Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.2.2.自由主義の最初の勝利

2008年07月19日 | ルフェーブル大司教の伝記
II. 革命が始まる


自由主義の最初の勝利

 ルフェーブル大司教は、しばしば、始めから公会議が展開されるやり方を構想し始めた自由主義陣営の勝利について話した。公会議は「現代化勢力によって統制を受けた。私たちはそれを感じたし、感知した。私が‘私たち’と言う時には当時大部分の公会議教父たちを意味する。そして私たちは何か非正常的なことが起こっているという感じを受けた。」

 最初に起こったことは、準備委員たちから差し出されフェリチ (Felici) 大司教によって公会議委員に対する表決に、最適任である人選であると提示された教父たちの名簿の拒否だった。ドイツ系の司教たちとともにケルンの大司教であるフリンクス (Frings) 枢機卿は、自由主義的司教たちによって構成された別の名簿が受け入れられるように動いた。リエナール枢機卿が攻撃を先導することなっていた。【ティスラン枢機卿は、アカデミー・フランセーズ会員のジャン・ギトンに「公会議が開かれる前に私たちは皆集まって、ヨハネ二十三世によって作られた暴君的な規則を拒否することによって第一総会をハイジャックすることを決議した」と打ち明けている。Jean Guitton, Paul VI secret, p123. in Romano Amerio, "Iota Unum" (NEL, 1987), p80.】

 大聖堂入口で、リエナール枢機卿はルフェーブル枢機卿からトゥールズ (Toulouse) のガロンヌ (Garrone) 大司教が書いたラテン語の文書を受けた。彼は先ほどからずっと座っていた公会議議長団席を立ち上がると、ティスラン枢機卿はただ形だけの発言許可拒否をしたが、リエナール枢機卿は「震える声で」「教父たちの自由」に関する演説文を朗読した。彼は拍手喝採を受け、次にはフリンクスが直接演説した。拍手喝採は二倍大きかった。これで会議は幕を閉じた。

 ライン河周辺の地から来た司教評議会--ドイツ、オーストリア、フランス、オランダ、ベルギー及びスイス--は、幾名のアフリカ司教たちと共に、他の国から来た自由主義教父たちを何人か加えた共同名簿を急いで作成した。

 シリ枢機卿がこのような独占に対して不平を言うと、フリンクスはこう返事した。
「私たちが指名するイタリア人たちを受け入れなければ、イタリア人は一人も選出されないだろうね。」

 こうして 10月 16日、「ヨーロッパ同盟」は座席の 49%を得た。ヴィルトゲン (Wiltgen) がこう論評したように「ライン河がティベル河に流れ始めた」。


 自由主義教父たちの二番目の勝利は、最初の四種類の教義的概要に関する論議を無期限延期にすることだった。これに続いて公会議教父たちがローマに到着するやいなやその四つの文書に対するスキレベクス (Schillebeeckx) 神父の論評を配布するオランダの発議があった。ヨハネ二十三世はフリンクス、リエナール及びアフフリンク枢機卿たちの要求を受け入れて、10月 16日に最初に討論する概要は典礼に関する憲章だと発表した。

 自由主義のこのような二番目勝利は、「啓示の源泉に関して」という最初の教義的概要が遂に 11月 24日の討論に付された時に、まったく確実となった。

 自由主義のグループは招集をかけた。その目標は、エキュメニカルな目的のために聖書に首位性確立させるために、天主による聖伝が聖書から独立していることを否認することだった。

 論争は 五回にわたる総会の間、互いの陣営を交互に論戦し合った 40人の自由主義者たちと 30名の「ローマ系」の間で峻烈なやりとりがあった。

 公会議議長団は教父たちにこの概要の討論を保留しなければならないか否かに関して投票で問うことにした。62パーセントが発議に賛成したが 3分の 2得票には及ぶことができなかった。それにもかかわらずヨハネ二十三世は、ベア枢機卿とレジェー枢機卿の嘆願に屈服し、自分自身で作った規定に反して、「司牧的でエキュメニカルな路線」に合わせて概要を修正するように決定した。この決定は、別の三種類の教義的概要に弔いの鐘を鳴らすことに等しかった。

