tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

明日へのチケット (2004)

2007-07-26 20:05:20 | cinema

オーストリアのザルツブルブからミラノ、ローマへと走る国際特急列車インターシティ号にのった人々の3枚のチケットにまつわる3つの物語。いつか同じ旅をしてみようと、ネットでヨーロッパ鉄道の時刻表を調べてみたが、直通便をなかなか見つけることができなかった。ヴィラハ乗り継ぎで終点のローマまで約12時間かかる道のり。夜の9時にザルツブルクを出発すれば、翌朝9時にローマに到着するようだ。
この映画で出てくる列車(インターシティ)は、座席に1等と2等の区別がある。JRのグリーン車と普通席といった違いだ。1等席のある車両は、列車の中に細い廊下と6人座れる部屋(3人ずつの向かい合わせ)がいくつかある。部屋の入り口にどこの席がどこからどこまで誰が座るかという座席指定の札がある。この映画でも出てくるが、特にイタリアを走る列車では、席を予約しても自分の席に他人が座っている場合も多いので、切符を見せて移動してもらうことが度々ある。日本の鉄道とは異なる部分も多く、例えば、チケットは、乗車する前に検札機に差し込んで日付を刻印する。これはヨーロッパ各国共通。そして改札はない。客車のドアはボタンを押して開ける。車内の検札は必ず車掌が回ってくる。車内で切符を買うとか乗り越しの精算は割高になり、無賃乗車を疑われると40ユーロもの高額な罰金を払うことになる。罰金が払えなければ、警察に突き出されることに。

最初の物語は、初老教授の淡い初恋と、出張先の企業の女性秘書への恋情を幻想的に描いたものだ。女性秘書のヴァレリア・ブルーニ・テデスキの輝くような笑顔は、我々観客の目をも釘付けにする。どんなに年老いても、異性を恋する気持ちはなくならない。交通機関のトラブルで予定変更を余儀なくされるとついついイライラしてしまうのが普通だが、彼女の笑顔にふれた教授はやさしい気持ちであふれてくる。彼女への礼状をしたため、ノートパソコンを立ち上げると文章を書いては消し、書いては消し・・・・・・。
そして、だれもが注目する中、揺れる車内をミルクの入ったグラスをアルバニアの難民のために運んで行く。その教授の姿に、ぼくらは胸がいっぱいになってしまう。満ち足りた人のやさしい気持ちに、人間って捨てたモンではないよなと思わず嬉しくなってしまうのだ。恋は誰をもを優しくする魔法なのかもしれない。

2番目の物語は、ちょっと突き放したようなストーリー。超横暴な将軍未亡人と、その世話をすることになった青年の話だ。
予約を持たずに列車の予約席に座る人々は結構いる。これがイタリアンスタイル。しかし、その未亡人の徹底した傲慢な態度はあまりにも強烈だった。置いてあった他人の携帯電話を勝手に使うのもイタリアンスタイルだ。もっとも、単純な勘違いで携帯を盗んだとオバサンを責める男も悪い。傲慢オバサンに罵倒されこき使われてきた青年は初々しい同郷の少女と出会い、その語らいの中で自分を見つめ直す。あの横暴な未亡人が、途中下車して一人ホームに残るシーンは印象的だ。彼女はどうやってローマにいくのだろうか。彼女のこれからの人生には何が待ち受けているのだろうか。明らかに、なにかか変わりそうな印象を残して、列車は駅を後にする。

最後は、セルティックサポーターたちの若さ溢れるハツラツとしたストーリーだ。バカンス旅行中の彼らが、突然、社会問題とぶつかり一気に盛り上がる。大量のサンドイッチを夕食にと、列車に乗り込んできたセルティックサポーターたち。彼らはスーパーの店員仲間だ。好物のチキンサンドイッチを先に食べてしまい、残った野菜サンドイッチを処分しようとマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームを着たアルバニア難民の少年にプレゼントする。実際に、イタリアを旅行すれば、列車の中で隣の席の乗客たちから、いろいろな食べ物を勧められる。
その一つのサンドイッチを家族全員で分け合って食べていた少年の家族に同情し、さらに手元に残ったサンドイッチを自然に分けてあげる彼らの姿に嬉しくなってくる。2等席に乗った彼らは決して裕福ではなく、コツコツと貯めたお金を使っての念願のフットボールの観戦旅行なのだ。しかし、世の中には、後には引けずに人生を掛けてローマに向かうアルバニアの難民の人々の世界があるという現実に突き当たる。
彼らは、そうした現実に直面して、いろいろ考えることにより、彼らなりに成長を遂げていくのだ。
旅行中に、チケットを盗まれて無賃乗車で罰金を課せられたり、警察に突き出されるというのは真にピンチだ。しかし、強硬な態度で盗まれたチケットの回収にかかった若者の一人が、最後に見せてくれた彼の勇気には感動を覚える。そしてフットボールは世界を結ぶ。セルティックサポーターの若者たちもまた、大勢のASローマのサポートたちに助けられて、まさにはちきれんばかりの笑顔で窮地を脱出する。ローマでも、いろいろな人生の出逢いが待っている。さあ、若者達よ、荷物をバッグにつめてドアから一歩踏み出そう。輝く明日が待っている。


