Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

反対派だけが大騒ぎ

2013-11-23 23:38:00 | 時事
特定秘密保護法案の審議も大詰めのようで、民主党や左翼政党を除く与野党間の合意が見えてきました。
ただ、政治的妥協であるべき姿から逸脱して、新たな特権階級や、肝心なところが抜かっている懸念はありますが、そこは今後の立法府の活動次第です。

国会で絶対多数を占める与党のみならず野党まで合意しているのですから、「民意」はどこにあるかは明白です。そうなると左翼政党やメディアの論調も断末魔と言うか、「ケチ」の域になっており、そんな対応じゃ信用できない、そうは言っても守られない可能性があるよね、という邪推で全体を否定しています。そのレベルまで考慮するのなら、世の中前に進まない、と言う感じでもあるわけで、よほど脛に傷持つ身なのか、とそれこそ邪推したくなります。

メディアの半狂乱ともいえる反対ぶりですが、国家権力を監視するんだ、という「歪んだ正義感」の断末魔と言えます。
メディアや言論人がこれまで無批判で信じてきた自分たちの「使命」とやらが本当に正しいのか。極端な話をすれば、反体制気取りの行動に国民が信を置いていない、という現実が、この法案を巡る国会や国民の対応と、メディアの対応の温度差でしょう。

もちろん国家権力の監視も必要ですが、すべては国民の利益があるわけです。
国家が国民の利益を守る、ということは、まずは国家がその利益を守らないといけません。つまり、外国やテロリストに対応する体制が問われるわけで、それが秘密の保護であることは本来常識として持つべき感性です。

卑近な例えになりますが、麻雀卓を囲んでいる時に、メディアを名乗るギャラリーが手牌を覗き込んでいるわけです。
さらに外側にいる国民という名のギャラリーの知る権利をダシに報道の自由が、というのですが、手牌を見たメディアが頷いたり驚いたりと、何らかの情報が漏れているばかりか、中には他の面子にこっちの手牌を教えている手合いもいるわけで、それで公平なゲームが出来るのか。

報道の自由を主張して、情報をじゃじゃ漏れにすることでゲームに勝てない、すなわち国民も損をする、という状態が容易に想像できますが、
それでも報道の自由というべきなのか。リーチをかけた状態で、メディアが「報道の自由だ、秘密にするのはケシカラン」と手牌を唐オて待ち牌が筒抜けになって喜ぶのは誰か。国民ではないことは確かです。
守るべき情報は守る。当たり前のルールが無かったことが問われているのに、国家権力に対峙する快感に酔いしれて、国民不在の議論をしていないか。厳しく問うべき事態です。

この国民とメディアや反対派の温度差を痛感したのが先日の退勤時で、メディアが大々的に取り上げた日比谷野音での「集会」帰りの初老のサラリーマンが近くに立っていたのですが、いろいろパンフやビラをこれ見よがしに広げて「宣伝活動」のつもりか、と見ると、まあ会場で配布されていたのでしょうね、法案反対のビラだけでなく、反原発を初めとする各種反政府系のビラが続々です。

この時点でお里が知れる、という感じでおなかいっぱいですが、さらに取り出したビラには極左暴力(集)団の名前が堂々と踊っています。
そういう集会を嬉々として報じる、さも国民の声のように報じるメディアの嫌らしさというか世論操縦の姿勢を見ると、何が報道の自由だ、としか言えないわけで、(極左)暴力団(要は「テロリスト」です)が堂々と入り込む集会を批判するどころか正義の集会のように偽装しているのは、バナメイ海老を芝海老と偽るどころでない悪意の行為と言えます。