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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.13.大胆な要求、廃止の脅迫、堅忍

2008年09月12日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

大胆な要求、廃止の脅迫、堅忍

 7月に、私たちが既に見た重要な会議がソレムで開かれた。この時ルフェーブル大司教とシガウド司教及びカルリ司教は、教皇に公会議の大討論に関する主流派と非主流派の見解が各陣営から出た解説者、一人或いは二人によって順に紹介されることを要求する 7月 25日付け書簡を送った。

 こうしてすべての教父たちは、提示されている論題を総合的に見ることが出来るはずだった。国務長官であるチコニャーニ枢機卿は、8月 11日付けの返事は、カルリ司教宛てに来た。この返事はチェトゥスの要求を軽蔑し、チェトゥスという名称のもとで、公会議を分裂させるグループに属していると言ってチェトゥスの教父たちを批判した。

 心配になったカルリ司教は 8月 17日、その問題に対してルフェーブル大司教に手紙を書いた。ルフェーブル大司教は 8月 20日にこの書簡をシガウド大司教に送り、次のようなコメントを付けた。

「教皇、或いは国務長官枢機卿は、力強く組職され、分裂を引き起こすかも知れない団体を連想させる名称に恐れをなしたようです。・・・私たちはこの会の名前を省略することができるし、私としてはこれに反対しません。名前がどうであろうと、現実を変えることはないでしょう。」

 これが意味したことは、私たちは続行する、と言うことだった。

 そして公会議の第四総会の、信教の自由に関して論争した第三日目である 1965年 9月 18日、百名以上の教父たちの名前で、チェトゥスは公会議の規則を持ち出して、この信教の自由に関する教理をどのように理解するべきかを「完全で体系的なやり方で」提示するレポートを読む許可を申請する嘆願書を、枢機卿司会者たちに提出した。要請は拒否された。公会議教父たちは 9月 21日、最終宣言文のための根拠として、承認された文書 (textus recognitus) の概要は、賛成票 1,997 及び反対票 224--これはチェトゥスの中心メンバーをなしていた--の投票で受け入れられてしまった。

 チェトゥスは、公会議が原則を論議するのをあきらめ、また文書を根本的に改め直して健全な基礎の上でまた最初からやり直すのを諦めるべきなのか、と自問した。

非常にしばしばそのようにせざるを得なくなっていたが、最悪の事態を阻むための試みで、詳細事項を変更させるので満足しなければならないのだろうか? チェトゥスは、諦めてそのような戦略に頼ることをしなかった。そうではなく、自分のもてる全ての力を尽くして原則を守るための根本的闘いに挑むことを決意した。

 既に 1965年 10月 26日と 27日には、論議されて表決に付された第五改訂版のテキストは、教父たちの百以上の修正案 (modi) を考慮するように修正されなければならなかった。ところがその改訂からなされた六番目の草案 (textus denuo recognitus) は 11月 17日ド・シュメット司教によって提出されたが、チェトゥスを満足させることは出来なかった。

 11月 18日、チェトゥスは、公会議事務局の論説にある根本的論理を分析し、この論説がなす主要な主張を論破することに集中した二ページの最終テキストを 800人の教父たちに送った。チェトゥスの結論はこうだった。「私たちは反対 (non placet) と言わざるを得ない。」


 「真の宗教及びキリストの唯一の教会に対する、人間と社会の道徳的義務に関する聖伝のカトリック教理」に関する第一番になされた改善があるにもかかわらず、この原則教理は文書の残りにふさわしい適用がなされなかった。他方で公会議事務局の基本論説はあくまでもに維持された。

 チェトゥスの議論は次のように要約することができる。すなわち:

 文書が「人格(ペルソナ)」(1番) 及び 「宗教団体」(4番) に帰属させようとする「宗教に関することにおけるいかなる拘束からも免れている権利」は、概要自体によると、全面的に「真理探求」(2番)において宗教行為をする人権に基づき、この「真理探求」自身は、「人間の社会的本性」に基づく。この社会的本性は、「宗教という内的な行為を外的に表現するのを要求し、宗教に関する事柄において他者と交流し、共同体の形で自分の宗教を告白することを要求する」(3番)。

 チェトゥスは、ここでの問題はこれが宗教的な間違い、もしくは誤った礼拝に関する場合、理性も聖書も教導権も、宗教の権利が一つの自然権として、正当に表現されるとも、要求されるとも、執行されるとも容認していないことだと言った。

 ピオ十二世は最近再び「真理及び道徳法に合致しないことは、客観的に、存在することも宣伝することも行動することもいかなる権利がない」、また「いかなる人間的な権威といえども、宗教的真理に悖るようなこと教えるあるいは行うという積極的命令あるいは積極的許可を与えることができない」と教えたばかりである。

 従って、同じピオ十二世教皇は、或る宗教の告白や礼拝の実践において、いかなる拘束から免れる自然権は、具体的には真の宗教にだけしか適用されないと教えた。従って人間は「真の天主を自由に崇敬する権利」があり、且つ「真の天主の礼拝を実践するまったき自由がある」と教皇は言った。

 ルフェーブル大司教はこの問題を次のように、自由主義者にとっては身の毛がよだつような的確な表現で要約した。「真理にだけ権利があり、誤謬には何らの権利がない」と。

 チェトゥスの文書はこの基本的な真理に二つの補足を追加した。
 第一、ピオ十二世が言っていたように、「ある限定された状況においては(...)より高次のより広範な利益 [すなわち共通善] のために」宗教の間違い、もっと正確に言えば、誤った宗教の外部への表明は、黙許される(寛容される)ことができる。このような寛容は、何らかの拘束から免れる市民権として譲歩によって、保障されさえし得る。
 第二、宗教的真理が持つ権利によって、またピオ十二世が教えていたように、「教会は(...)原則的に [国家と] 協調することを当然の規範と考え、それを真の宗教において国民の一致及び真の宗教と国家との行動の一致を理想として保持する」ようにさせる。

 このことは、事務局の概要の中でなしていた二つの主張、すなわち市民法のみならず自然的としての信教の自由、また、いかなる状況においても、「特殊状況という理由」以外では、或る決まった宗教を認めてはならない国家の一般的中立、ということを挫折させていた。


 チェトゥスのこの最終文書が公会議会場で紹介され、詳しく解説することができなかったのは、何と残念なことだったろう!

