アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、
ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。
そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『
農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!
悪魔と戦う
地獄の存在、および、地獄の中で永遠の刑罰をうけている悪魔の存在は、キリスト教のドグマの一つである。悪魔は実在する。悪魔は人間の恐怖心の空想の産物でもなければ、抽象的な存在でもない。彼はアダムとエバとを誘惑した。彼は義人ヨブに、天主のご許可のもとに、種々の試練を送った。彼は神人キリストをも、荒野において、誘惑する大胆な試みをした。同じ主キリストは、善をなしつつ世を過ごしたもう間に、多数の悪魔憑きから悪魔を追い出したもうた。われらの戦いは、単に血肉に対してではなく、吼える獅子のごとく餌を求めて、人間世界をかけ回る、天空の悪霊に対してである。
もちろん、普通の場合において、悪魔が直接にその能力を表わすことはないが、特別の場合にそれが表われることがある。キリスト教の影響の全然及ばない地方、すなわち、悪魔にほかならぬ邪神礼拝の深く浸みこんでいる国々には、時として、醜悪なるそのあらわれを見ることができる。奇怪にして、背徳的な霊媒術が現代に流行する事実も、新異教主義が現代にはびこっている結果にほかならない。また、これに反して、地上の一角で、悪魔の勢威が特におびやかされる時、彼は全力をつくして、これと抗争するために、姿を現わすことがある。救い主の時代に、パレスティナに多くの悪魔憑きがいたのは、おそらく、この理由によるのだろう。アルスの聖司祭がおよそ三五年の長い間にわたって(一八二四年~一八五八年)悪魔に苦しめられたのも、サタンが普通の手段では甲斐なしと見てとって、最後の猛攻撃・・・やぶれかぶれの突撃に出たのであろう。
神秘神学者は、意魔のこのような攻撃を次のように分析する。
①「脅威」悪魔がある人を恐怖させる目的で、騒音を発したり、器物を動かしたり、それをよそに持ち運んだり、ひっくりかえしたり、こわしたりすること。これは彼の直接攻撃の第一歩で、次にのべるように、ヴィアンネー師に対してなされたのは、主としてこの種類の攻撃であった。
②「外面的攻撃」悪魔がある人を打ったり、つき飛ばしたりして危害を加えること。時として、師もこの種の攻撃をうけたらしい。
③「内面的攻撃」悪魔は主として想像力に働きかけて、攻撃の対象となった霊魂に、憎しみや、絶望などの悪魔的感情を起こさせる。聖人伝ちゅうには、この種の攻撃をうけた人も少なからず発見するが、ヴィアンネー師は、これも、また、次の攻撃をも受けなかったようだ。
④狭義の「悪魔の憑依」悪魔はその人に乗り移ったようになって、手足、身体、舌などを思うままに動かし、冒漬の言葉を吐かしめ、汚聖の行為をさせる。福音書中に出てくる悪魔憑きが、すなわち、これである。一時的な事もあれば、長期間で数年以上にわたることもある。しかしどんな場合にも、悪魔が、その人の意志を直接に左右する事はできない。すなわち、万一、聖人がかかる攻撃をうけて、きわめてあさましく、悲惨なる状態のうちにある時といえども、彼は一点の意志の尖端をもって、天主に属しつづけているのである。
ヴィアンネー師に対する悪魔の最初の攻撃は、師が前にのべた無料女子小学校を開いた最初の頃、すなわち、一八二四年から翌年にかけての冬の間に始まった。直前に、師は過度の大斎と苦業とのために、かなり重い病気にかかっていた。彼は失望に近い恐れとともに、もはや死期が迫ったと考えた。そして数度にわたって、「さあ、もうすぐ地獄におちねばならないぞ!」と告げる何者かの声を聞いたかのように感じたという。しかしながら、師はじきに気をとり直して、天主の御あわれみを祈り、心の平和を回復した。
