アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様
近代主義と呼ばれる異端説の系譜としてカトリック思想界にも影響を与えた、マルティーン・ブーバー(Martin Buber, 1878年 - 1965年)の思索を見てみよう。
ユダヤ人マルティーン・ブーバー(מרטין בובר, Martin Buber, 1878年 - 1965年)の「我と汝・対話」(Ich und Du, 1923)は、人間の存在の最初に関係をおく。技術の世界のような「私 - それ」という関係が、人間関係に入ると、隣人は単なる対象となり物となり手段にすぎなくなる。そこで「私 - それ」という関係に対して、「私 - あなた」の関係は、相互性と対話とを打ち立てる。(よく「私 - それ」は「われ-それ」と、「私 - あなた」は「われ - なんじ」訳されているけれど、そう訳すと日常の言葉使いから離れているので、ブーバーの言わんとした生き生きとした体験における私とあなたという人格の関係よりも、ただ翻訳された頭の中でのことのようなのでブーバーの考えをもっと良く伝えるために「われ - なんじ」ではなく「私 - あなた」と訳した。)
ブーバーによれば、「私-それ」という関係は、この世界の機能に有益であり必要であるが、「私 - あなた」だけが、人間の究極的な真理を明らかにし、永遠のあなたである天主と人間との関係を開く。
ブーバーは、天主の十戒の本質は、天主なる私による人間のあなたへの呼びかけ・叫び・問い(Aufrage) --- 「私の前に私以外の神々を持つべからず」 ---- である、という。ブーバーによれば、聖書はこの呼びかけ・問いの経験をもう一度生きることであるという。その意味で「聖書のみ」ではない、常に聖書をよむ私がいる。
【コメント】
人間は社会的動物であり、他者との関係の大切さを認めなければならない。但し、この関係は、人間を完成の一つにすぎず、人間の人格を構成するものではない。
既にアリストテレスは、知的生活と幸福を完成させる徳として友情を上げている。アリストテレスは友情を "mutua amatio super aliqua communicatione fundata" と定義した。つまり、何らかの共有の上に立てられた相互の愛情である。聖トマス・アクィナスは、天主の愛徳の共有の上に天主と人間との友情を既に語っている。
更に、この愛徳を信仰と混同してはならない。天主に対する信仰を信者の天主との対話にすり替えてはならない。つまり、天主が預言者や使徒達に啓示し給い、教会が教える真理という信仰の客観的な内容を抽象して、私の体験・相互関係・出会いに置き換えてはならない。
また、教会が聖書の正統な解釈を与えていることは真理である。しかし、それは教会が「聖書を知解する主体」であるからではない。カトリック教会が聖書の正統な解釈者であるのは、カトリック教会が聖書の判断者であるからだ。トリエント公会議によれば「聖書の真の意味と解釈を判断するのは、教会に属している」(第4総会)からだ。カトリック教会はこの判断をするために、信仰の別の源泉を使う。それが聖伝だ。聖伝とは、キリストの口ずから、或いは聖霊から、使徒達を通して受け入れられた信仰と道徳の真理、使徒達から私たちに至るまで変えられることなく、手から手へと受け伝えられた真理である(トリエント公会議:第4総会)。聖伝の証人は、教父たちであり、典礼であり、世界中に広がって声をそろえて同じことを教えている司教たちの教導職であり、公会議と教皇たちの教導職である。これらの声は次から次へと出されるけれど、その本質において聖伝は変わることのない同じことを伝えている。
聖伝が不可変であるからこそ、聖伝が信仰の基準となりうる。不可変である限りにおいて聖伝は、聖書の解釈の基準なのである。聖書の今日の読み方と昨日の読み方は、今日の解釈と昨日の解釈は、同じである。不可変であるが、その説明において発展しうるのである。
ルフェーブル大司教は、「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ」(ルフェーブル大司教の公開書簡)の第16章「信仰を瓦解させる新近代主義」で、近代主義を上手く説明している。
====引用開始====
カトリック教会の教える信仰とは、天主の御言葉によって啓示された真理に知性が固執することです。私たちは自分の外部から来る真理を信じます。私たちが信じる真理は、何らかの仕方で私たちの精神によって隠されている(私たちの内部からの)ものではありません。私たちは、私たちに真理を啓示し給う天主の権威の故にそれを信じます。それ以外のところに信仰を探してはなりません。
この信仰は、いかなる人であっても私たちから取り上げて別のものと取り替えてしまう権利などありません。近代主義による信仰の定義は、既に80年前に排斥されていますが、それがまた顔を出しているのを見ています。
