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フェレー司教様:カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について(その4)

2008年09月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
Sermon de Mgr Bernard Fellay, lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.
20/8/2008


アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2008年8月15日、サン・マロ(フランス)におけるフランス王ルイ13世の宣誓の聖母行列における、フェレー司教様の説教 の抜粋の続きをご紹介します。

(From DICI: Sermon de Mgr Bernard Fellay, lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.)
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私たちは砂の上に家を建てるのを望まない
しかし、私たちの立場としては、このことを良く理解して頂きたいのですが、私たちはローマからのことを何も拒否したことは絶対にありません。今でも私たちは、まず最初に最も基本的な質問を見ることなしに、聖ピオ十世会の教会法上の状況を調整することはできないと言い続けているのです。この基本的なこととは、正に、第二バチカン公会議以後、教会に導入された全ての新しいことです。これと反対のことをする、ということは次の提案を受け入れることと等しいのです。私たちには家が提供されたが、その家はしっかりと建てられていない、何かの上に、地の上に立てられている、もしもこの家が動き続ける砂の上に建てられているとすると、この家に住みますか?もしも明日、この家が崩壊すると知っているなら、この家が沈没してしまうと知っているなら、こう言うでしょう。引っ越して住む価値は無い、と。もしも、ロールス・ロイスという高級車が与えられる、としましょう、ただしこれは車庫にいつも眠っているしかできないとしたら、どうしてこれを与えるのでしょうか?船が与えられるとしましょう、しかし、航海してはならない、としたら。

 これが私たちに起こっていることです。ローマは、教会法の同意を与えようとしながら、もう一度この先ほどのたとえに戻ると、私たちに車や船や家を与えようとしながら、この家がその上に建てられているはずの土台については話し合うことを望まないのです。

 ローマ当局にとって、この車、この船が動く環境とは当然のことなのです。つまり、第二バチカン公会議の環境です。ローマ当局にとって、第二バチカン公会議の新しい点について話し合うなど無いというのが絶対的に明白なことなのです。正に、この点こそが、最大のポイントなのです。この点にこそ、私たちはローマを導きたいのです。ローマがこのことをすることを望まない限りにおいて、私たちは前に進むことが出来ないのです。私たちはどうしても第二バチカン公会議の問題点を吟味することを避けて通ることは出来ないのです。何故なら、そうしないのなら、私たちは砂の上に建設することだからです。私たちは砂の上に建築することは望みません。信仰の名において、教会の教えの名において、教会の実践の名において、私たちはこれを言っているのです。


Nous ne voulons pas construire sur du sable
Mais de notre côté, que l’on comprenne bien, nous n’avons absolument rien refusé de la part de Rome. Encore maintenant nous continuons à dire qu’on ne peut pas régler la situation canonique de la Fraternité, sans avoir d’abord regardé la question de fond, - ce fond qui est justement toutes les nouveautés introduites dans l’Eglise depuis Vatican II. Faire le contraire équivaudrait à accepter la proposition suivante : on vous offre une maison, mais une maison ne tient pas en l’air, elle est bâtie sur quelque chose, sur un terrain…, si cette maison est construite sur des sables mouvants, allez-vous la prendre ? Si vous savez que demain elle va s’écrouler, qu’elle va disparaître engloutie dans les marais, vous vous dites : cela ne vaut pas la peine. De même, si on vous dit qu’on vous donne une Rolls Royce, mais qu’elle ne peut que rester au garage, pourquoi vous la donne-t-on ? Ou si on vous dit qu’on vous donne un bateau, mais qu’il doit rester en cale sèche.

C’est ce qui nous arrive. Rome, en voulant passer un accord canonique ou, pour reprendre cette image, en nous proposant une voiture, un bateau, une maison, ne veut surtout pas qu’on discute de la pierre sur laquelle doit être bâtie la maison. Pour les autorités romaines, il va de soi que l’ambiance dans laquelle circulerait cette voiture ou naviguerait ce bateau, c’est l’ambiance doctrinale de Vatican II. Pour elles, il est absolument évident qu’il n’y a pas de remise en cause des nouveautés de Vatican II, et c’est précisément là le point crucial, le point sur lequel nous voulons amener Rome. Et tant que Rome ne veut pas faire cela, nous ne pouvons pas aller de l’avant. Nous sommes obligés de passer par là, parce que sinon c’est construire sur du sable. Et nous ne voulons pas construire sur du sable. C’est au nom de la foi, de l’enseignement de l’Eglise, de la pratique de l’Eglise que nous disons cela.

