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帰正のエキュメニズム vs 新しい第二バチカン公会議のエキュメニズム

2008年02月16日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

帰正のエキュメニズム vs 新しい第二バチカン公会議のエキュメニズム


【参考資料】
愛する兄弟姉妹の皆様、
 第二バチカン公会議のエキュメニズムが、聖伝の教えと断絶していることを示す資料を提供したいと思います。

カスパール枢機卿(Walter Kasper)
「...今日、私たちはエキュメニズムを、他の人々が『回心してカトリックに戻る』という意味での帰還とはもはや理解しない。【注:こう言って「教会の外には救いはない」という決定された教義を拒否した】 このことは第二バチカン公会議ではっきりと放棄された。」
Adisti, Feb. 26. 2001.English translation quoted from "Where Have They Hidden the Body?" by Christopher Ferrara, The Remnant, June 30, 2001.

 ウォルター・カスパー(Walter Kasper)枢機卿の最近の声明を取り上げてみましょう。彼はハンス・キュンク(Hans Kung)の元秘書でした。教会中にその近代主義的見解が有名であるカスパーは2001年2月に教皇ヨハネ・パウロ二世によって枢機卿とされました。そして現在キリスト教一致促進のためのヴァチカン教皇庁協議会の長官の地位を享受しています。カスパーはこう言いました。
「...今日わたしたちはもはやエキュメニズムを、それによって他の人々が『回心させられ』『カトリック信徒』であることへ戻るというそういう帰還の意味においては理解していません。これは第二ヴァチカン公会議で明確に放棄されたことです。」

Cardinal Kasper, Pope John Paul II’s (and Pope Benedict XVI’s) Prefect of the Vatican’s Pontifical Council for Promoting Christian Unity, said in February, 2001: “... today we no longer understand ecumenism in the sense of a return, by which the others would ‘be converted’ and ‘return to being Catholics’. This was expressly abandoned at Vatican II.

【注:「放棄された」ということは、第二バチカン公会議以前はそれを信じて行っていた、と言うことを意味する。】


第20回ワールド・ユース・デイの際のケルンへの使徒的旅行
エキュメニカルな会合で、ベネディクト十六世の訓話
ケルンの大司教の家にて、2005年8月19日


愛する兄弟姉妹の皆様、
 大変な一日を過ごした後で座ったままお話しするのをお許し下さい。だからといって、「使徒座から ex cathedra」(不可謬権を行使して)話をするつもりではありません。
 また、遅れてしまってお許し下さい。残念なことに、予想したよりも晩課が長くかかり、想像した以上に交通渋滞で車がゆっくしとしか進みませんでした。...

 この一致はいわゆる「(カトリックへの)帰正のエキュメニズム」と呼ばれうるものを意味しません。「帰正のエキュメニズム」とは、自己の信仰の歴史を否定し拒否することです。絶対にそうではありません!
 この一致は、神学と霊性の全ての表現において、典礼の形式と規律において、同一であると言うことを意味しません。多様性における一致、一致における多様性です、昨6月29日の聖ペトロとパウロの祝日の私の説教において、私は、全くの一致と、言葉のもともとの意味におけるカトリック(普遍)性とが共にはたらくと強調しました。この共存を達成するために必要な条件として、一致への努力が常に浄化され更新されなければなりません。これは常に成長し成熟しなければなりません。この目的のために、対話がその貢献をなしています。単なる考えの交流、学術的訓練以上に、これは贈り物の交換であり、これにおいて諸教会と諸共同体は自分の豊かさを提供することが出来るのです。...


APOSTOLIC JOURNEY TO COLOGNE
ON THE OCCASION OF THE XX WORLD YOUTH DAY
ECUMENICAL MEETING
ADDRESS OF HIS HOLINESS POPE BENEDICT XVI
Cologne - Archbishop’s House
Friday, 19 August 2005


Dear Brothers and Sisters,

Permit me to remain seated after such a strenuous day. This does not mean I wish to speak "ex cathedra". Also, excuse me for being late. Unfortunately, Vespers took longer than foreseen and the traffic was slower moving than could be imagined.

I would like now to express the joy I feel on the occasion of my Visit to Germany, in being able to meet you and offer a warm greeting to you, the Representatives of the other Churches and Ecclesial Communities. ... (...)

