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アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:聖司祭のアルス任命最初のころの日常生活

2008年09月15日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

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最初のころの日常生活

 ヴイアンネー師は、天主と他人との愛とともに、いわゆる、征服的精神をもっていた。これは、フランス魂のあらわれであって、いにしえの好戦的ガリア人の遺産でもあろう。フランス人は愛も憎悪もはげしいのだ。宗教に対しても、フランス人は微温的態度をとることができない。この革命の恐怖時代はいうまでもない。今日でも、無神論者は極端にキリスト教を憎悪するが、これに反して熱心なキリスト教徒はもえるような献身犠牲の精神をもっている。アルスの聖司祭は実にその見本であった(チェスタートン)。他人であったならば、仕事がなくて困りもするだろうと思えるような、片田舎の農村の受け持ち司祭となったのだが、彼は決して、じっとしていなかった。赴任して来るやいなや、彼にはもうたくさんの用事があった。

 東の空がまだしらまない夜のうちに、毎朝、墓地を通りぬけて、聖堂に行く人の姿が見えた。(聖堂の周囲は墓地になっていた)

 ある時はありあけの月が、彼の影を、黒く地上に印した。ある時は、ほのぐらい手さげランプの光が、彼の行く手を導いた。雨が降っても、風が吹いても、しののめに先だって、ヴィアンネー師の姿が、聖堂の内部にあらわれなかったことはない。キリストの兵士はその取り次ぎの場に急ぐのだ。彼はまっすぐに、祭壇の前に進んで行って床にひれ伏した。そして、そこで、主のみ前におのが心情をひれきした。

「わが天主よ、わがすべてよ、私がどれほど主を愛しまつるか、主はご存じであります。けれども、私はまだ主を十分に愛しておりません。」

「わが天主よ、主は私にすべてをくださいました。けれども、私は主にわずかしか差し上げないのです。どうか、もっと多くをささげる力を与えてください。」

「わが天主よ、すべてのものをおとりください。その代わりに、この村を改心させてください。この村がもし改心しなかったならば、それは私が足りないからです。」

「わが天主よ、私の功徳はなにもありません。けれども、主の御功徳は無限であります。その御功徳によって、どうか、苦しむおめぐみを与えてください。」

「わが天主よ、一生涯でも、百年間でも主の御望みになるだけの苦しみを苦しみましょう。どんな、ひどい苦しみでも、けれども、どうか、彼らを改心させてください。」

 涙は床に流れた。感きわまると、思わず高い声が出て、他人に聞かれたこともまれでなかった。
薄明のころに、彼はミサ聖祭をささげた。その間彼はほとんど常に泣いていた。時として彼は微笑していたこともあった。彼は天使らにとりかこまれて、聖祭をささげていたのだ。

 そこには、彼の天使と、村の天使と、村の人たちの天使らとがみないたのだ。天主の僕の喜びは苦しみで、その昔しみは喜びだ。彼は自分が、はたして喜んでいるのか苦しんでいるのか、弁別することがほとんどできなかった。ミサ聖祭後の感謝の祈りは、いつまでも続いた。そして夕のアンジェルスの鐘が知らぬ間に鳴り渡ることもたび重なった。

 しかしながら、午後になると、たいていの日には、彼は少しいなか道を散歩した。それは、聖務日課祈祷を唱したり、あるいは、心のままに祈るためであった。彼は野に働く農夫にはなるべく声をかけるようにして、それからコンタツを手にして、小川のほとりのくぼみや、潅木の林の中にはいりこんだ。神秘的な彼の心は、静寂と平和とに飢えていたのである。(ああ、しかし、彼のこの楽しみも、長くは続かなかった。なぜならば、まもなく、いつのまにか、彼の周囲には、霊魂の指導を求める人びとがつめかけて来て、彼はせまくるしい、日の目をあおぐことのできぬ告解場の中に、終日暮らさなくてはならなくなるから)かつて幼い日に、シャント・メルルの河畔でそうあったように、美しい自然は、彼の心をただちに天主の御もとにさそった。