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【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:司祭職の目的

2008年09月22日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

From "La sainteté sacerdotale" Mgr Marcel Lefebvre
(マルセル・ルフェーブル大司教「司祭の聖性」)

La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre



La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre


司祭職の目的
 司祭が御聖体に向かって発する聖変化の言葉は、私たちの主イエズス・キリストのいけにえの現在化であると同時に、御聖体において私たちのために糧として与えられた私たちの主イエズス・キリストの現存の、特別な、素晴らしい、神秘的な、天主的な秘蹟を構成する。
 これこそが、決定的に、ミサ聖祭という奉献の心臓であり、本質であり、目的でさえある。これこそがトリエント公会議が言っていることである。司祭職の目的は、聖別し、奉献し、執行し、御聖体を聖別し、天主であるイエズスを私たちの祭壇に来させ、新に天主聖父に私たちの霊魂の救いのためイエズスを捧げ、霊魂たちにイエズスと与えること。何と素晴らしいことであるか、それと同時に単純であることか、そしてどれほど崇高なことであろうか!
【ルフェーブル大司教、1985年3月23日の説教、エコンにて】

[*] - トリエント公会議の公教要理 第26章



La finalité du sacerdoce
Les paroles que le prêtre prononce sur la sainte Eucharistie constituent à la fois la réactuation du sacrifice de Notre-Seigneur et en même temps ce sacrement extraordinaire, admirable, mystérieux, divin, de la présence de Notre Seigneur Jésus-Christ dans l’Eucharistie pour nous être donné en nourriture.
Voilà, en définitive, le cœur, l’essence, le but même de l’ordination : le saint sacrifice de la messe. C’est bien ce que dit le concile de Trente. Le but du sacerdoce est de consacrer, offrir, administrer [*], consacrer l’Eucharistie, faire venir Jésus, qui est Dieu, sur nos autels, l’offrir de nouveau à Dieu son Père pour le salut des âmes et le donner aux âmes. Quelle chose admirable, simple également, mais combien sublime ! - Homélie, Écône, 23 mars 1985.

[*] - Catéchisme du concile de Trente, ch. 26, § 1, 8 et 10.

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【関連記事】

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:聖司祭によるアルス宿弊の改革

2008年09月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


宿弊の改革

 ヴィアンネー師(M. Vianney)は、アルス(Ars)の村びとの恐るべき罪は、宗教に関する無知、いいかえれば、習慣的になってしまった宗教的の無頓着であるということを知った。そして、彼は自分が牧するすべての霊魂の、永遠の運命に深く責任を感じていたから、この悪癖を克服するまで、決して休むまいと決心した。

 彼が最初につとめたのは、信者のすべてに主日の務めを守らせることであった。これなくしては、キリスト信者としての生活は不可能である。

 彼は村びとに礼拝に関する興味をもたせるために、聖堂の心臓なる祭壇と、それから祭器と祭服とを、できるだけ華麗にした。彼はたびたび徒歩でリヨン市に出かけて、教会用貴金属商の店に立ち寄っては、よい物を、よい物をと選んで買って来た。彼はそのために私財をついやした。この買い物は、彼の粗服と貧相な容姿とに、奇妙な対照となって、商人を驚かせたそうである。驚いたのは商人ばかりでない。一日、彼といっしょに買い物に行ったアルスの城の女主人も、彼の選択の贅沢なのに、びっくりしたと伝えられている。

 こうして、聖堂の内部は、見ちがえるほど美しくなり、祭日も祭日らしくなった。日曜日に集まる信者の数も・・・まだ好奇心にかられて来たのかもしれないが・・・増加してきた。