.. this unity does not mean what could be called ecumenism of the return: that is, to deny and to reject one's own faith history. Absolutely not!

It does not mean uniformity in all expressions of theology and spirituality, in liturgical forms and in discipline. Unity in multiplicity, and multiplicity in unity: in my Homily for the Solemnity of Sts Peter and Paul on 29 June last, I insisted that full unity and true catholicity in the original sense of the word go together. As a necessary condition for the achievement of this coexistence, the commitment to unity must be constantly purified and renewed; it must constantly grow and mature.

To this end, dialogue has its own contribution to make. More than an exchange of thoughts, an academic exercise, it is an exchange of gifts (cf. Ut Unum Sint, n. 28), in which the Churches and the Ecclesial Communities can make available their own riches (cf. Lumen Gentium, nn. 8, 15; Unitatis Redintegratio, nn. 3, 14ff.; Ut Unum Sint, nn. 10-14). ...

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
カスパー枢機卿の解任を願う (侍者2)
2008-02-16 07:30:26
今更ながら、ヨハネ・パウロ2世教皇がドイツからカスパーとレーマンを枢機卿にしたのは、本当に残念なことです。

シュミットバーガー神父によると、これにはドイツ司教団から相当の圧力と言いますか、脅しがあったそうです。ちなみに、ラッツィンガー枢機卿(当時)も反対していたそうです。

http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila015.html

ついでながら、カスパー枢機卿が聖公会からカトリックへの集団帰正に反対していることも押さえておきましょう。こんな人物がキリスト教一致委員会の長なのです。

http://www.d-b.ne.jp/mikami/fp555.htm
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「教会」・「共同体」・「教会共同体」・・・ (1)
2008-02-16 16:31:43
 エキュメニズム関係の教会文書に、
the Churches や、the Ecclesial Communities の言葉が出てきますが、この記事では、「諸教会」「諸共同体」と訳されています。

 the Churches と、the Ecclesial Communities の区別はあるのですか?いわゆる、プロテスタント諸教派は、the Churches に含まれますか?

 中央協議会のエキュメニズム関係の文書で「教会共同体」や「キリスト教共同体」や「諸教会共同体」と訳されているのは、the Ecclesial Communities のことですか?具体的にどのようなグループを指すのですか?


 エキュメニズムとは別ですが・・・、
 近頃の小教区の教会で、さかんに言われる「共同体の一致」や「○○教会共同体」「○○共同体」の「共同体」とは、人の集まりという意味ととらえていいのでしょうか?

 ここで使われる「共同体」の言葉を聞くたびに、しっくりこないものを感じます。なぜ、「教会」と言わず、「教会共同体」と言うのでしょう?「聖なる公教会」は、信仰対象ですね?神の教会に信仰を求め、信仰は永遠の命を与える・・・。

 「○○教会共同体四旬節の祈り」なるものが貼り出されて、「共同体」の文字が余分だと感じたのですが、そう感じる私の方がおかしいのか、わからなくなってしまいました。

 雑感です。
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「教会」・「共同体」・「教会共同体」・・・続き (1)
2008-02-16 19:02:41
 上記コメント、「中央協議会のエキュメニズム関係の文書」とは、

教皇庁教理省が発表した文書『教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答(2007年6月29日)』の「解説」の翻訳です。
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the separated Churches and Communities (Fr Thomas Onoda)
2008-02-26 12:53:56
アヴェ・マリア!

 第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」の3には、英訳で次のような文言があります。

The brethren divided from us also use many liturgical actions of the Christian religion. These most certainly can truly engender a life of grace in ways that vary according to the condition of each Church or Community. These liturgical actions must be regarded as capable of giving access to the community of salvation.

It follows that the separated Churches and Communities as such, though we believe them to be deficient in some respects, have been by no means deprived of significance and importance in the mystery of salvation. For the Spirit of Christ has not refrained from using them as means of salvation which derive their efficacy from the very fullness of grace and truth entrusted to the Church.


 これを日本のカトリック教会では公式に公約しています。

「キリスト教の聖なる行事も、われわれから分かれた兄弟のもとで少なからず行なわれている。それらはそれぞれの教会や教団の異なった状態による種々のしかたで、疑いもなく恩恵の生命を実際に生み出すことができ、救いの交わりへの戸を開くにふさわしいものと言うべきものである。

 われわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。」

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Christ's Spirit uses these Churches and ecclesial communities as means of salvation (Fr Thomas Onoda)
2008-02-26 13:01:09
アヴェ・マリア!