悪魔は、師に恐怖を与え、睡眠と休息とを奪って疲労困燈せしめ、祈祷と苦業と司牧との事業に対して嫌悪をいだかせ、その職をなげうたせようとした。
はじめのうちは、ヴィアンネー師が、床について眠ろうとすると、寝台のカーテンがびりびりとさかれるような音がした。師は鼠のいたずらだと思って、まくらもとに鉄叉をおいて、鼠を追い払おうとしたが、いくらカーテンをゆすぶっても、その音はますます激しくなるばかりだった。そして、翌朝調べると、そこには歯のあと一つ残っていなかった。
師は迷信的な人ではなかった。その証拠にはのちに、悪魔つきの人たちが、師の所に連れてこられた時にも、彼はきわめて慎重な態度をとっている。ある時、一司祭が、司祭の姿か十字架を見さえすれば、すぐあばれ出す人の話をヴィアンネー師にして、その意見を尋ねたことがある。師はこれに、「それは神経が一部、狂気が一部、グラペン(Grappin)が一部だろう」と答えたそうだ。グラペン (le grappin) とは、師が悪魔につけたあだなだった。
次にしるすヴィアンネー師の身の上に起こった種々の出来事は、ちょっと幻覚か錯覚で説明ができそうだが、そう簡単には片づかない。というのは、幻覚とか錯覚とかいうものは、一種の病的症状だから、特に異常な神経を有する人や、精神病患者にあらわれるのだが、ところが師はきわめて沈着冷静で、確実な判断力を有し、また、多忙なる職務を着々と遂行して、少しもあやまることがなかったではないか。師を変質者、もしくは精神病者と考えることは、どうしてもできない。(師が嘘をつくような人でないのはいうまでもないが、それが何者かの悪戯だったとしても、三五年間の長い間、露見しなかったとは、とうてい考えられない)
やがて、悪魔の騒ぎはいっそう激しくなった。戸を乱打する音、司祭館の前庭に叫ぶ無気味な声。ことによると箱に入れて穀倉の中にしまってあるデ・ガレ子爵が寄進した貴重品を盗もうとする盗賊ではなかろうか?と考えついた師は、ひとりの屈強な若者をたのんで司祭館に泊らせた。
この男は実弾を装填した銃をたずさえてやって来た。すると真夜中に何者かが戸をゆるがせ、次にこれを乱打し、同時に数両の車が通った時のような響きがおこるかと思うと、地震のように司祭館が動揺した。若者は、はねおきて銃をとって、窓をあけたけれども戸外にはひとりの影も見えなかった。のちに師は「摂理の家」で、その時のことを笑いながら話した。
「かわいそうに、あの男は鉄砲を持ったままふるえていたっけ。きっと鉄砲を持っていたことを忘れてしまったのだろう」
この男は二度と司祭館に泊ることを承知しなかった。それで師は、村長の息子とその友だちとに夜番を依頼した。この二人は一二日間ほど泊りこんだ。けれども、二人にはなんの物音も聞こえなかった。
細心の師は、この騒ぎの本性について、半信半疑の態でいた。けれども、ある雪の夜、戸口に酷い音がしたので戸をあけて、雪の上に、だれの足跡もないのを見て、はじめてそれが悪魔の仕業であることを確かめ、したがって銃はなんの役にもたたないことを悟って、依頼した番人を返した。彼は悪魔と戦うべく、ひとりで司祭館にとどまったのである。