 宗教上の無知を癒すためには、教育のほかはない。彼は着任早々、少年少女の公教要理のクラスを作った。村の子供たちは六、七才のころから牧童の役をつとめ、一二才ごろになると、父兄を助けて畑に働いた。この地方では、農家の雇い男というものはほとんどなかった。子供たちの大部分は読み書きを知らず、公教要理の勉強も、雨の多い冬の時期にかぎられていたようなありさまで、農業が忙しい季節には、主日の務めも忘れられてしまう。このような具合に成長して青年期にはいると、まもなく悪い友だちができ、ついに気ままな生活にはいり、全然物質化してしまう。それで、せっかくの初聖体も、子供にとって、なんの意味もない、形式的の出来事になってしまうのである。

 それゆえ、師は一一月一日の諸聖人の大祝日から、春の初聖体の季節まで、子供たちを毎朝六時、すなわち仕事に出かける前に教会に集めた。日曜日の公教要理は、夕べの務めの前で、午後一時ごろだった。彼は愛と親切とをもって、彼らを導き、やさしい、短い説明をこれに加えた。しかし、彼は同時に子供たちにまことの天主への奉仕を要求した。

「世の中には、なぜこの世に生まれて来たかということを知らない信者がいる。」
「天主様、なぜあなたは私をこの世に生まれさせたのですか?」
「それは、おまえを救うためである。」
「それならば、なぜ、あなたは私を救おうとおぼしめしになるのですか?」
「それは、私がおまえを愛するからである。」
「そのとおり、天主は私たちを愛したもうがゆえに、私たちをつくってこの世においてくださったのだ。私たちの霊魂を救うためには、私たちは天主を知り、天主を愛し、天主に仕えなければならない。このような一生は、なんと美しい一生だろう。天主を知り、愛し、天主に仕えることは、なんと美しいことであろう。この世で私たちがしなければならないのは、このことだけだ。これ以外に、私たちがすることは、時間の無駄使いというものだ。」

 あるいは、また、彼は次のように説いた。
「世の中の人々は、霊魂を救うのはむずかしいと言っている。けれども、こんなにたやすいことはない。天主と教会との戒めを守り、七つの罪源を避ければよい。言いかえれば、善を行ない、悪を避けるのである・・・私たちの行ないのよい規則がある。それは天主にささげることができることのみを行なえ、ということだ。」

 日曜日の説教は、また特にヴィアンネー師に苦心を求めた。師の記憶は神学生時代から、あまりすぐれていなかったからだ。彼はまず聖人伝や、トリエント公会議の教理解説や、ロドリゲスの信心書や、その他二、三の説教集などをひもといて勉強し、ついで祭壇の前に行き、重体のうちにまします主のみ前にいでて、読んだ題材を黙想した。それから、自分の話そうとする説教を書く。細かい文字で、大きい紙の八ページから十ページまでを埋める。これまでに六、七時間はかかるのである。彼はしばしば夜おそくまで勉強をしていた。

 次が最も困難な仕事で、説教の暗記である。土曜日から日曜日にかけての夜を、師はそれに当てた。夜おそく家に帰る村びとは、彼が説教の諳唱をしていたのを、よく聞きつけたものである。眠くていよいよたまらなくなると、彼は敷石の上に、そのままうたたねした。

 翌日は日曜日で、ミサは十一時である。彼は前日の正午から少しも食事をせず、彼の頭は終夜の努力につかれきっている。それなのに、彼は歌ミサを歌って、一時間続く説教をした。それだから、途中で説教の続きを忘れて、そのまま説教壇をおりることなども、最初のうちはあったそうである。
彼の声は高かったが、調子と身ぶりとはきわめて自然であった。

「神父様、なぜあなたはお祈りをする時には、小声でして、お説教の時だけ、あんなに大声をお出しになるのですか?」と、開いた信者があった。彼は人のよさそうな笑いをうかべてこう答えた。
「それは、私が説教をする時には、耳の遠い人たちや、いねむりをしている人たちに話をしているのだが、お祈りをきいてくださる天主は耳が遠くないからね。」

 説教壇上で、彼はなにを語ったか?彼の説教には無駄な世辞や、曖昧な言葉は、まるでなかった。彼は卒直に、明瞭に、村民の悪習慣を責めた。ことに最初の時期において、彼のことばは激しく村民をおびやかすようだった。