 ヴィアンネー師は、祈祷に苦業をあわせた。彼はなかば廃屋であった司祭館内に、召使もなく、たったひとりで住んでいた理由の一つは、彼のはげしい苦業の秘密を保つためであったらしい。
「善業」の価値を認めないプロテスタントには、苦業は愚かな迷信としか見えないであろう。現代人は物質的世界に沈溺する。享楽をのみ追う人々はもちろんのことだが、宗教心をもっていて、祈祷の意義を知っていると称する人びとすら、苦業を理解することはほとんど不可能であろう。しかし、それにもかかわらず苦業は祈祷と並んでカトリック的修徳的伝統のうちに、きわめて重要な地位を占めるのである。

 カトリックにとっては、単に身体を苦しめることが苦業の最後の目的ではない。愛による天主との一致が、心霊生活の目的である。罪と被造物と自己からの離脱は、それに至る準備である。しかして、聖パウロのいわゆる「われ、わがからだを打ちてこれを奴隷たらしむる」ことの実行は、天主の摂理によって送られるすべての困難、辛苦の忍耐とともに、この離脱を完成する方法なのだ。修徳の道は、天主の恩寵による生活である。恩寵なき所に、われらは一歩をもふみ出しえない。「われをはなれては、なんじら何事をもなすあたわず」と救い主はのたもうた。けれども、われらはいのちなき木石ではない。われらは、恩寵に反応しなくてはならない。福音書にしるしていう「イエズス、ヨハネの事を、群衆に語りいでたまいけるは、なんじら何を見んとて荒野にいでしぞ、風に動かさるる葺か。さらば何を見んとていでしぞ、柔らかきものを着たる人か、見よ、柔らかきものを着たる人々は帝王の家にあり。・・・洗者ヨハネの日より今に至りて、天国は暴力におそわれ、暴力の者、これをうばう」と。肉体を有するわれらが、肉体より生ずるもろもろの誘惑を克服する最上の方法は苦業である。

 苦業はまた、われらのあがないのために、自ら進んでおのれを天父にささげたもうた主にならうことである。天主はもし欲したまわば、全然無償に人類の罪をおゆるしになることも、不可能でなかったに相違ない。しかし、天主は広大無辺なる御知恵をもって、キリストの鮮血を犠牲として要求したもうた。信者はキリストとともに一体である。それゆえ、われらはパウロの言えるがごとく「キリストの御苦しみのかけたるところを、御からだなる教会のために、わが肉体において補う」ことができるのである。

 彼がそれまで司祭館にそなえてあったよい寝台を、アルスの城の女主人に返却したことは前に書いた。それで、彼はエキュリーから持って来たバレー師の古寝台に寝ていたが、ある日、ふとんを貧乏人にやってしまった。まくらもまもなく、なくなってしまった。彼は二階を寝室にしていたが、それから階下におりて、台所のすみでまきをまくらにして寝ることにした。しかし、その部屋は、非常に湿気が強かったので、そのうちに、はげしい顔面神経痛を起こしてしまった。(彼は、それから、始終これで苦しんだ)よんどころなく彼は寝室をかえたけれども、新しい寝室は、納屋の二階だった。彼は床の上に横たわってむな木を枕にすることにした。

 しかも、彼は寝る前に、他の苦業をした。この奇妙な寝室にはいって、とびらをとざすや、彼はスータンをぬいで、古がねや鉛の片をむすびつけた数条のむちでもって、彼の「屍体」・・・彼の「古いアダム」(彼は自分の身体をそう呼んだ)をはげしく打った。ビボストおばさんが帰ってしまってから、隣家のルナール後家さんが、時々、師のへやを掃除したが、そのたびごとに、彼の寝室で青い小さなかぎや、鎖の数片や、鉛の玉などを拾ったそうである。彼のはだ着の左の肩は破れてしまって、血に染まっていた。