ヴイアンネー師の名声はようやく四方に聞こえて、無数の人が、中には遠くから泊りがけで、師の告解場に集まるようになった。師はただでも短い睡眠時間をさらに節して、彼らの告白をきいた。師の休息の時間はますます少なくなった。しかし、そのわずかな安眠の時間さえ、悪魔は奪おうとして、熊のように吼えたり、犬のようにうなったり、庭で喧嘩をしたり、議論したり、騎兵の一隊のようなひづめの音をたてたり、おけ屋が金槌で鉄のたがをはめる時のように騒々しくしたり、「うぐいすのように鳴いて」煙突の中を舞い上がったり、テーブルや、ストーブをたたいて騒いだり、無気味な声で歌をうたったり、恐ろしい声で「Vianney, Vianney ...Mangeur de truffes !... Ah tu n'es pas mort encore !... je l'aurai bien ! ヴィアンネー、ジャガイモのヴィアンネー、おまえはまだ死なないか?今におまえをつかまえるぞ!」とおどしたりした。ある時はまた、固い師の寝床が急に柔らかくなって、師の身体は羽布団の中に落ちこむようにその中にうずもった。そして、同時にうす笑いをもらしながら、師を肉欲的に誘惑する声がした。これにはさすがの師も非常に恐れて、十字架の印をしたら、それで終わりになってしまったそうである。
地獄のいたずらによって、ヴィアンネー師は疲労の極に達した。けれども、彼は決して負けてしまわなかった。
なぜならば、このひどい不眠にもかかわらず、彼は真夜中一時の鐘の音を聞くと、告解場の前で徹夜して、順番を待っている人びとのことを考えて、聖堂に出かけて行ったからである。しかし師の顔色は、蒼白で、死人のようだった。
最初にたのんで、銃を持参した若者にひきかえて、第二回目に依頼された二人の番人が、物音を聞かなかったことはすでにしるしたが、これらの悪魔の攻撃の話は、ほとんど全部、師が自ら物語ったところによるもので、例外的な少数の場合をのぞいては、他の人びとには悪魔のさわぎは聞こえなかった。
八年間、師の助任司祭であったレーモン師も、また六年間、師を助けたトッカニェ師も、なんらの物音をも聞かなかったそうだ。他の人々に聞こえなくて、ヴィアンネー師のみそれに苦しんだのは、もちろん、悪魔の攻撃の対象が師のみであったからである。
次にのべる出来事は、無理に説明をすれば、自然的にも説明がつかないこともあるまいが、ヴィアンネー師も巡礼の群衆も、たしかに悪魔の仕業だと考えたものである。
それは、一八五七年、師の永眠に先だつ二年前の二月二三日か、二四日のことであった。その日は聖体が顕示されていて、師はいつものとおり真夜中から、告白をきいていた。すると、朝七時少し前、通行人が司祭館の師の居間の窓から、火が吹き出しているのを発見した。師はちょうどミサ聖祭をささげるために、告白場を出たところだったが、知らせに来た人たちに、ポケットから居間の鍵を出して渡しながら、「悪魔の馬鹿め、鳥がとれないものだから、籠を焼いたな!」と言った。そして、聖堂を出て庭に来ると、まだ煙が立っている燃え残りの寝台を運び出す人々にあった。師はそのままひと言も言わずに、聖堂にひきかえし、平日のように、静かにミサ聖祭をささげた。
この時、火を消しに、最初に師の居間に飛びこんだのは、のちに師の伝記をあらわしたモネン師であったが、その著書のうちには次のようにしるしてある。
「寝台と天蓋とカーテンと、そのそばにあったものが焼けていた。火は箪笥の上にのせてあった聖女フィロメナの遺物箱のところでとどまって、この一点を通じて、上から下まで幾何学的に一直線に、こちらのものをことごとく焼きつくし、あちらのものをすこしも焼かなかった。そして、火事がなんらの原因もなく始まったように、また、自然に消えていた。かつ、実に不思議で、奇跡的ともいうべきは、火がサージの厚いカーテンをつたわって、(低く、古く、乾煉しきっていて)わらのようにすぐ燃え上がるはずの天井にうつらなかったことである」と。
今日でも、アルス村への巡礼は、古ぼけた質素な司祭鮨の中で、聖司祭の種々の遺品とともに、なかばこげているこの寝台を見ることができる。
話はたいへん前後するが、右の事件の三〇年前、一八二七年に、次のような事があった。
ちょうど、付近のサン・トリヴィエという村で、特別伝道が行なわれていた。ヴィアンネー師も、この村の主任司祭の招きに応じて手伝いに来た。すると、最初の晩から、師の寝室から異様の物音が聞こえだした。他の司祭らは師に小言をいった。