「キリスト様はエルザレムのためにお泣きになった。・・・私もまたあなたたちのために泣くのだ。私の兄弟たちよ、私はどうして泣かずにおられよう。地獄はあるのです。それは私が考え出したものではない。天主がそうおおせられた。それなのに、あなたたちは少しも注意しない。・・・あたたたちは、そこにやられるような暮らし方をしている。あなたたちは天主のみ名を冒涜する。あなたたちは居酒屋で夜ふかしをする。あなたたちはダンスの罪にけがれた快楽を貪る。あなたたちは隣の人の畑のものを盗む。あなたたちは、天主のみ旨に背くことばかりしているのだ。あなたたちは天主があなたたちを見ないと思っているのか。いな、私の子供たちよ、天主は、今私があなたたちを見ているのと、同じようにあなたたちを見ておいでになる。そして、あなたたちをしわざに応じてお裁きになる。なんたることだ!地獄はあるのだ。どうか、地獄のことをお考えなさい。あなたたちは、あなたたちの神父が、あなたたちが永遠に焼かれるために、地獄に投げ入れられるのを、見てだまっていると思いますか?あなたたちはこの苦しみを、あなたたちの神父にかけようとするのか?」

 それは「なんじみ言葉をのべつたえて、時なるも時ならざるも、しきりにすすめ、忍耐をつくし、教理をつくして、かつ戒め、かつ願い、かつ脅せ」(チモテオ後書四ノ二)という聖パウロの訓戒のそのままの実行であった。

「居酒屋は悪魔の店で、地獄がその教理を教えこむ小学校だ。居酒屋は信者が霊魂を売る所だ。家庭が滅び、健康が失われ、喧嘩が始まり、殺人の犯される所だ。」
「酔いどれは一番馬鹿な畜生よりも、もっと馬鹿なのだ。」
「居酒屋は貧しい妻と子供たちのバンを奪って、一週間の労働を日曜日につかってしまうよいどれに酒をのます所だ。・・・夜や教会のお務めの時間によいどれに酒を売る居酒屋に罪のゆるしを与えると、神父が地獄におちてしまう。・・・悪魔は居酒屋をあまりいじめない。ただ彼らは軽べつして唾を吐きかけるだけだ。」

 主日の労働に対しては、彼は次のように言った。
「あなたたちは働いているのだが、もうけるものは、霊魂と身体との滅びだけだ。日曜日に働く人に《あなたはなにをしているのですか?》と問う人があったならば、《私は私の霊魂を悪魔に売り、イエズス・キリストを十字架にかけて来た。私は地獄に行こうとしているのです》と答えるがよい。私は日曜日に車をひいている人を見ると、自分の霊魂をその上にのせて、地獄に運びこむ人を見ているような気がする。」
「日曜日は天主のもの、天主の日で、主日と呼ばれている。天主は一週間の日をみなおつくりになったのだから、みなご自分のものとなさっても差支えがなかった。しかし、天主はご自分のためにただ一日をおとりになって、残りの六日をあなたたちにくださったのだ。あなたたちは自分のものでないものに、なんの権利があって、手をふれるのか?盗んだ金は決して役にたたないとは、あなたたちも知っている筈だ。天主から盗んだ一日も、やはり役にたつものではない。私はたしかに貧乏になる二つの手段を知っている。それは、日曜日に働くごとと、他人の金を盗むこととだ。」

 ヴィアンネー師は、ダンスに対しても、歯に衣をきせずに、説教壇上から攻撃した。しかし、ダンスはこの地方で非常に流行していたために、さすがの師も、これを全然アルス村からなくしてしまうために、二五年を要した。彼がダンスと少女の慎みを欠く服装とを叱責したのは、これらに夢中になる人々は、質朴な、純潔な楽しみを味わえなくなるからである。また、子女に、かかることを許容する家庭は、決して、信心を重んずる家庭ではないからである。罪を避けようと欲する者は、罪をおかす機会をも避けねばならぬ。彼は、罪と機会とをひとまとめにして、これを攻撃した。

「ダンスで犯されない罪はない。《なに、私は娘に気をつけますからだいじょうぶです》と言う母があるかもしれない。あなたがたは娘の化粧に気をつけることができるかもしれないが、娘の心に気をつけることはできないのだ。のろわれた父よ、母よ、地獄に行くがよい。そこには天主の御怒りがあなたたちと、あなたたちが子供たちを手ばなしにしてかってな真似をさせた、そのあなたたちの仕業とを待っている。地獄に行くがよい。まもなくあなたたらの子供たちも、あとを追って来るだろう。あなたたちが彼らに道を教えてやったからだ。その時、あなたたちはあなたたちの神父が、このような悪魔的な娯楽を禁止したのが、ほんとうだったということがわかるだろう。ああ、ダンスは悪魔を地獄にひきずりこむ綱であるのに、ダンスにはなんらの幸もないと思いこむほど、盲目になってしまうとは、なんたることであろうか?」

