光山鉄道管理局・アーカイブス

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新幹線開業50周年ネタ8「新幹線の思い出ばなし」

2014-10-13 13:46:49 | 趣味の原点をふり返る
 さて、新幹線、それも0系に関する話をメインであるこちらばかりかサブのブログでも特集みたいな扱いで書いてきましたが、ここらで総まとめしようかと思います。
 今回は新幹線自体にかかわる思い出から。

 実を言いますと東北出身の悲しさと言いますか私自身は0系新幹線に乗車したことは一度しかありません。
 昭和53年頃に家族に名古屋へ行く用事があり、それに付き合って乗車した時が最初で最後(尤も一往復ですから実質2回w)だったりします。
 次に乗った時はいきなり300系ののぞみでしたからあまりに変わりすぎですw

 それ以前は私が乗った中では一番早い乗り物でも485系の時速120キロが最速でしたから時速200キロ以上で走行する新幹線の車窓風景は相当に新鮮でした。
 東海道新幹線の特徴と言いますか、都会風景、山中風景、海岸線や工場地帯と言った風景の切り替わりの激しさもこの場合印象的だったのを思い出します。
 意識的に山の中を選んで走っている東北新幹線にはこうした変転の楽しみはほとんどありません(ただ、市街地では高架が無闇に高い事が多いので見晴らしはいいのですが)

 その名古屋の三越で買ってもらったのが当時出たばかりだった「エンドウのEF58」というのも忘れ難い思い出です(新幹線のはなしなのに唐突にEF58汗)
 まあ、あの頃は新幹線が開通どころか、博多まで延伸してからですら5年近く経過していましたから「シンカンセンを珍しがる」なんてのは相当な田舎者しかいなかったはずです(つまり私)
 そんな訳でこのノーズの新幹線で私が馴染みがあったのは99%「東北新幹線の200系」という事になります。思えばこちらも開通から32年経っています。
 こちらについては少なくとも10年以上は帰省の足としての付き合いなので馴染みを通り越して「殆ど空気みたいな存在」だったのですが。

 当時は大晦日の仕事が終わるとその足で電車を乗り継ぎ最終の新幹線で故郷に帰るというのがルーチンでした。
 帰省のときはただでさえ土産やら何やらで荷物の化け物状態だったのにどうかすると途中、秋葉原で買ったビデオデッキ一式を持ち込んだ事すらありますから旅の感動もへったくれもありません。
 「ただの荷物運搬人が間違って指定席に座っている」かの如き状態でした。
 しかも当時国民の半分近くが「紅白歌合戦」かその裏の「大型時代劇」を観ている筈の時間帯に真っ暗な車窓風景に囲まれつつむっつりと座席に収まっている「侘しさと帰省時特有の高揚感」がいっしょくたになった感覚は今ではあまり味わえないものだったと思います。

 当時から「高くてまずくてくつろげない」の三拍子が揃った今は亡き「ビュッフェ」の印象も今となっては鮮烈です。
 その200系も東北新幹線では今は見られなくなりました。

 とにかく客として乗る頻度だけは無闇に多かったですからその立場で新幹線を語る事は出来るのですが前回書いた様に趣味の対象として新幹線をとらえる感覚は私自身は希薄です。
 それはE1、E2、今のE5に至るまであまり変わっていなかったりします。最終近い電車に乗ってばかりで車窓風景をあまり楽しんでいないという要素も大きいのでしょう。
 故郷でずいぶん乗せられたキハ20系とかオハ47とかはあれだけ不便な車両だったのに趣味性を伴う思い出が多いのとは対照的です。

 0系に話を戻しますと
 初期型大窓車ながら0系の車内に再会できたのは数年前に鉄道博物館に先頭車が展示された時になります。
 30年近いブランクがあったにもかかわらず車内に一種の懐かしさを感じたのはやはり最初に乗った時の印象の鮮烈さがあったからでしょう。

 (200系を1両も持っていないので今回の写真はすべて0系で代用しました汗)