何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

弱者の兵法

2011-02-22 22:43:23 | Book Reviews
「弱者の兵法 野村流 必勝の人材育成論・組織論 野村克也・著、アスペクト、2009年8月6日

p.52 取り組み方――真のプロと呼べるか否かは、そこにかかっていると私は思っている。いかにその仕事に全身全霊、全知全能を捧げて取り組むことができるか。それを実践できる人間をプロフェッショナルと呼ぶのである。

p.53 人間は何のために生まれてくるのか――私はやはり、「世のため、人のため」だと思っている。人生と仕事を切り離して考えることはできない。とすれば、人間は仕事を通じて成長し、成長した人間が仕事を通して「世のため、人のため」に報いていく。それが人生であり、すなわちこの世に生を受ける意味なのである。

p.54 「ヒゲや挑発・茶髪はなにより目立ちたいという自己顕示欲の現れであり、野球選手は野球で目立つべきであること、真剣に野球に打ち込んでいる選手はそんなことに気を遣う余裕がない」

p.57 「高校野球がどうしてあんなに人気があるのか考えてみろ」
 やはり一所懸命さなのだ。人間がもっとも美しく見えるとき――それはひたむきに、一所懸命なにかに打ち込んでいるときだと私は思う。その姿に人々は胸を打たれる。感動を覚える。

p.65 「ケガと故障は違う。ケガはデッドボールのような不可抗力で起こるもの。故障は自分の準備が足りないで負うものである」

p.68 「(試合に)出ようと思えば出られるのに、出ないのは、仕事を放棄しているように感じてしまう」

p.75 極端にいえば、いわれたことしかやらない、無理してまで働きたくない。給料のぶんだけ働けばいい、できれば無茶はしたくない・・・・・そんな考えの持ち主が増えたように見えるのだ。それが迫力を失わせてしまったのではないかと――。

p.80 「ファン(FUN)」とは、趣味に代表される文字どおりの楽しみ。対して「エンジョイ(ENJOY)」は「持てる力のすべてを出し切る」という意味が含まれるらしい。全力を尽くしたという充実感があるからこそ、「楽しい」のだ。
 プロ野球選手が仕事である野球に対して「楽しむ」という言葉を使う場合、当然「エンジョイ」の意味でなければいけない。

p.87 「満足は最大の敵」なのである。「満足」が「妥協」を生み、「これで精一杯だ」という「自己限定」につながってしまう。 #RM

p.95 速球派のピッチャーがよく「変化球を投げて打たれたら悔いが残る」という発言をする。が、これも私にいわせれば単なる自己満足である。もしくは打たれたときの言い訳を用意しているとしか思えない。
 いやしくもプロであるならば、気力と体力だけでなく知力まで持てる力のすべてを懸けて相手と対峙しなければならない。

p.108 「組織はリーダーの力量以上には伸びない」――これは組織論の大原則

p.114-5 三原さんは勝つためには手段を選ばず、どんなことでもやったのである。これは勝負師としては絶対に必要な要素ではあると認めるにやぶさかではないが、はたして、それでいいのだろうかと思うのも事実なのである。「手段を選ばず」というのは、卑怯な手を遣うという意味ではなく、目標を達成するために、全知全能を使い、あらゆる努力をするという意味ではないかと私は思うのだ。

p.124 (最近の監督には)すぐに結果を出すことが求められるようになってきている。そういう状況下では、どういうことが起きるか。手っ取り早く結果ばかりを追うようになり、勝つことだけにとらわれることになる。
 本来、監督の仕事とは(選手を)「集める」と「教える」と「鍛える」を並行して行うべきであるのだが、「教える」と「鍛える」が忘れ去られてしまうのである。

p.125 試合における監督の仕事とは、つきつめれば危機管理である。したがってマイナス思考であるべきだと私は思う。実際、名監督と呼ばれた人のなかにプラス思考はいないのではないか。

p.134 なぜいまの監督が知力を軽視するかといえば、それはほとんどの監督が「技術的限界」を知らないまま選手生活を終えているからだと私は考えている。

p.135 技術的な限界にぶつかれば、残るは「知力」を使うしかない。素質に知力をプラスできるかがプロとしてやっていけるかどうかの分かれ目となるのである。 #RM
 ところが、たいていの選手は限界を知る前に、つまり未熟のままで努力するのをやめてしまう。そして、問題を素質の多寡にすりかえてしまう。「おれには才能がないのだ」と・・・・・。