カポーティ

2007-07-25 20:23:34 | cinema

「アディオス・アミーゴ」と死刑囚は、さよならを告げる。その時、カポーティは自分が彼らよりも恐ろしい罪を犯したことに気づいたのだろうか。トルーマン・ガルシア・カポーティ(Truman Garcia Capote, 1924年9月30日 - 1984年8月25日)は、アメリカの小説家だ。17歳で『ニューヨーカー』誌のスタッフになり、23歳で「遠い声、遠い部屋」を発表し、若き天才作家として注目を浴びた。1作ごとに華やかな話題をふりまき、1958年には『ティファニーで朝食を』を発表。 公私の両面で話題を振りまいた作家だ。しかし、彼は、この死刑囚のことを書いた「冷血」を発表後、精神的に不安定となり小説がほとんど書けなくなってしまった。

「クラッター家はその尻拭いをする運命にあった」
カンザス州西部のホルカムで起きた一家四人惨殺事件。犯人の男は後に事件のことをそう語った。犯人は被害者の家族の手足をロープで縛って、至近距離から散弾銃で頭を打ち抜いていた。犯人は刑務所から出所したばかりの男二人。クラッター家に金庫があると思っていた2人は強盗目的で家に侵入し犯行に及んだ。しかし結局金庫は見当たらず、たった数十ドルぽっちの現金を強奪するため、犯人の男の一人ペリーは散弾銃の引き金を引く。トルーマン・カポーティの「冷血」はこの事件のノンフィクションノベル。つまり、実際にあった事件を題材に、何年にも及ぶ取材を重ねてその事実をもとに書かれたものだ。

被害者のクラッター家は、一家四人で幸せに暮らしていた。カンザスの田舎町に住んでいるとはいえ、金銭的にも恵まれていて、犯人のペリーとはまったく異なる境遇だ。ぺリーはまともに学校にいけず、父親にも母親にも恵まれず、兄は自殺、姉は墜死。彼は常に愛情に飢えていた。カポティの生い立ちもまた、子供の頃に両親が離婚して、アメリカ南部の遠縁の家を転々として過ごしており、そんなことからカポティはペリーに類似点を感じたのかもしれない。
カポーティは犯人に、とりわけペリーに共感し、共鳴し、事件後に捕まったペリーの独房を幾度となく訪れ、心を通わせて友人になる。しかし、当然のことながらペリーが死刑にならなければ自分の小説は完成しないという事態に陥ってしまう。

<僕が君を理解できなければ、世の中は君をいつまでも怪物とみなすだろう。僕はそれを望まない>
<たとえて言えば、彼と僕は一緒に育ったが、ある日、彼は家の裏口から出ていき、僕は表玄関から出た>

精神科医は、ペリーの中で眠っていたものが何かをきっかけに疼きだし、殺人を無意識に行ったとした。
ペリーがクラッター家に足を踏み入れたときに、自分とはまったく違う世界、つまり暖かな家庭を感じたことだろう。彼が殺害したときには、被害者の娘に布団を被せたり、枕をあてがうなど人間的な優しさを見せている。もう一人の男が娘に乱暴すると言い出したときも彼はそれを強く止めた。ぺリーが見せたこうした矛盾する行動に、カポーティは引付けられた。無残な殺害の状況の中で、ペリーが見せた人間味を感じさせるいくつかの行動に、カポーティは誰しもが持つ慈愛の心を感じたのだ。