新しい『カトリック教会のカテキズム』にも、Churches and ecclesial communities という表現が出てきます。

Catechism of the Catholic Church

819 "Furthermore, many elements of sanctification and of truth" are found outside the visible confines of the Catholic Church: "the written Word of God; the life of grace; faith, hope, and charity, with the other interior gifts of the Holy Spirit, as well as visible elements." Christ's Spirit uses these Churches and ecclesial communities as means of salvation, whose power derives from the fullness of grace and truth that Christ has entrusted to the Catholic Church

 日本語の公式訳は、印刷された『カトリック教会のカテキズム』の819番をご覧下さい。

Christ's Spirit uses these Churches and ecclesial communities as means of salvation, whose power derives from the fullness of grace and truth that Christ has entrusted to the Catholic Church
(キリストの霊は、これらの諸教会(Churches)と諸教団(Ecclesial communities)を救いの手段として使う。その救いの力は、キリストがカトリック教会に委ねた聖寵と真理との充満に由来する。)は、「エキュメニズムに関する教令」を引用しています。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
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Churches and ecclesial communities (Fr Thomas Onoda)
2008-02-26 13:11:01
アヴェ・マリア!

 「ドミヌス・イエズス」にも、同じような表現があります。和田神父様は、諸教会、諸教団、と訳しています。

例えば、

「17.したがって、存在するのはキリストの唯一の教会であり、これはペトロの後継者とこれと交わりのある司教たちによって統治されているカトリック教会の中に存する 。カトリック教会と完全な交わりの中にあるのではないが、使徒継承と有効な聖体祭義という最も緊密な絆によってこれと結ばれている諸教会も真の個別教会である 。それゆえ、これらの諸教会の中にもキリストの教会が現存し、活動している。神の意志によりローマの司教が客観的に有し、全教会に行使する首位権について のカトリックの教理を受諾しないということで、カトリック教会との充満する交わりに欠けるところがあったとしても、そうである。
 それに対して、有効な司教職と聖体秘義の本来的かつ十全的な本質を保持していない教団は 、固有な意味で教会ではない。しかしながら、これらの教会の中で洗礼を受けた者は洗礼によってキリストに組み込まれており、それゆえ教会とは不完全であるが、ある交わりの中にいる 。実際に洗礼はそれ自体、十全的な信仰告白と聖体秘義と教会における充満的な交わりによる、キリストにおける命の完成への指向性をもつものなのである 。」
http://mikio.wada.catholic.ne.jp/DJESUS-P.html

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
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諸教会(Churches)と諸教団(Ecclesial communities)・・・etc. (1)
2008-02-27 04:20:22
小野田神父様

 たくさんの用例を挙げてくださって、ありがとうございます。

 ①諸教会(Churches)と②諸教団(Ecclesial communities)・・・

 聖公会やルーテル派は Ecclesial communities、
東方教会が Churches に含まれるということでしょうか?

 『あがないの秘跡』(2007.8.中央協議会翻訳)の邦訳では、Ecclesial communities を、「教会的共同体」と置き換えているようです。意味するところは、プロテスタント諸教団なのですね?

 最近の文書では「共同体」の単語が、やたら目につきます。

 また、日常的に、「小教区○○教会の人間の集まり」のことを、「○○教会共同体」「○○共同体」という言葉で置き換える指導者が多いです。特に、進歩的な方がよく使われ、それと同じように責任ある立場の信徒の方が使われるのです。そして、定着していくのでしょう。

 community:人の集まり という概念自体には、何の問題もなくても、教会が人間の集まりであることを強調するために、「共同体」という言葉が乱用されているような気がしています。

 一人一人のキリスト者が正しい信仰を育てて、秘蹟や祈りを通して「絶対者」としっかり結びつくように指導すれば、信仰に基づく温かい人間関係など自然に育つでしょうに、「委員会で決めたとおりにする」や「信徒会長をとおして共同体を一致させる」とか、これが伝統あるカトリック教会の信仰者の言葉なのか、と思うこともしばしばです。
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共同体 (名無し)
2008-02-27 10:31:38
善意に解釈すれば、

「教会」というと建物のことだと誤解する人がいるので

「共同体」と言っているのかもしれません。

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