「兄弟たちよ、ダンスに行く信者は、その入口で守護の天使を残して、その代わりに悪魔に案内してもらうのだ。だからダンスの部屋には踊り手と同じ数だけの悪魔がはいっている。」

 あるときは、彼は次のように告げる。それは、最後の審判に関する福音書のことば、「のろわれし者よ、われを離れよ」の一旬についてであった。

「天主にのろわれるとは、なんという恐ろしいことであろう。わが子供たちよ、それがわかりますか?祝福することを好みたもう天主にのろわれる。善そのものにまします天主にのろわれることは取り返しがつかない。永遠にのろわれる。それが天主にのろわれることだ」

 信者の中で、笑う者はなかった。なぜならば、師は自分が天主にのろわれている罪人であるかのようにみじめに泣いていたからだ。彼は続ける。

「世の終わりにひとりひとりの信者が神父に会う。主イエズス・キリストはのたもうであろう。《神父よ、彼らをのろえ》と《主よ、私が主のために洗礼をほどこした子供たちをのろうのですか?》《神父よ、私の命令だ、彼らをのろえ》《主よ、私が主のために教え、主の聖体を与え、主のみ言葉のパンを頒った子供たちを、私がのろうのですか?》と、神父は彼らのためにしたことを、キリスト様に申し上げるだろう。けれども、主イエズス・キリストは答えたもうであろう。《神父よ、彼らは汝の言葉を聞かなかった。彼らをのろえ。わたしの命令だ、彼らをのろえ》と。ああ、わが兄弟たちよ、神父にとって、これはどんな悲しみだろうか?けれども、そうなるのだ、ほんとうにそうなるのだ。」

 信者たちが、地獄の中におちたような気がして、恐れにふるえていた時、彼の言葉は一転した。「きたれ、わが父に祝せられし者よ」試練の時はすぎ、収穫の日は来た。

「われらは天主を見奉るのだ。われらは天主を見奉るのだ。わが兄弟よ、あなたがたはそのことを考えたことがありますか?われらは天主を見奉るのだ。まっすぐに天主を見率るのだ。天主のましますそのままを、おもてとおもてを合わせて見事るのだ。」

 ある時、彼は脱魂の状態におちいって、自ら天主を見奉れるもののように、数分の間、「われらは天主を見奉るのだ」「われらは天主を見奉るのだ」と言い続けていたと、目撃した人が証している。
 彼はこのような調子で、ひとつひとつ村の悪習と戦って、まことにあきることを知らなかった。彼は確固たる信念をもって、どうしても、もろもろの悪を、アルスから駆逐せねばならないと考えていた。彼は全心、全霊をそのことばのうちにこめて、信者たちに語った。彼の説教は通り一遍のものではなかった。彼は真理を語った。彼は悪を憎んだ。それゆえ、酒に酔う者、天主をののしる者、日曜日に労働する者、ミサをなまけてもダンスをなまけない者どもは、ヴィアンネー師の説教を聞いて顔を赤らめ、頭をたれた。(師は特に、平素教会に顔を出さない連中も、大部分は集まって来る、年に数回の大祝日を選んで、激しい攻撃をこれらの悪習の上に加えたのであった。)彼らは少数の善良な信者が彼らの上に加える非難を無言のうちに感じたのである。そして、その後、また同じ罪の生活にもどっても、もはや、彼らの良心は安らかではなかった。

 その理由の一つは、たとえ、ヴィアンネー師の目をのがれようとしても、そのことが不可能であったからだ。師はいつも畑や往来を歩いているように、彼らには思えた。そして、何も見ていないようで、その実、何一つ見落とさないように感じられた。何か罪がおかされそうな所には、師はきまってやって来た。それはまるで彼が罪の匂いをかぎつけて来るようだった。実際、聖人が罪の一種の、きわめていとうべき悪臭を感ずるということは、聖人伝中にまれではないのである。