 後日、ルフェーブル大司教はこう言うだろう。1963年 6月 3日ヨハネ二十三世が世を去り、6月 21日パウロ六世が選出された後、時期早々としてなされた二つの自由主義クーデターは、新教皇によって成し遂げられた、と。つまり、新任教皇は、公会議議長団を構成員が 10人から 12人に増加し、その役目を公会議の運営手続上の問題にだけ責任があるとし、同時に、四人の枢機卿議長、すなわちドプフナー、スーネンス、レルカノ及びアガジャニアンに「公会議の活動を指揮し討論を秩序立てる」権限を与えた。このうち前者の三人は自由主義者だった。後者の一人は教皇庁の枢機卿たちの基準に当たる人と考えられた。こうして自由主義者が覇権を持って公会議を主導するように、パウロ六世が保障してくれたわけだった。

============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員


II. 革命が始まる

最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
公会議・・・ (1)
2008-07-23 15:28:32
 カトリック教会の2000年の歴史の中で、公会議というのは、重要な教義が荘厳に宣言されたり、異端が排斥されたり、教会を導く星のようなものだと思ってきました。

 第Ⅱヴァチカンに関しては、この記事を見る限り、きわめて人間的、作為的ですね。ごり押しというか・・。

 「啓示の源泉に関して」という最初の教義的概要(原案)は、問題のない内容だったのですね。

 それを、「聖伝」についての考え方がエキュメニズムに配慮して受け入れられないと、峻烈な論争をする。そして、公会議議長団が、原案の概要を修正するか否か、投票によって教父たちに問うことにする。・・ここまでは、ありえることかなあ、と。

 概要(原案)の修正には3分の2の得票が必要であるのに(ヨハネ23世が決めた規定?)、62パーセントでしかなかった。

 普通なら、ここで修正動議は、拒否されるわけですね。

 ここからの教皇様の行動が、納得できないです。

 ヨハネ23世は、2名の枢機卿の嘆願に屈服し、自分自身で作った規定に反して、「司牧的でエキュメニカルな路線」に合わせて概要を修正するように決定した。

 燦然と輝く星のイメージであった「公会議」が、地に落ちていく過程を見るようです。

 (神父様、3つ目の段落、ル枢機卿・・)
返信する
コメントをありがとうございました。 (Fr Thomas Onoda)
2008-07-23 16:13:56
アヴェ・マリア!

 こんにちは!
 コメントをありがとうございます。

 その通りです。原案の草稿を修正するためには3分の2以上の得票が必要であるのに(ヨハネ23世が決めた規定です)、それには足りませんでした。62パーセントでしかなかった。普通なら、ここで修正動議は、拒否されるわけです。

 考えても見て下さい。改憲賛成と反対派とが大騒ぎをしている。日本国憲法改正について国民の信任を得るといって国民投票をして、改正するのに必要な3分の2以上を取ることが出来なかった。日本国大騒ぎでも、これで改憲は出来ないはずです。でも、やっちゃった!! と想像してみて下さい。

 ところで、三段目のルフェーブル枢機卿というのは、ルフェーブル大司教(マルセル・ルフェーブル)のおじさんで、ブールジュの大司教でした。

http://www.catholic-hierarchy.org/bishop/blefej.html

15 Apr 1892 Born Tourcoing
17 Dec 1921 29.7 Ordained Priest Priest of Poitiers, France
27 Jul 1938 46.3 Appointed Bishop of Troyes, France
11 Oct 1938 46.5 Ordained Bishop Bishop of Troyes, France
17 Jun 1943 51.2 Appointed Archbishop of Bourges, France
28 Mar 1960 68.0 Elevated to Cardinal
28 Mar 1960 68.0 Appointed Cardinal-Priest of S. Giovanni Battista dei Fiorentini
10 Oct 1969 77.5 Retired Archbishop of Bourges, France
2 Apr 1973 81.0 Died Archbishop Emeritus of Bourges, France

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
返信する
ルフェーブル枢機卿・・ (1)
2008-07-23 23:03:58
 小野田神父様、お教えいただきありがとうございました。

 お兄様かな?と思ったのですが・・、やはり大司教様のことだろうと、読み替えて読んでいました。

 あまり年齢差のない(13歳)おじさまが、枢機卿様だったのですか・・・。ご姉妹も何人か修道会に入られたのでしたね。すばらしい一族ですね。

 18世紀、19世紀に、さらに、別人の「ルフェーブル司教」もおられたのですね。 

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。