 彼は時々気を失って壁によりかかったらしい。カーテンでかくしてある壁の一部に、今も血痕が残っている。三つ大きな黒い汚点は、彼の肩のあとである。そこから、床まですじをひいて、血が流れている。小さな血痕は、指や手のひらのあとで、彼が壁を力によろめきながら立ち上がったそのしるしである。

 師は聖書の中で、悪魔を追うには祈りと断食とが必要であることを読んだ。彼は主の御ことばを文字どおりにとって、食事を減らした。もちろん、彼といえども、全然食せずにおることは、不可能だ。朝、彼は堅くなった古い一切れのパンを食した。どうかすると、もう一切れぐらい食した。昼と晩には、ひえたじゃがいもを一つ二つ(彼が一週間分だけ一度に煮ておくために使った鍋は、今でもアルス旧司祭館に保存してあるから、どの巡礼者でも知っている)まれに、三つめを食することもあったが、後はのちに三つめはたのしみのために食べたのだと言った。じゃがいもは、よくかびがはえかかっていた。ビボストおばさんや(その代わりになった)ルナール後家さんは、心配して、別に調理した料理をはこんで来たことがあったけれども、ヴィアンネー師は司祭館の戸をとざしてあけてやらなかった。そして、これよりよけい食べると、胃にさわると弁解した。

 時として、じゃがいもの代わりに、灰の中で焼いた卵を一つ食べたり、その地方で「うえすごし」と農夫らが呼んでいる菓子を一つぐらい食べた。(これは、小麦か黒麦の粉を水でねって、塩で味をつけ、鍋で焼いた偏平な菓子である)

 ヴイアソネー師が、全く孤独でいたアルス村での最初の数年間は、その苦業と断食とが、一番はげしかった時期である。時々、彼は熱情にかられて、二日も三日も、食事せずにいたこともあった。ある年(一八一八年)の聖週間には、たった二回しか、物を食べなかった。

 また、このような話もある。司祭館の前の庭が荒れるままになっていたので、ルナール後家さんがある日、草を食わせに牛を連れて来た。すると、どうだろう、ヴィアンネー師がすかんぽを摘んでいた。

「神父様、あなたは草を召し上がるのですか!?」驚いて、ルナール後家さんはきいた。

 師は見つけられて困ったような顔つきをして、「ああ、ルナールさんか、私はこいつばかりですましてみようと思ったのだが、どうも、そういかないのでね。」と返事したそうである。

 彼も、のちに当時のことを回顧して、それは「若気のあやまち」で、青年時代には、乱暴なことをするものだと言ったが、しかし、同時に、彼は、このようなはげしい苦業ができた昔がなつかしくてたまらなかった。

「友よ、悪魔は鞭やその他の道具には平気だが、飲食と睡眠との節制にはかなわないのだ。(と、彼はある若い司祭にもらした)これほど悪魔がこわがるもの、すなわち、天主の喜びたもうものはない。わたしはそれを経験した。わたしは八、九年間ほど、ひとりでいたが、その時分には、わたしは勝手にすることができたので二日三日も食べないでいることがあった。そうして、わたしは自分のためにも、他人のためにも、望むがままの御恵みを天主から得た。・・・ 今は、もう、そうではない。私はもうそんなに長く食べずにいられない。・・・私がひとりだった時は、幸福だった。私は乞食に施しのパンを買ってやった。私はたいてい夜中聖堂で祈っていた。その時分には、私は今ほど大勢の人の告白を聞かなくてもよかった。・・・そして、天主は、私に非常な御意みをくださった。」

 これが、彼の最初の日常生活であった。それは毎日の戦闘だ。きょうの戦闘に勝たなければならない。しかし、明日はまた新しい戦闘が始まる。彼は人類を誘惑にきた人類の敵(恵魔)と戦わなければならない。この敵は、最後の審判の日まで人類を誘惑することをやめないからである。そして、また、彼の日々の勝利は、一介のいなかの貧司祭を英雄と化する天主のたえざる御助けの生きたしるしであったのである。

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