「それはグラペンだ。ここでよいことが行なわれているので怒っているのですよ」と、師は答えたが、彼らは信用しなかった。
「あなたは食事もせず、ろくに眠りもしないのだから、頭がどうかしているのでしょう。鼠があなたの脳髄の中であばれ回っているにちがいありませんよ」
ところが、響きがますます激しくなるので、とうとうある晩、同僚の小言は頂点に達した。このたびはヴィアンネー師は口をとじていた。
すると、どうだろう、次の夜、みなの寝静まったころ、突然家が振動して、司祭館が今にもくずれおちんばかりになった。泊り合わせた三人の司祭はもとより、下男まで床からはね起きた。耳を聾するほどの鳴動が、ヴィアンネー師の寝室で起こっている。あわてて、「人賛し!」とどなって、一同、その寝室に飛びこんだ。見ると、ヴィアンネー師の寝台は、目に見えぬ手で部屋のまん中までおし出されて、師はその中に静かに横たわっていた。
「私をこんな所までおし出して、このさわぎをしたのは、例のグラペンですよ。なにだいじょうぶです。ただ私が皆さんに前もって、時々こんなことがあるのを、申し上げておかなかったのは、すみませんでした・・・しかし、これはよいしるしなので、あすはよい魚がとれますよ」
師は微笑しながら、こんなことを言ったが、他の司祭たちはそれでもなお、師が寝ぼけて騒いだうえに、何か幻覚を有しているのだと考えた。
はたして翌日の夕方、長く宗教の務めを怠っていた一紳士が、師のもとに告解の秘跡を受けに来た。それから付近の村の司祭たちも、師が悪魔の攻撃をうけているということを、信用するようになった。
そして、この時に、師が自ら言ったように、悪魔の攻撃の激しかった直接には、必ずよい魚がとれた。すなわち、大罪人が師のもとに来て改心するのであった。
また師のもとには、大勢の悪魔憑きが連れてこられた。次には、ただその中の二、三を語ろう。
ある時、ひとりの女が遠方から夫にともなわれて来た。彼女は激怒して、訳のわからぬ叫び声を発していた。ヴィアンネー師はこの婦人をしらべてから、婦人の属する教区の司教のもとに連れて行きなさいと言った。(カトリック教会では、惑魔つきについては、慎重に研究する。事実を認定して祓魔の祈祷を唱える許可を与えるのは司教である。ヴィアンネー師は、自分の属するベレーの司教から必要と認めた際に、悪魔を祓う許可をうけていた)婦人は急にものを言い始めた。
「よしよし、それなら私は帰ろう。・・・ああ、しかし、もし私がイエズス・キリストほどの力をもっていたなら、おまえたちをみんな地獄におしこめてやるんだが・・・」
ヴィアンネー師は答えた。
「おや、おまえはイエズス・キリストを知っているのか?それなら、この女を大祭壇の前に連れて行きなさい」
四人がかりで、無理に女を祭壇のもとにつれて来た。ヴィアンネー師は、はだ身はなさず持っていた遺物入れ(銀製で、救い主のご受難の聖遺物と、二、三の聖人の遺物とが、その中におさめられていた)を、悪魔つきの頭上にのせた。女は死んだように静かになった。けれども、少したつと女は身を起こして、急いで教会から出て行った。一時間ほどのちに、女は全くあたりまえの状態で聖堂にはいり、聖水をとって十字架の印をして、祈祷を始めた。彼女は完全にいやされたのである。
一八五七年、一二月二七日の晩、ひとりの司祭とひとりの修道女が、ひとりの若い女教員を連れてアルスに来た。アヴィニョンの司教が、自らこれをしらべて、悪魔憑きだと、断定し、ヴィアンネー師のもとにつれてこさせたのだった。
翌朝、師が祭器室で、ミサ聖祭のための祭服をまとおうとしているところに、一同ははいって来た。女教員はすぐ逃げ出そうとして、「ここには人が多すぎる」と叫んだ。
