I. 中央準備委員会委員
劇的な対立(その2)
枢機卿たちが次々に発言し、彼らは二つの陣営に分かたれた。
フリンクスは「教会はこれ以上、宗教的誤謬の拡散を阻止し、カトリック信仰を保護する世俗的腕がもはや必要ない」と考えた。彼は「現世の共通善が危険でなければ、国家は他の宗教が広がることを阻むことができない」と付け加えた。
マーレイ神父のインスピレーションを受けたレジェー(Léger)は「人格をもつものだけが宗教を告白することができ、国家はそれが出来ない、国家は機関である。・・・国家には真の宗教を見分ける資格がない」と博学的に説明できると信じた。
これに対立して、現実主義者のオッタヴィアーニ枢機卿は「信教の自由はプロテスタントたちにラテン・アメリカを征服するための武器を与える」と預言した。
ルッフィニはこうに宣言した「自由は、それ自体では、真理と善徳のためであって、誤謬や悪徳のためではない」。「国家に関すること、そしてベア枢機卿が肯定したこと、つまり国家はそれ自体として宗教を認識することが出来ないししてはならないことは、極めて間違っていると思う。」
ララオナは、私たちだけが享受する自由を、非カトリックが持っていると認めてやるることで、彼らをカトリックに引き寄せることができると思うことはまことに「奇抜だ」と判断した。
最後にブラウンはこうに言った。「レオ十三世が勅書 Immortale Deiで解説した教理が偶然的な教理だと考えるのは、私には幼稚に見える。」
ルッフィーニ枢機卿は「教皇聖下に問い合わせてこの問題が解決されること」を要求した。しかしながら、彼らは投票することにした。そこで、ルフェーブル大司教は次のような意見を投票した。
「信教の自由に関して:反対 ・・・例えば、この間違いを「精神錯乱」(Denzinger 1690)と呼んだピオ九世ように歴代教皇たちが荘厳に排斥した誤った原理に基盤を置いているから。」
「教会に関しての九-十章: 賛成。しかし、基礎的な原則に対しては、回勅 Quas Primas のように王たるキリストにもっと多く参照して解説することができただろう。・・・私たち公会議の目的は、キリストを万人に告げ知らせること、そしてキリストを、個人と家族と職業同業者団体また他の民間団体の救いと生命である真のキリストを、正真正銘に告げ知らせることが出来るのはカトリック教会だけに属することを断言することである。」
「信教の自由に関する概要はキリストを告げ知らせていない。従って、間違っていると思われる。神学委員会の概要は、正真正銘の教理を命題として説明してある。この概要はこの教理の目的、すなわちキリストの統治以外の何ものでもないその目的をよく明示していない。・・・救いと命の源であるキリストの観点から、全ての基本的真理は、いわゆる「司牧的に」表現されうるだろう、そしてこのやり方によって、世俗主義(laicisme)、自然一本主義(naturalsime)、物質主義 (materialisme) などの誤謬さえが排除される。」
この超自然的な高みに立つ独創的な発言は、最も高い原理にこの始まった論争を置いてくれるものだった。しかし中央準備委員会の教父たちの心を打つだけだった。知恵の精神に満たされた男が立ち上がって、人権ではなく王たるキリストの権利を宣言したのだから。
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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員