 ある夏の日曜日のことであった。彼が野道を歩いていると、牧草を満載した車がやって来た。百姓は師の姿を見かけると、すばやく積んだ牧草の中にもぐりこんだ。彼は行きすぎる時に声をかけた。
「こんな時に、私に会ったので、おまえは困っているようだが、天主さまはいつでも、おまえを見ておいでになるのだよ。おまえが恐れなければならないおかたは天主さまなのだ。」

 また、ある時に、彼は娘をダンスに連れて行こうとする父親に出会った。百姓は非常に困って、どもりながら種々と弁解した末に「私は娘を踊らせはいたしません。ただ見ているだけなのです。」と言った。

 師は皮肉に、「その手は踊るまいさ、けれども、その子の心は踊るだろうよ。」と答えた。
ヴィアンネー師は、ある種の弊善を除くためには、すすんで積極的な行動をとった。たとえば、居酒屋のうちで、ことに教会に近い一軒の亭主が、師に「神父様のように説教をなさっては、私たちの暮しがたって行きません」と、苦情を言って来た時、いくばくかの金をやって、断然店をしめさせてしまったことがある。

 また、ある日、教会のそばの広場でダンスがあるということを聞いて、師は朝早く村はずれまで行って、そこで音楽師を待ちうけた。そして、このバイオリン奏者がもらう金の倍額を彼にやって、彼をかえしてしまった。いよいよダンスの始まる時刻になったけれども、肝心の音楽師がやって来ない。若者たちはがやがやさわぎだした。しかたがないから、バイオリソなしで踊ろうということになって、その代わりに歌をうたいだした。つまらなさそうな娘たちを無理にひっぱり出して、踊ってはみたものの、少しも興がのらなかった。それでも、やけ半分にしいて、愉快なまねをしてさわいでいる時に、ヴィアンネー師が姿をあらわした。師はだまって広場のかたわらを通りぬけて聖堂のほうに行った。けれども、それで十分だった。あとで笑いながら師の語るところを聞けば、若者も娘たちも、師の姿を見るやいなや「すずめの群れのように」ちりぢりに逃げて行ったそうである。

 もちろん、なかには、どうしても師に反抗しょうとした若者があって、彼らは教会から遠い、村はずれに行って踊ったが、師の勝利はこれで明白になった。もはや、天主の家は不潔なにぎわいに災いされることがなくなった。しばらくのちには、村長から教会の近くでダンス会を催すことが禁じられ、居酒屋は、客人がないために閉店してしまったのである。

 これらの物語でもわかるとおり、ヴィアンネー師は完全に村民の心を征服してしまった。村の中心である教会の付近は天主のものとなった。

 危険な娯楽を駆逐した師は、それに代わる高尚な楽しみを村民に与えなければならない。楽しみのない日曜日は気がぬけた一日だ。まず第一に、師は村民を教会の夕べの務めに興味を持たせるようにした。その後にロザリオ会をおこした。アルスでも、最初に師のまねきに応じて、師の周囲に集まって来た者は、純真な少女たちであった。彼女たちは、夕べの務めと、ロザリオとを愛するようになり、しだいに、それがむしろ彼女たちにとって、一つの必要となるまでになった。のちには、師は彼女たちを司祭館の庭園にまねいて、そこになっていた桜んぼをかってにつませた。師はその間、司祭館の中にはいっていたが、しばらくたってから、彼女たちを台所に呼び寄せて、彼女たちのために聖人伝の一節を読んで聞かせた。村はずれのどこかでは、ダンスが行なわれている時刻だった。

「あなたがたは、ここにいるほうが幸福でしょう。」と師は少女たちをかえりみて言った。

 かくて一〇年あまりの不境不屈の努力(どれほどの苦業、どれほどの祈祷、また、どれほどの訓戒と苦心)の後に、アルス村の改革は成った。酔いどれは姿を消し、居酒屋は閉店し、ダンスもなくなり、青年男女のいかがわしい散歩姿も見えなくなった。たまに両親の目をぬすんで、となり村に踊りに出かける不心得の少女があれは、家に帰って来ると、両親の激しい懲戒を覚悟しなければならなかった。

