2月24日・27日・29日、3月3日と4日間をかけて、琵琶湖西岸の比叡山山麓を巡った。比叡山延暦寺の石積みの門前町「坂本」と明智光秀と一族の墓がある「西教寺」、明智光秀の居城があった「坂本城址」、志賀の陣とよばれる"織田信長軍VS浅井・朝倉軍の戦いが行われた「宇佐山城址(山城)」そしてその麓にある"かるたの聖地"とされる「近江神宮」などを訪れた。
坂本の町はもう10回くらいは来ているだろうか。母の49日を終えて、白木の箱に母の遺骨をもってここに坂本の西教寺(故郷の村の寺の本山寺院)に泊まったのは、入学まもない小学1年生の春だった。それからもう60年以上がたった。坂本の町はいつ来ても石積みの石垣が美しい町だ。
坂本の町近くの穴太(あのう)地区の石積み(石垣職人)集団・穴太衆(あのうしゅう)がつくったものだ。この穴太衆はもともとは比叡山延暦寺の数々の建物の石垣を造営した職人集団。山中にたくさんの建物を有する延暦寺は、山の斜面に建物を造営する場合も多く、この石積みの技術が発達したのだろう。1570年頃の戦国時代末期から日本の城には石垣が一部造営されるようになると、全国各地から穴太衆は石垣の造営の注文を受けるようになっていった。
京阪電鉄・石山―坂本線の「比叡山坂本駅」の近くに観光案内所があった。最近つくられたようで建物も新しい。「NHK大河ドラマ麒麟がくる」や「びわ湖大津 光秀大博覧会―戦国大津 明智光秀・熙子 二人が見た景色」などのポスターが貼られていた。
坂本はまた水路の町だ。比叡山の山系から流れる水が町の中を水路として流れている。門前にはふたつの老舗そば屋の店舗がある。創業300余年という「鶴喜そば」店、そして「日吉そば」店。60年あまり前にはたしか父・祖父母・弟と私の5人で入った店は「日吉そば店」の方だったような気がする。
坂本の「日吉大社(日吉山王宮)」の大鳥居と参道が山に続く。参道に沿って両側に石畳みと石垣積みが真っ直ぐに山の方に向かう。
町中の路地を巡って散策していると、とてもりっぱな門と石垣が続く寺院があった。「滋賀院門跡」という寺院だ。ここは、比叡山延暦寺のトップである門跡(管主・座主)が住まうところだった。京都市内に多くある"天皇の息子(皇位を継承しなかった親王)"たちが代々門跡となった寺院とよく似た雰囲気だ。延暦寺は、皇室との関係を保ちながら(権威の背景の一つとして)、代々 門跡は皇室の親王がなる場合が多かったようだ。それにしてりっぱな門と 一段と見事な石垣だ。
「明智光秀 麒麟がくる ゆかりの地 大津にようこそ」の幟(のぼり)が町中にぽつぽつと立てられていた。いったいいくつの寺や里坊があるのだろうか。すごい数だ。それはかって比叡山延暦寺の高僧たちの住まいの寺でもあった。その一つ一つにみごとな石積みがあった。
いくつもの寺院や里坊を眺めながら、日吉大大社の朱の鳥居に着く。ここからは境内となる。かなり大規模な大社で、山の中腹にも伽藍の建物がある。
毎年4月12・13・14・15日に日吉大社「山王祭」が執り行われる。日吉大社では「神猿」といって猿があがめられているようだ。関東の日光東照宮は左甚五郎の「見ざる聞かざる言わざる」の彫刻だが、「見ざる聞かざる言わざるよりも 思わざるこそ まさりけり」のが日吉大社の「神猿」。
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