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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.12.信教の自由

2008年09月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

信教の自由

 最後の準備会議の時にオッタヴィアーニ枢機卿とベア枢機卿との間に起きた最初の衝突は、公会議始終、こだまのように絶えず繰り返されて現われた。 『信教の自由』に関する文書ほど、チェトゥスから来る強い圧力を受けて、多くの修正案が必要だったものはなかったが、チェトゥスは最善を尽くしてこの闘いに身を投じたのだった

 第一総会では、教会と国家の関係に関するオッタヴィアーニ枢機卿の概要は「ヨーロッパ連盟」の策略によって、他の文書と同じく廃棄された

 1963年、第二総会ではベアの概要だけが生き残った。これは、手入れされてエキュメニズムに関する概要の中で第五章となっていた。それはブルージュの司教であるド・シュメット(De Smedt) 司教によって提出されたが、少なくない反対にぶつかった。そして、その内容は、教父たちの中で加速的な変化によって熟する時間を持たせるために、と言われて、表決には付されなかった、しかしながら、その加速的な変化とは、自然に形成される長年の伝統の遺産とまったく違うものであった。

 第三総会では、文書が 1963年と 1964年の総会休会中に提出された 380種の修正案を統合した独立した「宣言文」になった。

 この問題に関する論争は簡潔だった。1964年 9月 23日から 25日まで二つの対立する論題の支持者たちが公会議の議場で衝突した。つまり、ブラウン枢機卿、ルッフィーニ枢機卿、キロガ・イ・パラシオス枢機卿 (Quiroga y Palacios、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)教区) 、ブエノ・イ・モンレアル枢機卿 (Bueno y Monreal、セビリア司教) たちは、自由主義の擁護者らつまり、リッター枢機卿 (Ritter、セントルイス教区、ミズーリ州)、カッシング枢機卿 (Cushing、ボストン教区)、メイヤー枢機卿 (Meyer、シカゴ教区)、シルバ・エンリケス枢機卿 (Silva Henriquez、チリのサンチャゴ教区) 及びケーニッヒ枢機卿 (König、ウィーン教区)らと熾烈な論戦をした。

 ドミニコ会の総長であるフェルナンデス (Aniceto Fernandez O.P.) 神父は、文書が非超自然主義に汚染しているのでまったく書き直さなければならないと主張した。ミラノの大神学校の神学部学長であると同時にパウロ六世の個人的神学者であるモンシニョール・カルロ・コロンボ (Carlo Colombo) は概要がもっと良くカトリック教理を基礎として書かれなければならないと言った。キリスト教一致のための事務局は文書をもう一度また書き直すことを約束した。

 キリスト教一致のための事務局がその作業をしているとき、10月 9日金曜日、ベア枢機卿がフェリチ大司教から受けた二通の手紙を悲しい声で事務局に読んで聞かせた。

 二通の内一通は「上層部の命令によって」ベア枢機卿に、信教の自由に関する宣言文を根本的に見直しすることを要求していた。この見直しは、事務局と神学委員会とからなる混合委員会によってなされ、教皇はすでにその内の四名の委員を任命していた。すなわち、モンシニョール・カルロ・コロンボ、フェルナンデス神父、ブラウン枢機卿及びマルセル・ルフェーブル大司教が指定されていた。

 この最後の名前が言及されると、ローマには大きなパニックがおこった。十名の枢機卿(その中にベア枢機卿もいた)が 10月 10日にフリンクス枢機卿の部屋 -- refugium peccatorum 罪人の拠り所 -- に集まって、教皇に手紙を書いた。信教の自由に関する宣言が「四人の委員が既に指定されており、なかでもその三人がこの問題において公会議の方針と対立するように見える、そのような或る混合委員会の元で審議される」のを見て、自分たちの「苦悩」と「深い心配」と「極めて大きな不安」を表明するためであった。

 「公会議の方針」という全能の名前のもとでなされた告発の後で、威嚇があった。十名の署名者は、このような審査は「公会議の規則を破るもの」であり「一般世論の前に極めて大きな悪影響」を及ぼす、とした。

