづくと、ヴィアンネー師はさっそく信者の家を一通り訪問した。約六〇戸の戸数であるから別にたいした数ではない。しかし、師はなかなかじょうずにそれをやってのけた。なかには、彼の訪問を無愛想に迎えた家もあったが、大多数は「親切な、愉快な、あいそうのよい神父さんだ」との印象をもって、彼を迎えた。めいめい信者の家で、仕事のことや、収穫のことや、そのようなことを話したり、聞いたりしているうちに、師は、家族のこと、子供の数や年令や、お互いの親戚関係や、それらのことを聞きこんでしまった。そして、彼らの信仰の程度をだいたい、測量してしまったのである。

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「啓示し給う天主の権威の故に」propter auctoritatem Dei revelantis

2008年09月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック信仰とは、信徳唱で私たちが唱える通りです。
真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。

 何を信じるのかという、カトリック信仰の対象は「主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教え」です。つまり天主が啓示し給える真理です。

 何故信じるのか、というカトリック信仰の動機は「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に」です。つまり天主は真理の源であり誤りなき御者であるから、その天主の権威によるのです。

 カトリック信仰は、真理であるがゆえに信じるのです。真理であるがゆえに教義なのです。真理であるがゆえに、信仰とは知性が天主の聖寵の助けをもってこの真理に "付き従う" のです。

 カトリック信仰は、誤り無く私たちを騙すこともない天主の権威を動機として信ずるのです。啓示し給う天主の権威は、私たちの個人的な体験でも感情でもありません。

「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」これが私たちのカトリック信仰です。

 だから、聖パウロは「信仰は、希望するものの保証であり、見えないものの証拠である。」Est autem fides sperandarum substantia rerum, argumentum non apparentium (ヘブレオ11:1) と言ったのです。つまり、この「保証」「見えないものの証拠」とは、見えないものを啓示し教える天主の権威に他ならないからです。この天主の権威にのみに基づいて、私たちの信仰の確実性が与えられるのです。

 だから、第一バチカン公会議も私たちは天主の真理に「啓示し給う天主の権威の故に」propter auctoritatem Dei revelantis (Dz 1789 & 1811) と宣言したのです。

「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」

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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.14.『信教の自由』の公布

2008年09月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

『信教の自由』の公布

 その日、各公会議教父たちは普段の通りに出席カードに署名した。次に、教皇が荘厳に入場した。最後に、事務総長は教父たちが投票する四つの文書を読んだ。

 信教の自由に関する最後の投票は、教会の宣教活動に関する教令 (Ad Gentes)、司祭の職務と生活に関する教令 (Presbyterorum Ordinis) 及び現代世界の中の教会に関する司牧憲章 (Gaudium et Spes) に関する最後の投票の後で引き継いでなされた。この最終文献(『現代世界憲章』)は、反対が 75票だったが、ルフェーブル大司教の反対票もあった。

 各公会議文献に対して、教父たちは機械で読める特殊マグネチック筆記具を使う個別投票用紙を満たして署名した。投票は秘密投票で本人が直接しなければならなかった。公会議教父たちは留守の教父を代表していたとしても、その留守の教父の代わりをして投票することはできなかった。フェリチ大司教が思い起したように、教会法によってそうしなければならなかった。但し、一度、公文書が公布されれば、教父の代理人も不在教父の代わりに署名することができた。

 ミサの終わりに、ペリクレ・フェリチ大司教は教皇の方に進んで来て、四種類の投票の結果を知らせた。教皇は四つの文献を承認すると、それらを口頭で公布し、大きく力強い拍手喝採を受けた。

 その次に公布された四種の文献の題目がついている大きな紙が教父たちを巡って回った。この用紙に、教父たちは、自分の名前を署名する前に‘エゴ(Ego)’私、という用語とともに各自の名前を署名するように招かれていた。これは、公会議団の首長である教皇による公布の行為に各教父たちがそれぞれ一致するということを意味するため ‘私’を意味する単語が添加されていたのだ。

 教父の代理人は “Ego procurator... 私,...の代理人”と記録することで、自分がその代理を務めている教父が同意するということを意味させることができた。

 それでその大きな用紙の中の一つには、全く同じ手の筆跡で次のような署名が登場する。【この用紙は公会議記録保管所に保存されている】

“Ego + Marcellus Lefebvre arch. Tit. Synnada in Phrygie,”
“Ego procurator pro epis. Augustinus Grimault, epis. tit.”

