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聖書にはいかなる間違いも誤りもないことinerrantia Sacrae Scripturae

2008年09月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖書には、いかなる間違いも誤りもないこと(de absoluta inerrantia Sacrae Scripturae)をカトリック教会は常に教えています。

 例えば、教皇クレメンテ六世は、1351年、アルメニアのカトリックに正統信仰の一つとして「ローマ教会の権威が私たちに伝えた新約聖書と旧約聖書が、その全ての書において、疑うことの出来ない全ての真理を含んでいることを信じた、そして信じているか」を尋ねました。

1065 570 14., si credidisti et credis, Novum et Vetus Testamentum in omnibus libris, quos Romanae Ecclesiae nobis tradidit auctoritas, veritatem indubiam per omnia continere...

1065
14. Si tu as cru et crois que le Nouveau et l'Ancien Testament, dans tous les livres que nous a transmis l'autorité de l'Eglise romaine, contiennent en tout la vérité indubitable..

 例えば、教皇レオ十三世は、 回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス(Providentissimus Deus)』(1893年11月18日)で次のように言っています。回勅より引用します(和田 幹男神父様の訳を参考にしました)。


「聖書霊感を聖書のある一部に限って認めたり、聖書記者が誤っていたことを容認するのは、まったくできないことです。また諸問題を解決しようとして、聖書霊感を信仰と倫理の事柄のほか何ものにも関わるものでものではないと疑いもなく認め、聖書本文の真の意味が問題となるとき、神が何を言われたかということより、なぜそう言われたかを考えるべきだと間違った判断をするような考えかたは、是認することができません。なぜなら教会が聖なるもの、正典書として受容しているすべての書は、全体としてそのすべての部分も含めて、聖霊が書き取らせて書にされたものだからです。この天主の霊感には何の誤りも入り込むことができないので、それはそれ自体あらゆる誤りとは無縁であるだけでなく、必然的に誤りと無縁であり、誤りを排除します。それは最高の真理である天主が必然的にいかなる誤りの主人公でもありえないからにほかなりません(tantum vero abest ut divinae inspirationi error ullus subesse possit, ut ea per se ipsa, non modo errorem excludat omnem, sed tam necessario excludat et respuat, quam necessarium est, Deum, summam veritatem, nullius omnino erroris auctorem esse)。

 これは古来常に守ってきた教会の信仰であり、それはフィレンツェ公会議とトリエント公会議において荘厳に決議され、最後に(第1)ヴァティカン公会議において確認され、より明瞭に宣言された考えでもあります。それは決定的にこう断言されています。「旧約新約両聖書のすべての書はそのすべての部分も含めて、同(トリント)公会議の決議において数えあげられ、ラテン語訳ウルガタ聖書の古い出版に載せられているとおり、聖なる書、正典書として承諾されなければならない。教会がこれらの書を聖なる書、正典書としているのは、これらの書が人間の努力のみによって書かれ、後にその教会の権威によって承認されたからでもなく、また啓示を誤りなく含むからでもなく、聖霊の霊感によって書きとめられ、天主を著者としてもっているからである」。

 それゆえ、もちろん第一の著者からではないが、霊感を受けた著者からでも何らかの虚偽が聖書に入り込むことができるという具合に聖霊が書かせるために道具として人間を用いられたということは、まったく考えられません。なぜなら、天主は御自分が命ずることをすべて、またそのことだけを聖書記者が正しく把握し、忠実に書くことを望み、不可謬の真理性をもって適切に表現するように、超自然的な力をもって書くよう引き起こし、動かし、また書いている間には付き添われたからです。そうでなければ、聖霊は聖書全体の著者とは言えないでしょう。・・・

 その結果言えるのは、聖書の権威ある本文に何か虚偽が含まれ得ると考える者は、まさに天主の霊感についてのカトリックの考えを歪めるか、天主御自身を誤りの責任者とすることになるのです。

 すべての教父と教会博士も、聖書記者たちによって著された聖書各書がいかなる誤りとも無縁であることを深く確信していました。それゆえそこには少なからず何か矛盾すること、ないしぎくしゃくすることが書かれているように思われるところがありますが、(それがほぼ現在新しい学問研究の名のもとに問題とされているところですが)、彼らはこれを難しくというより敬虔に両立させ、調和させようと努めたのでした。彼らは心を一つにして、その聖書の各書がすべて、そのすべての部分も含めて同じ天主の息吹きを受けており、天主御自身が聖なる著者たちをとおして語り、真理を外れるものは何も書かせることができなかったと明らかに述べています。」

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