確か18歳くらいの頃だろうか。記憶が曖昧だが、ある日、何気なく訪れた東京都現代美術館にて、白髪一雄さんの作品を見る機会があった。大きな、力強い作品で、だだっ広い空間に置かれたその作品は、私に強い印象を残した。
もう一つ印象的だったのは、その作品のタイトルだった。どんなタイトルだったのか、具体的に思い出せないが、「天暴星両頭蛇」とか、そんな感じの、難しい漢字のタイトルだった。そのタイトルが私に思い起こさせたのは、何とも言えない距離感、もしくはジェネレーション・ギャップであった。
先日、尼崎にある白髪一雄さんのスタジオを訪ねて来て、ご遺族の方から、白髪さんに関するお話を伺う機会があった。
白髪氏の作品のタイトルが水滸伝から来ていることは、美術の勉強をしていく上で知っていたのだが、白髪氏がいかに水滸伝に心酔していたのか、自宅にある水滸伝のお皿のコレクションを見る中でも、よく分かってきた。水滸伝に出てくる108人の豪傑のうち、106人の人物しか白髪氏は描いておらず、あとの二人が欠けていることに関して、奥さんの富士子さんが、残りの2人は盗賊だから、わしゃ盗賊は嫌いや、描かへん、と言って行って下さったのが、彼の人柄を思い起こさせた。
ご遺族にインタビューしていき、そしてスタジオに伺っている上で分かったのは、彼の作品制作の中にある密教のイメージである。お祈りを捧げて、精神を統一してから絵画制作に向かった彼の姿勢は、非常に禁欲的であり、仏壇や、コレクションである岩波書店の本の山や、ペルシャの骨とう品などを見る中で、彼がテーマとしていたものが、うっすらと分かりかけてきた。
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昨日、沖縄入りした。沖縄に降り立ち、本土とは異なる光を浴びると、生命のエネルギーがこんこんと湧き立って来る様な、不思議な気分になる。
そんな中、日ごろからお世話になっている仲宗根政善さんの娘さんとお話をしていく中で、こんな話を伺った。
仲宗根政善氏は、自宅に植えた鳳凰木の木をとても大切にされていたそうだ。6月に咲くという鳳凰木の赤い花は、父にとって何か象徴的な意味を持っていたと思う、とその娘さんは語ってくれた。仲宗根政善氏は、ひめゆり部隊の最後の引率教員である。そこで散っていった学徒たちへの無念な気持ちが、無意識の弔いの儀式として、鳳凰木を大切にする思いと繋がったのかもしれない。
仲宗根政善氏の日記の中で、ひめゆり部隊の一員であった私の娘の名前が石碑にはいっていない、というコメントを、その学徒の母から頂いた仲宗根氏が、一生懸命岩にその学徒の名前を刻みこむシーンが書かれている。
上原千代子というその学徒は、彼女の死を証明するものが見つからなかった為、終戦直後に石碑に名前を刻むことができなかった。それが53年になって、その母から、名前を刻んでほしい、と依頼を受けたのである。仲宗根氏は、遺族に深くお詫びしたのち、夏の暑い日、この文字が一体どんな慰めになるのだろうか、という思いを抱いたまま、名前を彫っていった、そんな日記をつけている。
もう白髪一雄や、仲宗根政善に出会うことはできない。しかし、その作品や著書は今でも生きており、メッセージを放っている。
私たちの限られた、ほんの小さな想像力の限りで想うしかない。しかし、そんな限られたものであっても、想像力を巡らせてみたい。そして、そこからいかに多くをくみ取ることができるのか、それが死者との対話なのではないだろうか。
もう一つ印象的だったのは、その作品のタイトルだった。どんなタイトルだったのか、具体的に思い出せないが、「天暴星両頭蛇」とか、そんな感じの、難しい漢字のタイトルだった。そのタイトルが私に思い起こさせたのは、何とも言えない距離感、もしくはジェネレーション・ギャップであった。
先日、尼崎にある白髪一雄さんのスタジオを訪ねて来て、ご遺族の方から、白髪さんに関するお話を伺う機会があった。
白髪氏の作品のタイトルが水滸伝から来ていることは、美術の勉強をしていく上で知っていたのだが、白髪氏がいかに水滸伝に心酔していたのか、自宅にある水滸伝のお皿のコレクションを見る中でも、よく分かってきた。水滸伝に出てくる108人の豪傑のうち、106人の人物しか白髪氏は描いておらず、あとの二人が欠けていることに関して、奥さんの富士子さんが、残りの2人は盗賊だから、わしゃ盗賊は嫌いや、描かへん、と言って行って下さったのが、彼の人柄を思い起こさせた。
ご遺族にインタビューしていき、そしてスタジオに伺っている上で分かったのは、彼の作品制作の中にある密教のイメージである。お祈りを捧げて、精神を統一してから絵画制作に向かった彼の姿勢は、非常に禁欲的であり、仏壇や、コレクションである岩波書店の本の山や、ペルシャの骨とう品などを見る中で、彼がテーマとしていたものが、うっすらと分かりかけてきた。
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昨日、沖縄入りした。沖縄に降り立ち、本土とは異なる光を浴びると、生命のエネルギーがこんこんと湧き立って来る様な、不思議な気分になる。
そんな中、日ごろからお世話になっている仲宗根政善さんの娘さんとお話をしていく中で、こんな話を伺った。
仲宗根政善氏は、自宅に植えた鳳凰木の木をとても大切にされていたそうだ。6月に咲くという鳳凰木の赤い花は、父にとって何か象徴的な意味を持っていたと思う、とその娘さんは語ってくれた。仲宗根政善氏は、ひめゆり部隊の最後の引率教員である。そこで散っていった学徒たちへの無念な気持ちが、無意識の弔いの儀式として、鳳凰木を大切にする思いと繋がったのかもしれない。
仲宗根政善氏の日記の中で、ひめゆり部隊の一員であった私の娘の名前が石碑にはいっていない、というコメントを、その学徒の母から頂いた仲宗根氏が、一生懸命岩にその学徒の名前を刻みこむシーンが書かれている。
上原千代子というその学徒は、彼女の死を証明するものが見つからなかった為、終戦直後に石碑に名前を刻むことができなかった。それが53年になって、その母から、名前を刻んでほしい、と依頼を受けたのである。仲宗根氏は、遺族に深くお詫びしたのち、夏の暑い日、この文字が一体どんな慰めになるのだろうか、という思いを抱いたまま、名前を彫っていった、そんな日記をつけている。
もう白髪一雄や、仲宗根政善に出会うことはできない。しかし、その作品や著書は今でも生きており、メッセージを放っている。
私たちの限られた、ほんの小さな想像力の限りで想うしかない。しかし、そんな限られたものであっても、想像力を巡らせてみたい。そして、そこからいかに多くをくみ取ることができるのか、それが死者との対話なのではないだろうか。