 聖霊司祭修道会総長である恐るべき大司教を排除しようとするために、ルフェーブル大司教は四人の中で一人だけどんな公会議委員会の委員ではなかったことに目を付けて、策謀を狙う枢機卿たちはもし教皇が敢えてこの混合委員会を維持するのなら、この委員会は「公会議委員会の委員たちで構成しなければならない」と考えた。良き使徒達はパウロ六世に公会議規則の中の第58条、第二節を優しく指し示した。【Antoine. Wenger, "Vatican II - chronique de la IVe session", Paris, le Centurion, 1966, p137; Ralph Wiltgen, Le Rhin se jette dans le Tibre, 4ed, Editions du Cedre, Paris, 1982, p171; ベア枢機卿はこの手紙に署名することを控えた。最終的には十七名の枢機卿が署名した。すなわち、フリンクス、ドプフナー、ケーニヒ、リッター、メイアー、アルフリンク、レジェ、ジョセフ・ルフェーブル、シルヴァ、リエナール、スーネンス、レルカロ、などである。】

 他方で、ルフェーブル大司教はそのことについて質問を受けると、穏やかなほほ笑みをたたえて自分は「なにも知らされていません」と答えた。

 パウロ六世は屈服し、10月 27日に開会した混合委員会は、遂にルフェーブル大司教をその委員に含ませなかった。

 ルフェーブル大司教は後でこう言った。「私一人だけが排除されました。公会議の間、その論題に関する私の発言と私がチェトゥスの会員であった点が彼らを恐れさせたのです。」


 ただ一度だけ開かれた委員会の集まりの間に、宣言文は承認された。審査を受けるために神学委員会に送付された。ついに、11月 9日に 問題無し(nihil obstat)が付けられた。

 11月19日木曜日の投票のために 11月 17日火曜日に、新しい草案 (textus emendatus) が教父たちに出された。

 そこでチェトゥスは介入し、自由主義者陣営はこれを「暗黒の一週間」と呼んだ

 チェトゥスは修正された文書が以前の概要(textus prior)をただ改訂ばかりしたのではなく、分量も二倍に増え、議論としての新しい論点を持つ新しい文書だと指摘した。チェトゥスは、この新しい修正された文書には、人間の尊厳性と人権、良心が自らを表現する必要性、宗教が外的で公的な行為を執行する必要性、対話を通じて真理を自由に探求する必要性、そして最後に、国家の権限が現世的秩序に限定されること、が入っていた。

 そこで 11月 18日チェトゥスは公会議議長団に公会議規則の中で第30条 §2に依拠して、そのようなに短い時間に文書を充分に検討するのは不可能だという嘆願書を提出した。彼らは投票の延期を求めた。

 議長であるティスラン枢機卿は、フェリチ大司教がこの要求を公会議に問うことと、それに関して予備投票に付すことに同意した。この投票が彼らの時間稼ぎ作戦のためには反対にならないか心配して、チェトゥスの書簡に署名した百名の内の一人であるカルリ司教は、公会議の執行裁判長であるロベルティ(Roberti) 枢機卿に抗訴した。この抗訴は成功し、教皇の承認を得た。11月 19日、ティスラン枢機卿「今総会の間には投票に至ることはない」と発表しなければならなかった


 公会議の自由主義陣営は激怒した。ヴィルトゲンが次のように説明したとおりだった。「このパニックの瞬間ほど、公会議会場でこれほど多くのきつく荒々しく怒りに満ちた言葉が横行したことは、一度もありませんでした。」

 チェトゥスは進歩主義者たちの機械が動かないようにさせてしまったのだった。

 1964年と 1965年の総会休会中は、チェトゥス側では教義の集中準備に明け暮れていた。1964年 12月 18日、チェトゥスは、信教の自由に関する概要のために 15ページの修正案を住所録に上がっている教父たちに送った。12月 30日、ルフェーブル大司教は概要に関する 7ページの意見書をモーリシャス島 (Mauritius) から公会議事務局に送った。

 更に 1965年 6月には、チェトゥスは概要の四番目バージョン(textus reemendatus)に加えられる 24ページの新しい修正案をまた送った。チェトゥスは、信教の正しい自由を決めるのに必要な法律上の規範において、真の宗教と誤れた宗教という区別を省略しているという理由で、その四番目バージョンを批判した。チェトゥスは、また信教の外的実践の制限を、共通善に置くよりは、公共秩序のためだけに必要としたことを嘆いた。【共通善とは、自然道徳を遵守すること、カトリック諸国に置いては、真の宗教を保護することが含まれる。】

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

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