Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

「改革」って...

2007-07-31 20:35:13 | 時事
さて、「大敗」した安倍首相には責任論が、また「大勝」した民主党には具体的な政策が求められています。

衆議院で2/3以上の賛成を得て再可決されれば法案は成立するとはいえ、総ての法案をそれで通すということは非現実的であり、それゆえに議長をはじめ委員長ャXトを野党に渡した格好になる参議院の「重み」が響いてきています。
与党は野党の賛成も得て参議院での法案成立に意を払う必要がありますし、野党もまたただただ反対とするだけでは、それは強行採決と同じ「数の論理」ですから、与党を批判できません。

そうした中、メディアの評論を見比べた時に気になったことがあります。
考えや立ち位置が異なる政党が衆参両院でそれぞれ主導権を握ったわけです。そこで懸念されるのはもちろん政治の空白、空転ですが、例えば31日の讀賣社説は「必要な政策の推進が大事だ」として、衆参のねじれや政争・政略を超えた対応を訴えています。
これはまさしく正論であり、衆議院から回付されてきた法案をどう扱うのか。今後民主党が政権の座につく資格があるのかを国民が判断する「舞台」でどう演じるのかという心構えを問うたものです。

ところが選挙当日の産経主張(社説)はどうでしょうか。結果が分からない段階とはいえ、おおよその傾向が見えた段階ゆえ、躍進する(であろう)民主党に釘を刺した格好になっていますが、その中で、「改革の必要性は不変」とあるのはいかがなものか。

讀賣の「必要な政策」、これは分かります。当たり前の話といわれそうですが、政治家に求められるのは国民や国家が必要とする政策を見い出し、打ち出し、粛々と遂行することです。
しかし産経のそれはどうでしょう。「改革」という基準がそこにあります。「改革」が絶対善であれば、それはイコール「必要な政策」ですが、少なくとも「改革」が必要であるかどうか、正しいかどうかはケースバイケースに過ぎず、絶対の真実として基準化すべきではありません。

つまり、足元の「改革」は、抽象的な表現としての「改革」ではなく、特定の方向性を持った具体性のある「改革」です。
抽象的であれば、それが正しいという判断も吝かではないですが、具体的であれば、それの是非は、「改革」という美辞麗句に引きずられることなく判断しないといけません。





抽象的であっても、改め変えていく、という意味になりますが、改めるということが本当に必然なのか。
以前女性の社会進出と育児の関係で、育児を重視する論者を「時計の針を戻す」と批判した勢力を批判しましたが、「改革」を主張する勢力にもそれと同じ印象を受けます。

「進歩的」文化人や、「革新」勢力という耳あたりの良い表現がありますが、その「進歩的」「革新」は抽象的ではなく、具体的なイデオロギーを伴っていました。
その正しさはきちんと検証しないといけないのに、抽象的な美辞麗句により、正しく見える印章を与えていたわけですが、今の「改革」も同じではないのか。

「科学的社会主義」が、社会主義は資本主義の次の段階である、という社会発展論を掲げて、社会主義への移行を必然のものとしていましたが、それと足元の「改革」において、改革を進めることを当然視していることがどう違うのか。
内容や立ち位置が違っていても、そのロジックに共通するものがある以上、社会主義が破綻したのと同様、「改革」も実は大いなる誤りかもしれません。

そして気になるのは、かつては「進歩的」「革新」という美辞麗句で左翼思想を覆い隠したと批判していたメディアが、自分たちの主張に関して同じ戦術をとっていることです。
世間はそれを「同じ穴の狢」と呼ぶのですが、どう考えているのでしょうか。




「衝撃」は実は当たり前

2007-07-31 20:03:19 | 時事
参院選が終わりました。
民主党の躍進、自民党の歴史的大敗という見出しが躍っていましたが、どちらかというと民主党の手柄というよりも、選挙が近づいても止むことがなかったスキャンダルで自民党が自滅しただけという感じがします。

民主党のマニフェストもぱっとしないわけで、(参議院ですから政権選択には直結しませんが)政策を吟味した上での選択であれば、ここまで支持される理由にも乏しく、ひとえに「お灸を据える」という自民党不信任票以上の理由がないものに見えます。

実際、本来ならここできっちりした主張を打ち出し、参院選の勝利から解散総選挙に流れても、安心して政権を任せられる、という信任に変えていかないといけないのに、どうも鈍いです。
もともと党首討論などの国会の場でも、追及の甘さ、下手さは目に余るわけで、悪送球でボールが誰もいない外野を転々、という状態なのに、ランナーがベースを踏み忘れたり、塁間で転んだりして、なかなか得点が出来ない、というような状態ですから。

さて、ちょっと気になったのは、歴史的大敗、というように、与党の激減を驚きをもって迎えるメディアや国民です。
実は今の選挙制度は、基本的に大敗か大勝しかないわけです。つまり、1人区をベースとした小選挙区で、二大政党が争った場合、よほど「自民は嫌いだが、○○さんは好き」「民主は好きだが、△△さんはダメ」というような選択にならない限り、どちらかの正当の総取りに近くなります。

ですから、勝つ時は大勝ち、負けるときは大負けになります。そして中小政党の獲得議席は限りなく小さくなるか、組織票が集まる範囲に限定されるわけです。

与野党伯仲、となるとしたら、両方の支持が拮抗している時に、個人の魅力や選挙協力、支持者の濃淡で勝ったり負けたりが発生するときであり、今後は基本的には今回や、昨年の「郵政選挙」のような傾向になるのです。