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キネマ旬報社主催映画検定2級合格。

大統領の陰謀

2010-03-29 | 映画(た行)

■「大統領の陰謀/All The President's Men」(1976年・アメリカ)

監督=アラン・J・パクラ
主演=ロバート・レッドフォード ダスティン・ホフマン ジェイソン・ロバーツ

 ウォーターゲート事件の内幕を暴いたワシントンポスト記者の活躍を描いた社会派アラン・J・パクラ監督作。教科書的に事件のことは知っていても、単に政治家が絡む事件というだけでなく、ホワイトハウスが首謀者となった事件だけに、その圧力や取材妨害はもちろん、最後に二人の命の危険までささやかれ始め、いかに危険な取材だったのかが伝わってきた。また、ベテランの政治部記者が担当したのでもなく、入社数ヶ月の記者がそれを担当していたということにも驚かされた。ダスティン・ホフマンが演じた記者の、しつこい取材攻勢も今なら問題視されるところかもしれないが、それも取材にかける執念故のことだ。しかし取材された側も誰が漏らしたことなのかを詮索されることになるだろうし、そのギリギリの駆け引きが映画全体の緊張感を高めてくれる。

 助演賞を受賞したジェーソン・ロバーツは編集長役。若い二人の記者を信じて、担当を変えることもなく、アドバイスしたり、二人をかばったりと、厳しいながらも理解ある上司を演じている。クライマックスで二人に話す、「オレたちが守らなきゃいけないものは一つ。合衆国憲法修正第一条だ。取材の自由、国民の自由だ。」という台詞は、彼の信念を強く印象づけて実にかっこいい。

 政治サスペンスとしての面白さはもちろんあるのだが、何よりも全体的な印象はとにかく地味。徹底して淡々と二人の行動を追っていく演出は、まるでドキュメンタリー映画のようだ。感情がほとばしるような場面もなければ、簿記係の女性を問い詰めるスリリングなエピソードを除いて取材される側もほぼ電話で登場するだけ。ミステリー映画のような楽しさはない。そして結末は、記事の原稿を作成するタイプ文字で表現されるという、淡泊さ。エンターテイメント映画の面白さをこの映画に求めると、裏切られることだろう。だがこの事件自体が、大統領が辞任するに至るアメリカにとっては前代未聞の大事件だし、しかも事件から数年しか経過しておらず関係者への配慮があったことは間違いないだろう。それだけに冷静に真実を見極めようとする演出だったのだと僕には思えるのだ。




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「大統領の陰謀」について (風早真希)
2023-05-12 22:46:43
日本の政治状況及びそれを取り巻く、官邸の"記者クラブ"に象徴される、堕落した日本のジャーナリズムを苦々しく思っていて、田中角栄研究で、最高権力者である、時の総理大臣・田中角栄を退陣に追い込んだ、知の巨人と称された立花隆氏も亡くなった今、暗澹たる思いが去来しています。

そんな思いを強くすればする程、何回も観直している映画があります。
それがこのアラン・J・パクラ監督の「大統領の陰謀」です。
ブログで紹介されていますので、この映画に関する感想を述べてみたいと思います。

アラン・J・パクラ監督の「大統領の陰謀」は、ウォーターゲート事件の真相を追及する二人の政治記者を描いた、政治サスペンス映画の映画史に残る傑作ですね。

この「大統領の陰謀」は、現役のニクソン大統領を1974年9月9日の辞任にまで追い込んだ、ウォーターゲート事件をたった二人で摘発したワシントン・ポスト紙のうだつのあがらない、若い無名の記者の活躍を忠実に再現した、ドラマティックでスリリングなドキュメントタッチの映画史に残る傑作だと思います。

1970年代の前半において、「追憶」、「華麗なるギャツビー」で世紀の二枚目俳優として甘い魅力を見せていたロバート・レッドフォードが、この映画のプロデュースに情熱を傾け、映画化に執念を燃やしました。

彼は映画化に執念を燃やした理由として、「この事件が報道されだした頃の一般の新聞記者が、この事件を政治の世界にはざらにあるビジネスだと考えており、真相は決して明らかにならないだろうと確信していた事が、どうにも我慢ならなかった。
----どうして彼ら二人は、他の誰もやっていない事をやったのか?
なぜ華々しい名を持つ有名な政治記者は、それをやらなかったのだろうか?
どうしてこの二人の無名の記者は、国の権力者を失脚させるような事をやれたのか?
それは恐らく世界中の他のどの国でも出来ない事であった。
アメリカほど開放的な社会を誇れる国はない。
私はそれを映画にしてみたかったのだ」とその製作意図を語っており、自分の独立プロダクションにより、この映画化を実現しました。

事件の発端は、1972年6月17日の未明に、首都ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部に5人の男が侵入し、パトロール中の警備員に発見されます。

単なる不法侵入であるかのように見えたこの事件に不審の念を感じたのが、ワシントン・ポスト紙に入社して9カ月になったばかりの新米記者のボブ・ウッドワード(ロバート・レッドフォード)でした。

その日の午後の保釈裁判で、既に手回しよく政府筋らしい顧問弁護士が付けられていた事と、侵入者の一人がCIAのかつての職員である事が判った事から、彼はこの事件の背後には、何か裏があるのではないかと記者としての直観で感じました。

ボブ・ウッドワード記者に協力するのは、入社6年目で記者としてまさに脂の乗り切ったカール・バーンスタイン記者(ダスティン・ホフマン)で、実際に新聞記者であったダスティン・ホフマンの兄が、彼に映画への参加を強力に勧めたという話も残っています。

