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聖ピオ十世会創立者の伝記 12.1.7. 教皇ヨハネの二重性

2008年07月01日 | ルフェーブル大司教の伝記
第12章 公会議の嵐に直面して

I. 中央準備委員会委員


教皇ヨハネの二重性

 その時、ヨハネ二十三世はこの第二バチカン公会議の前哨戦に、第二のトロイの木馬を受け入れた。つまり、マリーヌ (Malines) の大司教である若きレオン・ジョセフ・スーネンス (Leon-Joseph Suenens) の行動であり、教皇は彼をちょうど中央準備委員会員に指名したばかりであった。彼は間もなく枢機卿にするはずだった。

 1962年 3月になるやいなや、スーネンスはヨハネ二十三世に概要(schema)の数が「正常ではないほど」多い--七十以上--と不平を言った。

 準備作業に何らの指針を提供しなかったうえに、オッタヴィアーニと対立するのを願わないヨハネ二十三世は、隠密にスーネンスに将来の戦場を掃除させておく事を任せた。

 スーネンス計画は、予備概要を全て二つの部分からなる枠組みにおいて手を入れ直してリサイクルすることにあった。この二つの部分と言うのは ad intra, すなわち内部に向けて教会がその子らに言わなければならないことと ad extra, すなわち教会が外部世界に向けて言わなければならないことを言う。二番目の領域は確かに革命的な革新だった。

 計画は 4月末までに準備が完了していた。教皇はその計画が気に入った。5月中旬に教皇の命令でこの計画が、少数の有力な枢機卿たちに伝達された。つまりヨハネ二十三世自身が、この考えになびくように願っていた枢機卿たち、ドプフナー枢機卿、モンティーニ (Montini) 枢機卿、シリ枢機卿、リエナール枢機卿及びレルカノ(Lercaro) 枢機卿であった。

 これは予備概要を反古にし始めたでなくで何だろうか。そうしてヨハネ教皇は片手で作っていたことを他の手では壊していた。準備委員会にはその仕事を続けさせながら、同時にその仕事を崩すことを他の委員会にプログラムさせていたのだった。

 もし教区時報に掲載された1962年5月7日のチュールの司教と教皇との中央準備委員会についてのインタビューを信じるなら、教皇ヨハネは聖霊がすべてのことを上手く計らってくれると思っている、とのことである。

「聖下は、感嘆すべき深い興味と信仰の精神を持って準備の仕事を追っています。教皇様がその全希望を置いているのは、もちろん、人間的な計算ではなく聖霊にです。」


 これだけではなかった。「キリスト教一致増進のための事務局」はじっと座って遊んではいなかった。十の下部委員会に属している各専門家たちに、他の委員会でも取り扱っていた議題に関する提案や概要下書きを作成するように動いた。しかも、それらの問題をエキュメニズムの観点で扱わせた。またエキュメニズム、信教の自由及びユダヤ人問題に関する 三つの特別概要も準備させた。

 キリスト教一致増進のための事務局は、その最初の三種類の論題に関するプロジェクトがオッタヴィアーニの神学委員会(Theological Commission)に送ったが、神学委員会は出来るだけそれらを無視した。ベア枢機卿も(自分がかつて他の準備委員会を神学委員会と共同委員会を作らせたように)、事務局が神学委員会と共同委員会を構成することを求めた。オッタヴィアーニは断った。
【Werner Becker, Das Dekret über den Ökumenismus, in: LThK, Herder, 1967, vol. 13, pp.12-13. 】

 ヨハネ二十三世は自分が直接それらの深い違いを解決しないままこの分裂を迂回するために、1962年 2月 1日、事務局の最後の二つの概要は、「(オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会を含む)その他の委員会」を通さないで直接中央準備委員会に行くことができるように決めた。この最後の二つの内の一つが、信教の自由に関する概要だった。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

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