理由なき犯行。一時的な心身喪失であったと我々は考え、自分たちが作り上げた価値基準外に置く。あるいは、犯罪心理の底にあるものを解明できないと不安におびえる。そして、インターネットの凶悪なサイトとか、スプラッタ映画に影響されたとかのわかったような結論を下す。犯罪者たちと我々はきっと紙一重なのだ。カポティは、人間の心の奥に潜むダークサイドにも気づいたのかもしれない。


山でアイドルたちを捕獲しよう

2007-07-24 20:09:00 | プチ放浪 山道編

今年も、昆虫採集の季節がやってきた。昆虫の世界のアイドルは、なんといってもカブトムシ、クワガタであろう。筆者の知る芸能界に例えるのなら、女優の藤澤恵麻ちゃん、あるいは、戸田恵梨香ちゃん(だったけ?)並みの人気を誇っていると言える。来週から、山でアイドルたちを捕獲しようと昆虫網を準備している良い子たちも多いと思う。でも、滅多に見つけることができないが、タマムシという背中に虹の様な赤と緑の縦じまが入る、けばけばしいねーちゃんも捨てがたい魅力があると思うのだが、いかがであろうか?

さて、昆虫のアイドルたち。ネットの世界では、もっと毛色の違ったアイドルたちがいる。虫のなかでもポピュラーな虫たちをぐぐった結果をまとめてみた。このリストには、ゴキブリやカメムシ、蟻といった不快害虫は除いてある。なぜならネットのページには殺虫を目的としたページもあり、そうしたページに記載されている害虫たちの数が非常に多いからだ。

カブトムシ の検索結果 約 2,450,000 件中 1 - 10 件目 (0.04 秒)
クワガタ の検索結果 約 1,970,000 件中 1 - 10 件目 (0.04 秒)
タマムシ の検索結果 約 130,000 件中 1 - 10 件目 (0.18 秒)
トンボ 虫 の検索結果 約 706,000 件中 1 - 10 件目 (0.14 秒)
ちょうちょ の検索結果 約 512,000 件中 1 - 10 件目 (0.24 秒)
コオロギ の検索結果 約 480,000 件中 1 - 10 件目 (0.13 秒)
キリギリス の検索結果 約 463,000 件中 1 - 10 件目 (0.12 秒)
スズムシ の検索結果 約 124,000 件中 1 - 10 件目 (0.33 秒)
トノサマバッタ の検索結果 約 74,100 件中 1 - 10 件目 (0.13 秒)
トゲトゲ 虫 の検索結果 約 62,700 件中 1 - 10 件目 (0.08 秒)
マツムシ の検索結果 約 29,400 件中 1 - 10 件目 (0.05 秒)
ウマオイ の検索結果 約 19,200 件中 1 - 10 件目 (0.22 秒)

このリストの中で、聞きなれない虫がいるとお思いであろう。この虫が本日の主役、隠れたアイドルと呼ばれるトゲトゲという虫だ。この虫の名前にまつわる伝説を紹介しよう。

もともと、ハムシというカメムシみたいな小さな虫がいいた。
ハムシといっても、蚊柱を形成して集団で飛び回る小型の昆虫(羽虫)のことではなく、コウチュウ目の葉虫のことだ。

それにトゲが付いている物がトゲハムシ、あるいはトゲトゲと呼ばれた。この虫がさっき紹介した虫だ。

ところが、そのトゲトゲの仲間なのに、たまたまトゲが無い種類がいた。これは「トゲナシトゲトゲ」と名付けられた。

ところが、その「トゲナシトゲトゲ」の仲間なのに、たまたまトゲが有る種類がいた。それを「トゲアリトゲナシトゲトゲ」と名付けられた。

さて、整理しよう。「トゲアリトゲナシトゲトゲ」にはトゲがある。そして、「トゲナシトゲトゲ」にはトゲがない。読んで字の如し。このトゲアリトゲナシトゲトゲの分布は日本の本州と九州だったりする。
そして、その食性はススキの葉なので、もしかすると良い子たちも目にした事があるかも知れない。ただ、何も知らない人が見たらトゲだらけの虫と言う事で終わりそうなので注意してほしい。
このように、トゲがあるなしで新種がころころ見つかり、トゲハムシの名前は飛躍的な発展を遂げたのだ。そして、この名前の経緯ゆえに、平凡なトゲだらけの虫が、一躍、ネット中に知れ渡り昆虫アイドルの1人として注目を浴びることになったのだ。
しかし、考えても見れば、かわいそうな気もする。本人達はなんの自覚もなく、平凡な人生を送るつもりだったが、学者と言う名の人間にヘンな名前を付けられたばっかりに、注目を集める事となってしまったのだ。虫取り小僧に追っかけまわされる彼らの気持ちを考えると、かわいそうでならない。もっとも、名前自体が自己矛盾を起こしている虫にはシロメアカメショウジョウバエもいて、これまたアカメなのかシロメなのか判断しかねる存在であるが、ハエという種類がたたってあまり人気はなさそうである。