ところが、近代主義によると、信仰とは「内的な感情」ということになっています。近代主義は、宗教の説明を人間の外に探してはならないと主張します。「宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければならない。」
近代主義によれば、信仰とは何か純粋に主観的なもの、霊魂が天主へと固執することであるけれども私たちの知性には近寄ることのできないもの、各人がそれぞれに持っているもの、一人一人が自分の良心のうちにあるもの、とされます。
近代主義はつい最近発明されたものではありません。有名な回勅『パッシェンディ』が発布された既に1907年に発明されたものでもありません。近代主義とは、革命の恒常的精神であり、私たちをして人間内部に閉じこめ、天主を法外に置こうとする精神です。近代主義の誤った定義は、ただ天主の権威と教会の権威とを崩壊させることだけを求めています。
信仰は外部から由来して私たちに来ます。私たちはそれに自分を服従させなければなりません。「信じるものは救われ、信じないものは滅びるだろう」とは私たちの主イエズス・キリストが断言していることです。
「信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。」(「近代主義の誤謬に反対する誓い」より)
完全な観点の違いがあります。新しい教えでは、人間は真理を受け入れるのではなく、真理を創りあげるのだと言います。ところで私たちの知性が次のことが正しいと確認するように、私たちは真理とは創られるものではないと、私たちが真理を創るのではないとよく知っています。
彼らの教義に関していうと、それは次の幾つかの点に基づいています。現代によくある思潮の中に、これを認めるのは難しくはないでしょう。それは「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ということです。
従って、これによると、外部から来る啓示はいかなるものであれ不可能となってしまいます。そこで人間は自分自身の中に、自分の感じる天主をもつ必要を満足させようと探し、この必要の根元は潜在意識にあるとします。
近代主義によると、この天主的なものの必要性は、霊魂において特別な感覚(感情)を引き起こし、この感覚が「ある意味において人間を天主に一致させる」とされます。これが近代主義者らにとっての「信仰」です。天主はこのようにして霊魂の中に創りあげられ、これが「啓示」です。
宗教的感覚から知性の領域に移ります。近代主義によると、知性がドグマを創りあげるのです。つまり彼らによると、人間には知性が備わっているが故に、人間は自分の信仰を考えなければならない。それが人間にとっての必要性となる。そこで人間は信仰の定式文を創りあげるが、この定式文は絶対的真理を含むものではなく、真理のイメージをつまり、シンボル(象徴)を含む。このドグマ的定式文は従って、変転に服さねばならず、進化する。「こうして、教義の内因的進化(実体的変異)への道が開ける」のです。
近代主義によれば、定式文は単なる神学的思索ではありません。定式文が真に宗教的であるためには生きていなければならないとされるのです。感覚は「生命的に」定式文を同化吸収しなければならないとされます。
近代主義によれば、信仰者は信仰の個人的な体験をし、次に彼はその体験を説教によって他者に伝えます。このようにして宗教体験は伝播する、とされます。・・・
近代主義によれば、「信仰が多くの人に共通のもの(言い換えると集団のもの)となったとき」人は、この共通の宝を保存し促進するために社会を組織する必要を感じる。そこから教会が創立され、教会は「集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者 ───それはカトリック者にとってはキリスト─── にことごとく依存するもの」であるとされます。・・・
では聖書についてはどうでしょうか? 近代主義者らにとって聖書とは、或る宗教において有している「体験の集大成」であり、近代主義者らによれば、確かに天主がこれらの本を通して語りかけますが、その天主とは私たちの内に存在する「天主」のことです。聖書は、詩的な霊感という時とすこし似た意味での「霊感」を受けた書、とされます。
近代主義によれば、「霊感」とは、書くことによって信仰者が自分の「信仰」を使えたいという強烈な必要性と同一視されます。従って、聖書は単なる人間の作品となります。・・・
カトリック信徒は「公会議後の教会」において使われている新しい言い方に驚いていますが、じつはそれはあまり新しいものではなく、ラムネー、フックス、ロワジーなどが既に一世紀前に使っていた言い方で、彼ら自身でさえ数世紀まえから垂れ流されていた全ての誤謬をまとめたに過ぎなかったのです。キリストの宗教は変わりませんでしたし、決して変わることがないでしょう。私たちは彼らのやりたいようにさせていてはなりません。
====引用終了====
============
<= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
【関連記事】
愛する兄弟姉妹の皆様
近代主義と呼ばれる異端説の系譜としてカトリック思想界にも影響を与えた、マルティーン・ブーバー(Martin Buber, 1878年 - 1965年)の思索を見てみよう。
ユダヤ人マルティーン・ブーバー(מרטין בובר, Martin Buber, 1878年 - 1965年)の「我と汝・対話」(Ich und Du, 1923)は、人間の存在の最初に関係をおく。技術の世界のような「私 - それ」という関係が、人間関係に入ると、隣人は単なる対象となり物となり手段にすぎなくなる。そこで「私 - それ」という関係に対して、「私 - あなた」の関係は、相互性と対話とを打ち立てる。(よく「私 - それ」は「われ-それ」と、「私 - あなた」は「われ - なんじ」訳されているけれど、そう訳すと日常の言葉使いから離れているので、ブーバーの言わんとした生き生きとした体験における私とあなたという人格の関係よりも、ただ翻訳された頭の中でのことのようなのでブーバーの考えをもっと良く伝えるために「われ - なんじ」ではなく「私 - あなた」と訳した。)
ブーバーによれば、「私-それ」という関係は、この世界の機能に有益であり必要であるが、「私 - あなた」だけが、人間の究極的な真理を明らかにし、永遠のあなたである天主と人間との関係を開く。
ブーバーは、天主の十戒の本質は、天主なる私による人間のあなたへの呼びかけ・叫び・問い(Aufrage) --- 「私の前に私以外の神々を持つべからず」 ---- である、という。ブーバーによれば、聖書はこの呼びかけ・問いの経験をもう一度生きることであるという。その意味で「聖書のみ」ではない、常に聖書をよむ私がいる。
【コメント】
人間は社会的動物であり、他者との関係の大切さを認めなければならない。但し、この関係は、人間を完成の一つにすぎず、人間の人格を構成するものではない。
既にアリストテレスは、知的生活と幸福を完成させる徳として友情を上げている。アリストテレスは友情を "mutua amatio super aliqua communicatione fundata" と定義した。つまり、何らかの共有の上に立てられた相互の愛情である。聖トマス・アクィナスは、天主の愛徳の共有の上に天主と人間との友情を既に語っている。
更に、この愛徳を信仰と混同してはならない。天主に対する信仰を信者の天主との対話にすり替えてはならない。つまり、天主が預言者や使徒達に啓示し給い、教会が教える真理という信仰の客観的な内容を抽象して、私の体験・相互関係・出会いに置き換えてはならない。
また、教会が聖書の正統な解釈を与えていることは真理である。しかし、それは教会が「聖書を知解する主体」であるからではない。カトリック教会が聖書の正統な解釈者であるのは、カトリック教会が聖書の判断者であるからだ。トリエント公会議によれば「聖書の真の意味と解釈を判断するのは、教会に属している」(第4総会)からだ。カトリック教会はこの判断をするために、信仰の別の源泉を使う。それが聖伝だ。聖伝とは、キリストの口ずから、或いは聖霊から、使徒達を通して受け入れられた信仰と道徳の真理、使徒達から私たちに至るまで変えられることなく、手から手へと受け伝えられた真理である(トリエント公会議:第4総会)。聖伝の証人は、教父たちであり、典礼であり、世界中に広がって声をそろえて同じことを教えている司教たちの教導職であり、公会議と教皇たちの教導職である。これらの声は次から次へと出されるけれど、その本質において聖伝は変わることのない同じことを伝えている。
聖伝が不可変であるからこそ、聖伝が信仰の基準となりうる。不可変である限りにおいて聖伝は、聖書の解釈の基準なのである。聖書の今日の読み方と昨日の読み方は、今日の解釈と昨日の解釈は、同じである。不可変であるが、その説明において発展しうるのである。
ルフェーブル大司教は、「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ」(ルフェーブル大司教の公開書簡)の第16章「信仰を瓦解させる新近代主義」で、近代主義を上手く説明している。
カトリック教会の教える信仰とは、天主の御言葉によって啓示された真理に知性が固執することです。私たちは自分の外部から来る真理を信じます。私たちが信じる真理は、何らかの仕方で私たちの精神によって隠されている(私たちの内部からの)ものではありません。私たちは、私たちに真理を啓示し給う天主の権威の故にそれを信じます。それ以外のところに信仰を探してはなりません。
この信仰は、いかなる人であっても私たちから取り上げて別のものと取り替えてしまう権利などありません。近代主義による信仰の定義は、既に80年前に排斥されていますが、それがまた顔を出しているのを見ています。