 いずれにせよ、第六改訂版の文書に関する 11月 9日の投票は、反対 (non placet) の数字が 249 票と今までなかったほど多かった。つまり、賛成 (placet) 1,954 対 反対 249 であった。

 国際法の専門家であるモンシニョール・ディ・メッリョ (di Meglio) は 12月 3日に次のような論評を出した。

「注目するに値するほどの公会議教父たちにとって、概要の教えることと実践的適用は良心上受け入れることができない。実に、概要の基本的な原則、すなわち "間違いの権利" は修正案にそのまま変わらずにのこっていた。・・・信教の自由に関する "宣言文" は教義上の価値を有していないゆえに、公会議教父たちの反対投票は、将来のこの宣言文に関する研究にとって、そして特に宣言文をどのように解釈するかということにとって、極めて重要な要素を成すだろう。」ヴィルトゲン フランス語版 248ページ)

 249票の反対 (non placet) は、信教の自由に賛成するという満場一致のコンセンサスが成り立つことを実質的に許さなかった。

 パウロ六世は、自分がその文書を支持し、この満場一致のコンセンサスを要望するということを知らせた。すると、その時まで反対 (non placet) 投票をした幾名かのスペイン語系の司教たちはこう言った。「今となっては、私たちは賛成 (placet) 投票をするのはどうだろうか?それに第一項には、国家の教会に対する義務に関する聖伝の教理はそのまま守られていることになっている」と。

 ルフェーブル大司教はこのような態度に対してこう抗議した。
「そうですね、パウロ六世は、この小さな文章を添加させました [11月 17日に]。しかし、文章全体は、それと正反対のことを述べており、この添付は文章に何らの影響も与えていません。小さな一文のために、間違いを通過させてしまうというのはあまりにも簡単すぎます!」

 残念なことにも!教父たちはルフェーブル大司教の声を聞こうとしなかった。12月 7日に、教皇が臨席した総会の最終投票で、チェトゥスの抵抗の数字は反対票 (non placets) が 70に落ちた、その反対の内の一票がルフェーブル大司教のものだった。


【参考資料】「近代主義の教会の中への侵入の略史」より引用


 これが公会議で起こったことです。公会議の全ての論説とテキストとがリベラルな枢機卿たちとリベラルな委員会によって影響を受けたということは明らかです。第二バチカン公会議のテキストが曖昧であり、ものごとを変えるのに都合よくできていること、教会内部で本当の革命を起こすように都合よく出来ていることは、驚くに足りません。
 私たち、司教たちと枢機卿たちの伝統的一翼を代表していた私たちが、何かすることができたでしょうか?率直に言って、私たちはほとんど何もすることができませんでした。聖伝維持を支持し、教会における大きな変化、つまり、誤った刷新、誤ったエキュメニズム、誤った司教団制度 (collegialité) に反対していたのは、250人でした。私たちはこれらすべてのことに反対しました。これら250人の司教たちは、明らかにいくらかの影響力を行使し、そしてある場合にはテキストを修正させることに成功しました。悪はいくぶん制限されました。
 しかし私たちはいくつかの誤った意見が採用される、特に信教の自由に関する論説が採用されるのを阻止することに成功することができませんでした。
 この信教の自由に関する文書は、5回も書き直しを受けました。
 しかし5回とも、同じ説がそのまま戻ってきました。私たちはいずれの機会にもそれに反対しました。反対投票はいつも250票でした。


 そこで、教皇パウロ六世は、このテキストに二つの小さな文章を付け加えさせたのです。それにはこうありました。「このテキストには、教会の伝統的な教えに反することは何もない、そして教会は常にキリストの真の、唯一の教会であり続ける」と。
 すると、特にスペインの司教たちがこう言いだしたのです。
「教皇がこれを付け加えたのだから、もはや何の問題もない。伝統に反するものは何もないのだから」と。
 もしもこれらの事柄が(過去の教会の教えと)矛盾するならば、この小さな章句は、テキスト内部に書かれてあることに全て矛盾します。これは一つの内部矛盾を抱えた概要文書です。それを受け入れることはできません。最後には、私の記憶が確かならば、ただ74人の司教だけが反対者として残りました。この文書は、これ程までの反対に遭遇した唯一の概要です。しかし、2500票のうちの74票というのはほとんど何でもありません!

 このようにして公会議は終わりました。私たちはそれ以来導入されてきた諸改革に驚くべきではありません。自由主義の全歴史を通して、リベラル派は公会議内部で勝利したので、彼らはパウロ六世が彼らにローマ聖省のよい地位を与えることを要求したのです。

 そして事実、諸々の重要な地位は進歩的な聖職者に与えられました。一人の枢機卿が死ぬとすぐに、あるいはある機会が生ずるやいなや、教皇パウロ六世は伝統的な枢機卿たちを脇へ押しやり、直ちにリベラルな枢機卿が彼らに取って代わるようにしました。
 このようにしてローマはリベラル派によって占領されました。これは否定できない事実です。また公会議の諸改革がエキュメニズムの精神を呼吸し、プロテスタントの精神を吸い込んだ改革であった、それ以上でも以下でもないということも否定することはできません。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

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