 そして他の紙にはこのようになっている。“Ego Antonius de Castro Mayer, ep. Camposinus. Brasilia.”

 これらの明白な事実が見せてくれることは、最後の最後まで信教の自由に反対する投票をしたルフェーブル大司教が、結局、デ・カストロ・マイエル司教のように、『信教の自由に関する宣言』(人間の尊厳性 Dignitatis Humanae) という宣言文の公布に署名したとことになる。

 これは意見を撤回したかのように思えるかも知れないが、少しも驚きべきではない。

 概要(Schema 草案)が一応教皇によって公布されると、それはこれ以上、概要ではなくて本性が変わって教導権の行為となる。ルフェーブル大司教自身は 1976年 9月 15日の講話で教皇の承認の重さを強調したが、あの時彼は「教皇から来る道徳的圧力を受けて」幾多の公会議文書に署名したことを自ら認めた。何故ならば「私は教皇から離れることができなかった、教皇が署名するのなら、私は道徳的に署名する義務がある」から、とルフェーブル大司教は言っていた。

 ヴィルトゲンはこう書いている。

「根本的に、これはすべての公会議教父たちに共通の態度だった。(...)各自は、与えられた論題に関する自分の立場が正しいと確信していたにもかかわらず、(...)教会法を良く知っていたこれらの教父たちは、自分たちの頭である教皇の判断がより優勢であるとする」義務があると考えていた。この服従においては、不誠実さも不恒常さもなかった、と。


 結局、『信教の自由に関する宣言』の「真の宗教」に関する事柄、あるいは信教の自由の「適正範囲」についての文句は、究極の厳密さをもって言うなら、たとえそれが、この文書のその他全てから出てくるこの文書の明らかな意味ではなかったとしても、『信教の自由に関する宣言』のうち固有の意味での宣言文の十一行(2番)を、カトリックの意味に解釈しようとすることは出来なくはなかった。

 いずれにせよ、マルセル・ルフェーブル大司教とアントニオ・デ・カストロ・マイエルの賛成が公式的に公会議の議事録(Acta)に記録された。

 後日、ルフェーブル大司教が何度も、信教の自由に関する宣言 -- ちょうど『現代世界憲章』と同じように -- に署名しなかったと言ったら、それは彼が公布以前と以後にこれに反対した論理と一致する主張であり、記憶の間違い、或いは間違いの結果だった。

 彼は『現代世界憲章』Gaudium et Spes 及び 『信教の自由に関する宣言』Dignitatis Humanae反対する最終投票を署名拒否と混同してしまったようだ。そのような混同は、大司教が 1976年と 1990年に【署名を】否認したことで現われる。

 このことは、一方で、この二つを除いたすべての公会議概要に最終的に賛成 (placet) の投票をしたが、他方で、彼がたとえすべての公会議文献に署名したりしても (公会議議事録 (Acta Synodalia) に現われるように)、公会議文献を教皇と共に公布するという意味で署名したのではないということを意味するだろう。

 いずれにせよ、信教の自由に関する投票者の数 (2,386) と、公布に署名した出席教父たちの数 (2,364) を比べると、賛成投票あるいは反対投票したが、少なくとも 22人の教父たちが公布文書に署名しなかったことが分かる。ルフェーブル大司教は彼らの一人ではなかった。

 それにもかかわらず、私たちがまだ手にすることが出来なかった情報、或いはまた、事実のよりもっともらしい別の解釈が出てくるなら、私たちはそれを受け入れる準備が出来ている。しかし、私たちの意見では、大司教が『信教の自由に関する宣言』 Dignitatis Humanae に署名したと言って、彼が信教の自由に対抗して争った闘いの価値が減ったことではない。

 私たちにはまだ彼が信教の自由及び公会議の他の二つの主要主題、すなわち私たちがすでに取り上げた司教団体主義とエキュメニズムに対抗する闘いに関与したことをもっと綿密に研究しなければならない課題が残っている。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

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