だが、世の中には更にネットワーカーの注目を集める生物アイドルたちが存在する。超有名どころではスベスベマンジュウガニがいる。この名前は強烈だ。さらに、オジサン、ハイレグアデガエルといったちょっとエッチな魚やカエルもいたりする。将来のアイドルを予想させる名前としてメクラチビゴミムシも注目度大だ。生れ落ちたその瞬間から、メクラとかチビと差別されているという点で近い将来ブレークするかもしれない。また、すでに人気が爆発して、名前自体を変えられてしまった魚もいる。つい、この春先まで、伊豆のダイバーに超人気を呼んでいたイザリウオは、差別した名前でかわいそうということから2007年2月1日に「カエルアンコウ」に改名された。本人からすれば、名前の最初にカエルを付けられたことに不満を持っているかもしれないのだが。
また、偽者の人生を背負わされて生きていかなければならないということで注目される生物もいる。ニセハムシダマシとかマサニカミキリモドキというややこしい名前の昆虫たちだ。もちろん、動物図鑑の見れば、ニセモクズガニ、ニセクワガタカミキリ、ニセフジナマコ、ニセイガグリウミウシなどの名前を簡単に見つけることができ、背負わされた偽者の運命を考え合わせ、彼らは注目を集めているところである。さらに、この地球上にはフクロモモンガ、フクロモモンガダマシ、フクロモモンガモドキという3兄弟がいる事を付け加えておく。彼らもまた、ネットの世界では、結構、名前の売れたアイドルたちだ。


タイプ・ミス

2007-07-23 22:31:24 | 日記

あちこちのブログを覗いて回っていて、そのページにイージーなタイプ・ミス(tiping mistakes)があったなら、あなたはどうするだろうか?恐らく、「放っておく」という大人の対応をする人が多いのではないだろうか。
どんなに心が豊かな人でも、間違いを指摘されるとムッとする。私でさえ、文章書きを目指していながらも、言葉の使い方をうっかり間違えて(例えば雰囲気を不陰気などに)、それをご丁寧に指摘されるとやはり心穏やかではいられない。
この温和で通っている私でさえ、間違いを指摘されるとデスノートに「うぜえんだよ」と名前を書き込むぐらいだから、相手の気を悪くしないようにさりげなく指摘するのは非常に困難なことなのだろう。
しかしながら、そのタイプミスが、あまりにもおいしいボケで、どうしても突っ込みを入れたい気持ちを抑えることができない場合も世の中にはある。
つい最近も、意識してか無意識かその詳細はわからないものの、カクテルのレシピを紹介するブログのページがあり、シンガポール・スリング(Singapore Sling)をシンガポール・スリリング(Singapore thrilling)と書き間違えているのに遭遇した。
このシンガポール・スリング(Singapore Sling)。フランス生まれのイギリス人小説家でロシア革命阻止のため諜報部員にもなったウィリアム・サマーセット・モーム(William Somerset Maugham)が世界を回り、シンガポールでこよなく愛し「東洋の神秘」とまで評したカクテルだ。1915年にシンガポールで誕生したこのカクテルは、村上龍の小説でも有名なラッフルズホテルにある「ロングバー」で、今も当時の味そのままに楽しむことが出来る。
パイナップルジュースにジンやチェリーブランデーがベースとなっていて、複雑な甘みがありトロピカルドリンクのような味がする。一方、日本のカクテルバーで出てくるシンガポール・スリングは、グラスの底にチェリーブランデーが沈んでいるタイプが多いようだ。
ちなみに シンガポールとは、マライ語で「獅子の街」という意味。第二次大戦では日本軍が占領して昭南島という名になったこともある。現在は繁栄する独立国である。そして、スリングとは、”飲み込む、かむ”という意味のドイツ語シュリンゲン(Schlingen)から変化した言葉と言われている。
このシンガポール・スリング(Singapore Sling)。日本語では(リ)が一個多いだけで、急にサスペンス的な要素が漂ってくる。
英語で言うところの、舌さきを噛んで発音するthrillingになってしまうのだ。例えば、
「マスター、バーボンをロックで。それから彼女にシンガポール・スリリングを」
などと注文するカップルは、その後、彼らがどんなスリリングな展開になるのだろうとワクワクしてしまう。もし、あなたがスリル(thrill)を求めたいのなら、いつでも連れてってあげよう。秋葉原のカフェ限定だが。いや、すべての費用がそっち持ちなら、シンガポールのラッフルズホテルでもかまわないのだが。
さて、この「ロングバー」。町中清潔な印象があるシンガポールで、しかも格式あるホテルのバーにも関わらず、ピーナッツの殻を床に捨てる気軽さが魅力の一つだ。床の上はピーナッツの殻で埋まっていて、その上を歩くとまるで、包装に使うエアキャップの上を歩いているようで足の裏にプチプチを潰す感覚が広がる。