ワシントン・ポストの編集会議で、政治部長は、ベテランの政治記者に担当させたいと主張しますが、ベン・ブラッドリー編集主幹(ジェィソン・ロバーズ)は、政治家にべったりと密着した政治記者では却ってウヤムヤになってしまう事を懸念し、政治には全くの素人同然の、この一見冴えない二人の記者に担当させる事にしました。

この二人が所属する首都部は、ポスト紙の中でも陽の当たらない部署で、そのため、この二人は、他の部署が軽視する不法侵入事件の取材に意欲的に挑んでいきましたが、それは自分達の社内での立場を変えられるチャンスだと考えたからだと思います。

二人は新聞記者の基本である、"電話と足で実に丹念に粘り強く、事件の関係者への聞き込みと資料の裏付けを取る"べく奔走します。
映画は、ボブ・ウッドワード記者が疑念を抱いた事件にカール・バーンスタイン記者の協力のもと、事件に食い付いていかないと首にもなりかねないところから始まって、次第に事件の核心に近づき、鉱脈を探り当てていく地道な行動を丹念に描いていきます。

その彼らの取材の一つ一つを、ローゼンフェルド首都圏部長(ジャック・ウォーデン)とサイモンズ編集局長(マーティン・バルサム)、ブラッドリー編集主幹とが意地悪なくらい幾重にもチェックしていきます。

その中でブラッドリー編集主幹は、かなり強引な取材を続ける彼らを全面的に支援し、いろんな各方面からの圧力から守り、叱咤激励をして事件の解明へと導いていきます。
このブラッドリー編集主幹を演じるジェーソン・ロバーズの圧倒的な演技が、本当に素晴らしく、この演技で1976年度の各映画賞の助演男優賞を総なめにしたのもわかる気がします。

この取材と編集の綿密な進め方は、実際の新聞社の編集局にも見える大きなセットと併せて、アメリカでの新聞製作の内情を知る上でも非常に興味深く、事件の対象が、司法長官を含む政府の首脳であり、もし間違った場合の事を考えますと、まさに社運を賭けた取材であったと言えます。

映画が描く合理的で地に足のついた地道な真相追及の過程は、正統的なアメリカン・ジャーナリズムの本領を示していて、アメリカという国のある意味での素晴らしさを痛感させてくれます。

それと共にこの映画は、政治がテーマですが、ミステリーの謎解きをするようなワクワクするような面白さに満ちていて、このように硬派の素材をエンターテインメントとして見せてくれるアメリカ映画の素晴らしさを感じるのと共に、昨今の日本映画の脆弱さを感じてなりません。

そして映画の中で、事件の解明の重要な鍵を握る情報提供者の「ディープスロート」ですが、原作では行政府の人間としか表現されず、長年、謎の人物となっていましたが、2005年に当時のFBI副長官であったマーク・フェルトが、自ら名乗り出て、彼である事が明らかになりました。

映画では謎の人物として、顔もはっきりとは見せず、不気味な人間として描いています。
この「ディープスロート」は、二人の記者に対して、具体的な情報は漏らさず、調査の方向性のみを示唆し、事件解明の道筋を与えていきます。

マーク・フェルトが、「ディープスロート」であったという正体が明かされた後、この世紀の政治スキャンダルであったウォーターゲート事件は、ニクソン大統領を辞任に追い込むためのFBIの一種の政治クーデターだったのではないかという見方が生まれました。

ではなぜ、ニクソン大統領を失脚させねばならなかったのかというと、この「ディープスロート」、つまりマーク・フェルトの情報提供の理由は、正式には明かされませんでしたが、"ニクソン大統領が1972年のジョン・エドガー・フーバーFBI長官の死後、彼を次期長官へ指名しなかった"こと等への反発があったのではないかというのが定説になっています。

映画のラストシーンで、得意満面のニクソン大統領を映すTVの場面と、タイプライターを黙々と打ち続ける二人の記者を同じ画面に入れて、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン共著の原作の内容を途中で切り上げながら、ニクソン政権の崩壊のプロセスをタイプライターで綴る淡々とした結末は、アラン・J・パクラ監督の憎らしいほどの演出のうまさが光っています。

尚、この映画の原題である"All the President's Men"というのは、この事件の犯人の正体を示す意味の他に、有名なマザー・グースの詩の中の"オール・ザ・キングズ・メン"をもじった「王様の家来達が右往左往したが、結局それも無駄骨だった」という寓意も含まれているのです。

この映画は「パララックス・ビュー」、「ペリカン文書」等の政治サスペンス映画を得意とするアラン・J・パクラ監督、「明日に向って撃て!」、「マラソンマン」等の名シナリオ・ライターのウィリアム・ゴールドマンが脚色、「ゴッドファーザー」、「アニー・ホール」等のゴードン・ウィリスが撮影、「さらば愛しき女よ」、「ノーマ・レイ」のデヴィッド・シャイアが音楽を担当と、映画ファンであれば泣いて喜ぶほどの一流のスタッフが集結していますね。
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Unknown (tak)
2023-05-13 11:59:17
風早真希さま、コメントありがとうございます😊
社会派アラン・J・パクラの代表作ですね。子供の頃にチラ見して、肩で受話器を挟んで喋るダスティン・ホフマンをなーんかカッコよく思いましたw。
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