ところが、近代主義によると、信仰とは「内的な感情」ということになっています。近代主義は、宗教の説明を人間の外に探してはならないと主張します。「宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければならない。」
近代主義によれば、信仰とは何か純粋に主観的なもの、霊魂が天主へと固執することであるけれども私たちの知性には近寄ることのできないもの、各人がそれぞれに持っているもの、一人一人が自分の良心のうちにあるもの、とされます。
近代主義はつい最近発明されたものではありません。有名な回勅『パッシェンディ』が発布された既に1907年に発明されたものでもありません。近代主義とは、革命の恒常的精神であり、私たちをして人間内部に閉じこめ、天主を法外に置こうとする精神です。近代主義の誤った定義は、ただ天主の権威と教会の権威とを崩壊させることだけを求めています。
信仰は外部から由来して私たちに来ます。私たちはそれに自分を服従させなければなりません。「信じるものは救われ、信じないものは滅びるだろう」とは私たちの主イエズス・キリストが断言していることです。
「信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。」(「近代主義の誤謬に反対する誓い」より)
完全な観点の違いがあります。新しい教えでは、人間は真理を受け入れるのではなく、真理を創りあげるのだと言います。ところで私たちの知性が次のことが正しいと確認するように、私たちは真理とは創られるものではないと、私たちが真理を創るのではないとよく知っています。
彼らの教義に関していうと、それは次の幾つかの点に基づいています。現代によくある思潮の中に、これを認めるのは難しくはないでしょう。それは「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ということです。
従って、これによると、外部から来る啓示はいかなるものであれ不可能となってしまいます。そこで人間は自分自身の中に、自分の感じる天主をもつ必要を満足させようと探し、この必要の根元は潜在意識にあるとします。
近代主義によると、この天主的なものの必要性は、霊魂において特別な感覚(感情)を引き起こし、この感覚が「ある意味において人間を天主に一致させる」とされます。これが近代主義者らにとっての「信仰」です。天主はこのようにして霊魂の中に創りあげられ、これが「啓示」です。
宗教的感覚から知性の領域に移ります。近代主義によると、知性がドグマを創りあげるのです。つまり彼らによると、人間には知性が備わっているが故に、人間は自分の信仰を考えなければならない。それが人間にとっての必要性となる。そこで人間は信仰の定式文を創りあげるが、この定式文は絶対的真理を含むものではなく、真理のイメージをつまり、シンボル(象徴)を含む。このドグマ的定式文は従って、変転に服さねばならず、進化する。「こうして、教義の内因的進化(実体的変異)への道が開ける」のです。
近代主義によれば、定式文は単なる神学的思索ではありません。定式文が真に宗教的であるためには生きていなければならないとされるのです。感覚は「生命的に」定式文を同化吸収しなければならないとされます。
近代主義によれば、信仰者は信仰の個人的な体験をし、次に彼はその体験を説教によって他者に伝えます。このようにして宗教体験は伝播する、とされます。・・・
近代主義によれば、「信仰が多くの人に共通のもの(言い換えると集団のもの)となったとき」人は、この共通の宝を保存し促進するために社会を組織する必要を感じる。そこから教会が創立され、教会は「集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者 ───それはカトリック者にとってはキリスト─── にことごとく依存するもの」であるとされます。・・・
では聖書についてはどうでしょうか? 近代主義者らにとって聖書とは、或る宗教において有している「体験の集大成」であり、近代主義者らによれば、確かに天主がこれらの本を通して語りかけますが、その天主とは私たちの内に存在する「天主」のことです。聖書は、詩的な霊感という時とすこし似た意味での「霊感」を受けた書、とされます。
近代主義によれば、「霊感」とは、書くことによって信仰者が自分の「信仰」を使えたいという強烈な必要性と同一視されます。従って、聖書は単なる人間の作品となります。・・・
カトリック信徒は「公会議後の教会」において使われている新しい言い方に驚いていますが、じつはそれはあまり新しいものではなく、ラムネー、フックス、ロワジーなどが既に一世紀前に使っていた言い方で、彼ら自身でさえ数世紀まえから垂れ流されていた全ての誤謬をまとめたに過ぎなかったのです。キリストの宗教は変わりませんでしたし、決して変わることがないでしょう。私たちは彼らのやりたいようにさせていてはなりません。
============
<= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
【関連記事】