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聖ピオ十世会創立者の伝記 12.3.3.高位聖職者の後援、自由な組職、貧弱な資金

2008年08月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

高位聖職者の後援、自由な組職、貧弱な資金

 第二会期が終わる頃の1963年 12月 6日、ルフェーブル大司教は教皇パウロ六世と謁見した。教皇は、彼に数名の教父たちの提案について自分の考えを説明し、ルフェーブル大司教を大いに満足させた。その提案というのは、多岐にわたる発言を共同提案としてまとめること、つまり「少数派」と言われていた人々の意見を体系的に提示するというものだった。

 パウロ六世は第二会期の閉会演説でこの考えを仄めかした。このような、最高位の期待していなかった支持を受けると、ルフェーブル大司教はもはやためらわなかった。ソレムでの会合の後、1964年 2月 8日、伝統的な考えの教父たちを一つのグループで組織するという自分の計画をペリクレ・フェリチ (Pericle Felici) 大司教に知らせた。

 1964年 8月 5日付けの最初の書簡は、シガウド司教とデ・カストロ・マイエル司教とルフェーブル大司教とが署名し、更にはカバン (Caban)、シルバ (Silva)、ラッキオ (Lacchio) 及びコルデイロ (Cordeiro) 司教たちの署名が加えられて、教会の聖伝を固守する多くの教父たちの団体作りを告げ知らせた。最小限 70人になるということを前提に、彼らの一人が全体を代表して代弁することが出来るために、同じ論点を表明することを望む教父たちがグループを作ることを許容する新しい規則が公会議規則に付け加えられたことを説明して、この最初の手紙は、このような動きの正当性を立証した。

 公会議の第三会期が始まる時、1964年 10月 2日付けの公文書によって、この団体の誕生が発表され、公会議教父たちに配付された。シガウド司教の署名で、文書は高位聖職者の後援の元でグループが結成されたことを告知した。後援者には、サントス (Santos) 枢機卿 (マニラ)、シリ枢機卿 (ジェノバ)、ルッフィーニ枢機卿 (パレルモ)、ブラウン(ローマ教皇庁) 及びララオナ枢機卿 (ローマ教皇庁)らがいた。

 チェトゥスの活動を後援するにおいて、サントスは無活動であったが、ララオナは、10月 6日の最終文書でその名前は消えるのだが、すべての枢機卿たちの中で一番緊密で、一番有能だった。パウロ六世はそのことでララオナを叱責するだろう。

 他の枢機卿たちは、チェトゥスの中でというよりもその周辺で団体を支持するだろう。何故なら、ローマの枢機卿職のために、もっと深く関与することができないと考えていたからだ。

 1964年 11月になってからようやく、団体は教父たちの国際グループ (Coetus Internationalis Patrum)という最終名称を選んだ。

 だから第一会期の極めて初期から活動して来た進歩派の団体に比べて、この教父たちの団体は一歩遅れて構成されたのだった。遂に、光の子らの単純さは、革新者たちのずっと前から計画されていた作戦に対応したのだった。

 チェトゥスの潜在的支持者たちは、アウグスティノ会 (Augustinian) 本部で開かれる集まりに招かれた。そこでは連続講演が用意されていた。10月 13日、ルッフィーニ枢機卿は概要 13番に関して、10月 27日にはフランシスコ会 (O.F.M) のエルメネジルド・リオ (Ermenegildo Lio) 神父が婚姻に関して、11月 3日、フラニッチ (Franic) 司教は「共産主義と教会」について話した。11月 10日にはカラロ (Carraro) 司教は司祭職の制定に関する講演をした。等々。ただルッフィーニ枢機卿だけは、公会議の主要テーマの一つについて論じた。

 これら会合は、チェトゥスの精神を少しずつ広めるのに成功したが、具体的な行動を組職化することを目的とはしていなかった。行動は団体の中心部のメンバーのものとして留まった。中核は 3人の設立者及びカルリ司教で成り立ったおり、これにカナダのシャールブルック (Sherbrooke) の大司教であるカバナ大司教、そしてラ・ロシェルの司教であるモリロ司教(Mgr Morilleau)が合流した。彼らの回りに、住所録に登録された合計250名の高位聖職者達が集っていた。この名簿録は、公会議の間、始終作成され、追加され、変更された。

 チェトゥスとは、このように、一つの星雲に似ていた。言い換えると、その境界線がハッキリと定められていない網状の組職で、公会議の内部において、あらゆる異端審問や叱責をものともしなかった。いかなる教父にもいかなる正式会員資格が要求されなかった。一人一人の会員の個人的な繋がりが大きい役目をした。なかでも極めて目立ったのは、カルリ司教のイタリア人の友人関係で構成されたサークルや、以前にサンタ・キアラの卒業生たちの繋がり (ルフェーブル大司教を取り囲む三人の司教とフランスの大修道院長)、ヴェルブ誌とラ・パンセ・カトリック誌とを通じて出来上がった関係、そしてシガウド司教のポルトガル語圏の友人たちだった。

 チェトゥスはカルリ司教を通してラテラノ大学 (Lateran University) を使うことが出来た。ラテラノ大学の二人の教授、すなわちモンシニョール・ピオランティ (Piolanti) とモンシニョール・ラタンジ (Lattanzi) は闘いに合流した。シリ枢機卿を通じて、チェトゥスは 公会議の調停委員会 (Council's Co-ordinating Commission) に影響力を及ぼすと同時に、ルッフィーニ枢機卿は公会議議長団に対する彼らの常設の接触点だった。

 チェトゥスの財政的収入は、全てのマスメディアを自由に使うことが出来た「ヨーロッパ同盟 l'Alliance europeenne」を前にして、笑わせるほど極度に貧弱だった。ヨーロッパ同盟は、特に第三会期が終わる頃、400万枚以上の広告紙を配布したことを自認した程万能の IDOC を自分のものとしていた。

 ルフェーブル大司教はこう言う。「私たちの側では、私たち保守的な司教たちは、この(ヨーロッパ同盟の)影響を中和させようと努めました。それは自分の秘書課職員を私たちが自由に使うことが出来るように計らってくれたララオナ枢機卿のお陰で、私たちには、タイプ・ライターと輪転機そして三、四人のお手伝いがいたのです。」

 1963年 11月、大司教は既に輪転機を購入していたが、チェトゥスはオフセット印刷機も手に入れた。ララオナ枢機卿は、自分の秘書を二人、すなわち聖クラレチアン宣教会会員 (Claretian)であるドン・ヘスース・トレス・ジョレンテ (Don Jesus Torres Llorente) とドン・ルイス (Don Ruiz) を「貸してくれた」。機械は、チェトゥスの文書を夜通し印刷していた。早朝になると、幾名かのフランス人青年たちとカトリシスモ誌の若いブラジル人たちが、ルフェーブル大司教のプジョー(Peugot) 403に乗ってローマをくまなく駆けめぐっていた。そうして、彼らは、投票に関する勧告をチェトゥス名簿に掲載されている教父たちの郵便受けに配布して回った。

 他方で、第一会期以後、神言会 (S.V.D.) 所属のラルフ・ヴィルトゲン (Ralph Wiltgen) 神父は自分の報道機関である神言会ニュース・サービス(Divine Word News Service)の紙面をまずデ・カストロ・マイエル司教、ルフェーブル大司教との、続いては、チェトゥスの他の会員たちとのインタビューに喜んで割いてくれた、それによってローマ系の立場を大きく広報することができた。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)


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