と、話がだいぶ脱線してしまったが、このスリリングなタイプミス(typing mestakes)を見つけた私は、思わず、”typengが間違ってますよ”とコメントで突っ込みを入れてしまった。指摘を受けた方は非常に温厚な方で、後でそのページを訪れるとtyqing誤りの訂正がされてあり、お礼の言葉が記載されてあった。非常に不陰気の良い方で、私は嬉しくなってしまった。

ということで、lightさん。もしデスノート持ってても私の名前を書かないでね。

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“It(それ)”と呼ばれた子

2007-07-22 22:40:56 | book

この本を最後まで読めそうもないと途中で思った。それほど内容はとても残酷で信じられないほどの虐待方法が書かれている。気になって、ネットで”DAVE PELZER Lies"をキーワードにして調べてみた。どうやら、この作品の大部分はフィクションであり、作者のデイブは本国アメリカにおいて『プロの虐待家』(虐待問題を利用して利益を得る人)として批判を受けているようである。
あまりにもショッキングな内容に、真偽のほどをどうしても確かめずにはいられないが、それでも、小説として非常に読みごたえがあり、逆境に立たされながらも必死に生きようとする少年の姿に感動をするとともに、虐待問題について深く考えさせられる本だ。

幼少のデイブは、暴力的な虐待に加えほとんど食事も取らせてもらえなくなる。唯一自分を助けてくれていた父親も、母親の執拗な攻撃に根負けし、家に帰ってくる回数が減ってくる。家庭での虐待は日を追う毎にエスカレートする。また、食事を与えられていないデイブは空腹を満たすため外でごみをあさったり、盗みをはたらき、そのため学校でもいじめを受ける。
さらに、彼の年少期は絶望的な状況で終わる。両親が離婚してしまうのだ。
「ごめんよ」と小声であやまる父親。「父さんにかばってもらえなくなって残念ねえ」と他人事のように言う母親。
“せめて母さんが情けをかけて、さっさと殺してくれますように”そう願うしかなかった彼の年少期。
その後、見かねた学校や病院が動き出し、母親から親権を剥奪させるところから第2部「青春編」が始まる。彼の里親やソーシャルワーカーたちは様々迷惑をこうむるも、忍耐強く彼を見守り自立を助けてゆく。
「完結編」において、自立を果たした彼はその後に児童虐待を防止するためのシステム作りに活躍し、全米、全世界的な称賛を受けることになる。
「自分を変えられるのは自分だけだ。どんな時も希望を捨てずに今を生きよう」
カリフォルニア州史上最悪の児童虐待を受けた彼の体験の告白は、母親に対してさえ、過去のすべてを許して未来を生き抜くための愛とやさしさに満ちた言葉で終わっている。
人は本当に自分以外の人を許すことができるのかもしれない。許すことで、自身がさらに成長することは確かなことだろう。事実、彼は母親に感謝さえしている。あの虐待が彼に人生を、愛を教えてくれたのだと。人間にはまだ可能性がある。母親を嫌いだというのは簡単だ。誰にでもできる。そうして、児童虐待の家庭をつくっていく。現実の問題として、母親を許すことができる人間は、一体何人いるのだろう。すごい小説だ。