「人が多すぎる?それならば(人々に)皆さん、どうか出てください」と師は言った。師は悪魔つきの女と、ただ二人きりになった。師と女とは問答をしているようであったが、最初のうちは、その意味を理解することができなかった。そのうちに、急に一段声が高くなった。そして、戸のすぐかたわらにいた司祭は、次のようなことばを漏れ聞いた。
「おまえは、それならば、どうしても出たいというのか?」これはヴィアンネー師の声であった。
「うん」
「なぜ?」
「私の前に、私の大きらいな人がいるから」
「おまえは私が嫌いなのか?」と師の皮肉な声が聞こえた。
「そうさね!」とつんざくような叫びが響き渡ったかと思うと、戸が開かれて、完全な常態に復した女教員がうれし涙にむせびながら、静かに、つつましく出て来たのであった。
一八四〇年、一月二三日の午後、ヴィアンネー師の告解場で次のような驚くべき事件が起こった。
あるひとりの女が、師の告解場にはいって師の前にひざまずいた。女にはなんの異常な点も見いだせなかった。そして、告解場の周囲には、十人ほどの婦人が自分の順番を待っていた。彼女たちは、その内部からもれる声高の話をことごとく聞いたのである。
女は罪の告白をしに来たのである。けれども、女はなんとも言わないので、師は「告白をお始めなさい」とくり返して、彼女に注意した。突然、鋭い高い声がした。
「私はたった一つしか罪を犯さなかった。私はそいつをだれでもほしい人にわけてやるんだ。・・・手をあげて、私の罪をゆるせ!おまえはたびたび、私に向かって手をあげるではないか?私はよく告解場の中でおまえのそばにいるではないか?」
「おまえはだれだ?」ヴィアンネー師はラテン語でたずねた。
「かしらの先生」(悪魔のかしらの一つの意味)と悪魔は答えた。
それから、またフランス語になって、「この黒がらすめ、なんと私を苦しめる奴だろう。お前はいつも、どこかに行きたいというではないか、なぜ行かないんだ?黒がらすの中にも、おまえほど私を苦しめないやつはたくさんいるぞ」
「私はおまえを追い出すために、司教様に手紙を書いてやろう」
「いいとも、けれども、私はおまえが字が書けないほど、手をふるわしてやるぜ・・・今におまえをつかまえるぞ。おまえよりも強いやつを負かしたことはたびたびあるんだ。それに、おまえはまだ死なないでいる。この(聖母を指してきたないことばを言って)がそこからおまえを守っていなければ、おまえをつかまえるのはわけはないんだ。が、あいつがおまえを守ってるし、おまけにおまえの教会の門には(竜=聖ミカエルのこと)がいる。・・・やい、なぜ、おまえはそんなに早く起きるんだ?おまえは紫の衣服(司教のこと)の命令にそむいているではないか?また、なぜそんなやさしい説教をするんだ?おまえはまるで無学者のようではないか?なぜ、おまえは町のやつらのようにえらそうに説教しないんだ?」
それから、悪魔は順番にほうぼうの司教や、司祭の悪口を言って、さらに最後にヴィアンネー師をののしりだしたけれども、師に対する悪口は、師に対する賞賛にほかならないことになってしまった。
ヴィアンネー師は老いるにしたがい、悪魔の攻撃はまれになり、また、そのほこ先が鈍くなった。聖司祭を失望させることができずに、悪魔のほうが匙をなげたのである。悪魔は戦いをいどまなくなった。いな、天主が、かくも美しく、かくも純潔なる霊魂の晩年が、深い平和のうちに閉じられることを欲したもうたのである。
一八五五年から、その死にいたるまで、悪魔が夜間師をなやますことはなくなった。けれども、その代わりに激しい咳が出るようになったので、師はやっぱり眠ることができなかった。
「一日に一時間でも、三〇分でも、眠れさえすれば、私は仕事をやってゆける」
師は昼食ののちに午睡をして、必要な休息をとろうとしたが、これとても十分にはできなかった。けれども師は、告解場の中における超人的な仕事を少しもやすまなかった。
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