Straphangers’ Room2022

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言えば言うほど恥をかく典型

2012-07-27 00:33:00 | 時事
いやいや、文楽に対する大阪市長の理解と言うものはこの程度か、と底の浅さを露呈した格好です。
文楽協会への補助金問題で、文楽に対する理解が無いと言う批判に対し、いや、文楽は大切だが協会が悪いんだ、と支持者(信者?)から反論がなされているわけですが、26日に国立文楽劇場で市長が4年ぶり(!)に鑑賞したコメントがこれです。

「守るべき古典券\だとはよく分かったが、ラストシーンでグッと来るものがなかった。」(読売)
「古典として守るべき撃セということは分かったが、ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」(毎日)

4年前というから府知事就任直後でしょう、その初鑑賞後に「二度と見ない」としていたそうで、それ以来の鑑賞ですから、要は「見もしないで批判してきた」のと一緒なうえに、今回は人間国宝の猪{源大夫による「曽根崎心中」という、まあはっきり言ってしまえば「ご存知物」です、初心者、素人にも分かるというか、文楽の入門でしょう。それを人間国宝に演じさせてのコメントがこれです。

まあ近松原作とはいえ、江戸期の演出そのままではなく、1955年の脚本ですから、それなりに時代に即したアレンジがなされていますが、歌舞伎の曽根崎心中のようにある程度の新解釈を入れるのではなく、あくまで「復活」ですし、「古典」が「古典」たる所以は基本が変わっていないということです。時代に迎合?して「グッとくる」のもいいですが、それはあくまで「新作」です。もちろん「新作」もバランスよく作ればベストですが、歌舞伎や落語などの伝統券\と違い、文楽は興業としては事実上難しく、文化財として伝統を守るのが限界です。

そういう現状を理解しないで、無茶を言うのは結局現状把握が出来ていない、そして「古典」がわかっていないのです。
そもそも古典の演目を見に行って、演出が古い、と言うコメントは無知も甚だしいです。

落語だってやはりアレンジを加えれば新作、改作として古典とは区別をします。今月のANA機内で流れている落語は立川志の輔ですが、古典落語の「しじみ売り」をアレンジしたことで「新版」を名乗っています。舞台回しは古典のままですが、オチ(サゲ)の部分のシチュエーションを少し変えた「だけ」でも「新版」と断るのが古典への礼儀です。

一方で大阪市長は古典の「曽根崎心中」を見て、古典の演出にケチをつけているわけです。
もちろん志の輔が「しじみ売り」を「新版」にしたのは、古典版でのシチュエーションがおかしい、という確固たる理由があっての話で、そういう視点での批判ならわかりますが、こちらはそんな「批評」ではなく、現代に迎合せよといってるようなものですから。

さらに、人形遣いの顔が見えているのを批判するに至っては...
幼稚園児相手の「人形劇」と勘違いしているのでしょうね。確かに「主遣い」が黒子でなく裃姿で顔を出すのは明治末期になってからですが、それだって「時代の要請」なんですよ。文楽のファンはそれを望み、受け入れられたということ。時代を取り入れる必要があるというのなら、主遣いの顔見せは肯定しないと筋が通らない。

何か一言言わないと「負け」だからと、主遣いの顔出しは伝統じゃないと聞きかじって批判してみたんでしょうが、そもそも人形遣いの技が見どころの一つなんですよ。筋立てだけなら多くの演目がトランスファーされた歌舞伎でもいいんですし。
歌舞伎だって團十郎や海老蔵、勘三郎を見に行くんであって、演じる役を見にいくことは少ないでしょう。

言えば言うほど恥をかく典型ですね。それにしてもャsュリズムに支えられた人気政治家というのは我が国の伝統文化に対する理解が斯くも無いというのはどうしてなんでしょうね。
かの小泉元首相が首相時代に宮中の新嘗祭に陪席した際、暗闇の中での神事というのに、「暗い、電気をつけろ」という趣獅フ発言をしたそうですが、文楽に対する大阪市長の態度もそれに類するものでしょう。



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