司教団体主義に反対する闘い
多くの公会議教父たちの考えでは、第二次バチカン公会議の目標は第一次バチカン公会議の教えと均衡を取ることであった。第一バチカン公会議は教皇の首位権に関する教理を表明した。彼らの考えでは、第二バチカン公会議は当然、教皇とともに教会を治める司教の権利を宣言することを提案するべきであった。
教会憲章の新しい概要は、準備されていた概要が廃棄された後に、1963年、第二会期の間に激しく論議された。競争関係にある三つの命題類がぶつかりあった。
極端的な自由主義命題は、司教たちが一つの団体を構成し、教皇はその頭でしかなく、司教団体の意見を参照してのみ始めて教皇は決断を下すことが出来る、とするものであった。
穏健な自由主義命題--パウロ六世はこの意見であった--は、司教たちは一つの団体を構成するが、天主の権利による頭である教皇に従い、教皇は、司教団体とは独立して、第一バチカン公会議で定義された個人的な権能を行使することができる、とした。従って、教会の最高の権能は二つの権威によって行使されることになる。つまり、一つは教皇の権威であり、もう一つは「その頭と共かつ頭の下にある」司教団の権威である。
この緩和された自由主義命題に直面して、チェトゥスは次のように反論した。つまり、もしその通りなら、この説が主張するところの天主により教会に与えられたその構造の力によって司教たちに属する最高の権能を行使することを、神授の権利により、司教たちは教皇に、自分たちがそれを望むときに、つまり恒常的に要求することができることになってしまう、と。もしもそうなれば、教皇の個人的な最高の権能は、この説に合うように縮小されてしまう危険があるのだった。この危険に対処して、チェトゥスは、ベルト神父が概要の草案で解説し、ルフェーブル大司教が支持した、ローマ系のカトリック神学の命題を固守した。
このチェトゥスの命題は、全聖伝と歴史とによって、教皇のみが神授の権利により、全世界の(普遍の)教会の唯一の頭であり、教皇だけに最高権威の充満が完全にあることを証明していた。司教団に関して言うならば、共通の行為の唯一の主体としての法的な意味における団体を、天主から受けた権利として構成しない。司教団は、公会議において例外的にのみ、合議的な固有の行動をこうしするだけである。司教団は、全世界の教会に対しては教皇がそれを望んだときに、司教団に権威を共に持たせることによってのみ、教皇の最高権威に参与することによって、全教会に対して権威を持つ頃が出来る【司教団に天主から与えられたような全教会に対する最高権威などというようなものは無い】。
このような反対を前にして、新しい文書の草案が準備された。パウロ六世はこの草案に満足することができず、この下書きは見直され、訂正され、ようやく 1964年 7月 3日にそれを第三会期の討論の俎上になるものとして承認された。そこでは、神授権により教会が恒常的に公会議という状態であるという、穏健な自由主義命題が提案されたのだった。
チェトゥスは教皇に対立してでも、教皇の首位権を守り抜き、いわゆる司教団体が天主の権利によるという主張に反対することを決意した。
1964年 7月 15日、ルフェーブル大司教、モリロ司教(Mgr Morilleau)及びドン・プルーは、フランスのソレムで、少なくとも 十三名の教父たちが署名した陳情書あるいはラテン語でポストゥラートゥム (postulatum) と呼ばれるパウロ六世に対する申請を作成した。これは教皇に、童貞女聖母マリア様を「教会の母」として宣言すること、また、聖伝の教理に反対するすべての概要を第三会期の討論で排除することを要請するものだった。この陳情書で、彼らは、ペトロがキリストの代理者だからこそ、使徒団の頭であったのであり、現在人々が暗示させようとしているように、司教団の頭だからキリストの代理者であるのではない、と教皇に思い出させていた。
パウロ六世によって承認された概要をこのように阻止しようとすることだけでは満足せず、ルフェーブル大司教及び彼の友人たちはソレムに集まり、幾つかの概要には不正確さと曖昧さが隠されていると告発する手紙を教皇に書いて、公会議の多くの教父たちがそれに署名するように、より大きな射程を定めた。
奇妙なことに彼らの関心事はスキレベクス(Schillebeeckx)神父と合致した。彼は極端な自由主義者ではあったが、第二会期に大きなショックを受けたのだった。何故なら、スキレベクス神父は、或る神学顧問が教会に関する概要をわざと曖昧にして穏健な自由主義の命題を提示しているのだと自白したのを聞いたからだった。その神学顧問はこう言った。
「私たちは、外交的に表現している。しかし公会議の後では、公会議文書にある暗示的なものを結論として取り出すだろう。」
スキレベクス神父には「この戦術上の不誠実を見出す」という誠実さがあった。
ルフェーブル大司教は、行間に隠されているが将来再生するであろうこのような誤謬のメッセージを見抜いていく内に、もしもパウロ六世が行動を取らなければ、公会議の名誉は失墜し、格下げられ、さらには公会議が教会を汚染することになるだおる、と考えた。
ルフェーブル大司教は教皇にこう手紙を書いた。
「既に、"公会議の神学顧問たち" は、私たちが昔神学校で習ったことによれば軽率、危険、或いは基本的に間違いと判断しなければならない結論に至っています。教導権の教えとは正反対の用語と意味において活用されている概要もあります。概要の不正確さが、一世紀以上絶えず排斥され断罪されてきた考え、理論、誤謬が教会に浸透するのを許しているように思えます。」
公会議の名誉と公会議について将来人々がつける評価にとって決定的なこの書簡は何らの回答も受けることができなかった。
============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員
- 12.1.1.「いと高き者の息吹を受けて...」
- 12.1.2.タルディーニ枢機卿の公会議事前準備
- 12.1.3.天主の国に入り込んだトロイの木馬
- 12.1.4.最初の小競り合い
- 12.1.5.グレゴリオ聖歌及びローマの聖伝ラテン語ミサの保護者
- 12.1.6.一般の平信徒の使徒職と王たるキリスト
- 12.1.7.教皇ヨハネの二重性
- 12.1.8.劇的な対立(その1)
- 12.1.9.劇的な対立(その2)
- 12.1.10.劇的な対立(その3)
II. 革命が始まる
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)