 日曜日は主の日として、ふさわしく守られるようになった。祭日に集まる人がふえるにつれて、教会の装飾はますます充実してきた。師が祭器、祭服のために、どれほど金銀をおしまなかったかということは、前にしるした。師は実に自分一個の生括のためには、どのようなそまつな器具、そまつなスータンでも十分であった。しかし彼が、天主の司祭として、万軍の天主なる主のみ前にでる時には、どのような美々しい祭服をつけ、高価なる銀の器を用いても、それで足りると思わなかったのである。

 師はまもなく、教会の建物、それ自身にも手をつけ出した。一八二〇年には古い木造の鐘楼が、四角のれんが造りの鐘楼と代わった。同年に、師は聖堂の側方をひろげて、聖母にささげた小聖堂を造った。一八二二年には聖堂の天井を修理した。

 翌年、一八二三年には、師は第二の側方小聖堂を造って、これを自分の守護の聖人、洗者聖ヨハネにささげた。この小聖堂の欄間にかかげられた銘は、師の当時の心持ちを躍如として表わしている。「彼の頭はひとたびの舞踊の値なりきと。(これはもちろん、ヘロデの娘サロメの舞踊の結果だった、洗者聖ヨハネの殉教を暗示することばである。)のちにこの小聖堂の祝別式の時に、師は一つの出現を見たであろうという噂がひろがった。

 それは、ある日曜日に、説教の中で、彼が「わが兄弟たちよ、もしあなたたちがこの聖堂の中で起こった出来事を知ったならば、あなたたちはこの中にあえてはいりこまないであろう。私には、それ以上のことは言えません・・・」と、くりかえして、数回言ったからである。おそらくは、洗者聖ヨハネがヴィアンネー師にあらわれて、将来ここに置かれるべき告解場、およびその中にひざまずくべき無数の痛悔者を、師に示したのであろう。

 とにかく、師が自費でこの小聖堂を建てた時には、師は金が一文もなくなってしまって、しかも、なお建具屋から五百フランの支払い請求書が来ていた。もともと、師の私財というのは、教区から支給されるわずかな手当と、父よりの遺産の分として(父のマチュ・ヴィアンネーは師がアルス村に来た翌年の一八一九年に永眠して、師もまたいくぶんの遺産をもらった)兄のフランソアが毎年送ってくれる年金とであったが、それがすでに全部左官屋に支払われてしまったのである。師は非常に当惑して、少し頭をひやそうと戸外に出た。ところがしばらく行くと、先方から見知らぬ婦人がやって来て、なにかの善業におつかいくださいと言って、六百フランの金を師に手渡した。師はこれを天主の摂理のおんはからいとして感謝したが、しかしながら、同時にこれを天主の訓戒として、それからは、特別の場合を除くほか、商人や職人に、金を前私いにすることにきめたそうである。

 その後に三個の小聖堂がつぎつぎに加えられ、また後方にも増築された。

 師はまた多数の聖像を購入した。聖ヨゼフ、聖ペトロ、教会の守護者なる聖シクスト、聖ブラジオ、聖女フィロメナ、聖ラウレンシオ、アシジの聖フランシスコ、シェナの聖女カタリナ、聖ブノア・ラーブル、大天使聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルなどと、師は素朴な農夫らに、これらの聖像の与えるよい影響を知っていたのである。

 ヴィアンネー師の聖堂修理、および拡張事業の熱心な後援者となったのは、アルス城の女主人の兄弟フランソア・デ・ガレ子爵であった。子爵は平素パリに居住していたが、一八一九年の春に一週間ほどアルスの城に滞在し、その際、ヴィアンネー師と相知ることを得た。彼は、断食と不眠と伝道のためにやせおとろえた、この三三才の司祭に非常に感激して、絶対の信頼を置くようになったのである。こうして子爵は、たえずパリから貴重な祭器、祭服を師に発送した。師もまた重い木箱が届けられるたびごとに子供のように喜んで寛大な施しものをうけた。子爵はまた教会の入り口をひろげ、聖堂の前の階段を改築する費用をも喜捨した。

 こうして一八二六年ごろ、すなわち、ヴィアンネー師がアルス村に来てから一〇年ののちには、聖堂はほとんど今日残存する外観を呈したのである。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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