p.139 「克己心なき人間に勝利なし」
 したがって、監督は自分自身に負けてはならない。いい換えれば、「克己心」のない人間に監督は務まらない。

p.141 責任が重大であるからこそ、仕事量が膨大であるからこそ、克己心をつねに忘れないでいられるかが、監督の資格には絶対に欠かせないのだ。

p.147 「人気」先行がダメな理由の第一は、仮に好成績をあげられなかったとき、本来なら批判は監督に向かうべきなのに、それがコーチ陣やフロントに向かうことである。失敗の理由を監督以外のほかの人間に求めることで、問題の本質がすりかわったり、うやむやになったりしてしまうのだ。

p.151-2 財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする
 プロ野球の監督も同様だ。どれだけの人材を育てたかということこそ、その監督が名監督であるかどうかをはかるもっとも明確な基準になると私は考えている。
 人を遺すことは(財産を遺すこと)それ以上に困難で大切なことであり、人を遺せば、財産も業績もついてくる――私はそういう意味を込めたのである。極言すれば、そもそも人間とは人間を遺すために生まれてくるのではないのだろうか。

p.152-3 (世の中の)みんなが財のことを最優先するようになっている。もっといえば、財しか考えなくなっている。だから結果しか見ないし、プロセスを軽視する。おとながそういう考えでは、まともな子どもが育つわけがない。

p.177 「自分の記録よりチームの勝利」「チームが勝つためにヒットを打ち、勝ち星をあげる」
 まずそのように考え、その結果、自分の記録も伸びるというかたちになるべきである。実際、不思議なものでそう考えたほうが結果はいいし、チームからの信望も得られるものなのだ。

p.198 仕事を通じて人間は成長し、人格が形成される。仕事を通して社会の恩恵に報いていく。それが生きることの意義である。
 そう考えれば、おのずと野球に対する取り組み方が変わる。取り組み方が変われば結果も変わるのだ。「人間的成長なくして技術的成長なし」とは、そういう意味なのである。

p.203 指導者が「勝てばいい」「技術指導だけをしていればよい」という誤った考え方をしているから、こういう恥ずべき行為を見逃すのである。その意味でも現代こそ人間教育が指導者には求められるのだ。

p.207 「人間は無視・賞賛・非難の段階で試される」

p.208-9 (無視、賞賛、非難)その段階ごとにそうされる意味を考え、どうすればいいのか自問自答したから、いまの私があると私は思っている。「ほめるだけでは育たない」と私がいうのは、そういう意味なのである。

p.209 ただし、叱ることを指導の基本にしている以上、私は叱り方には細心の注意を払っている。なかでも重要なのは、「結果論」で叱らないことだ。

p.214 指導者は、もしも選手が間違った努力をしているときは、方向性を修正し、正しい努力をするためのヒントを与えてやる必要がある。だから私は「監督とは気づかせ屋である」と常々いっているわけだ。

p.216-7 本人が気づく前に答えを教えられても、たいがいは聞く耳を持たないし残らない。それではほんとうに理解したことにはならないし、そもそも問題の本質がわかっていないのだから、身につくわけがない。失敗したからこそ、うまくいかないからこそ、自分のやり方はおかしいのではないかと気づき、正そうと考えるのだ。
 したがって、その選手が失敗しても何も感じていなかったら、指導者は問題意識を高めるようなアドバイスを与えながら、本人のなかで「間違っているのかもしれない」という疑問が高まるよう仕向けることが大切だ。
 それでも何も感じない選手はそれまでだが、もし「どうしたらいいのでしょう。どこが間違っているのでしょうか」と尋ねてくれば、そのときは絶対に突き放してはいけない。こうした機会こそ、徹底的に教え込むチャンスなのである。
 ただし、それでもなお、この段階で技術的な正解を教えてしまうのは決してプラスにはならないと私は思う。答えを与えられてしまえば、それ以上考えようおしなくなってしまう可能性が高いからだ。自分から創意工夫してこそさらに大きな成長を遂げるということは、すでにいたるところで述べてきたとおりである。

p.220 名選手が名指導者になれないのは、ここに理由がある。「おれができたのだから、おまえもできる」といって、自分のやり方をおしつけるか、「なぜできないんだ」と頭ごなしに叱ってしまう。その意味でも、現役時代に「感じ」「気づき」「考える」こそが大切なのである。

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