Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

悲しみは空の彼方に - 沖縄を回想しながら

2009-08-21 01:04:53 | Weblog
私が大好きな映画の一つに、ダグラス・サーク監督の「悲しみは空の彼方に(Imitation of Life)」がある。イリノイ大学留学中にこの映画を見た私は、声が出ないくらいの衝撃を受けた。映画を見た後に、一時間以上も寝付けない、という経験をしたのは、この映画くらいかもしれない。

白人と黒人の混血児であることを隠して生活を続ける白い肌を持つ若い女性サラ・ジェーン。何も話さなければ白人として通る彼女は、普段は白人として通している。しかし、学校に黒人の母親アニーが来たことで、自身が混血児であることが発覚してしまい、白人である恋人の男性に、混血児であることを隠していたことを責められて、ボコボコに殴られてしまう。

その後、転落してナイトクラブで働く様になったサラ・ジェーン。その仕事先であるナイトクラブに、心配をした黒人の母親アニーが迎えに来るのだが、サラ・ジェーンは。黒人の母親を赤の他人としてしらを通し切る。彼女は、自分自身のルーツである「黒人」という事実に、差別的な人格を形成してしまっていたのであった。そして、次にサラ・ジェーンが母親アニー出会うのは、アニーの葬儀である。母の死をもって母の愛に気づいたサラ・ジェーンは、後悔の涙を流す。私は、そのシーンに心打たれ、寝付けなくなってしまったのだった。

この映画を見たとき、私はイリノイ大学アーバナ・シャンペイン高に留学中であり、一番人種差別に苦しんでいた時でもあった。他の日本人留学生とは異なり、アメリカ人の中に完全に入り込もうとしていた私は、人種という大きな壁にぶち当たっていた。それこそ、サラ・ジェーンに勝るとも劣らない苦い経験を、何度かした。だらかと言って、アジア人の保身の為に形成されたアジア系アメリカ人コミュニティ(しかも韓国の宗教団体が母体となっていた)からも距離を置いており、孤独感を募らせていた。そんな時に、ダグラス・サークの伝説的な作品に出会って、心底心打たれたのであった。ここに芸術表現がある。そう痛感した。

複数の言語を通過し、アメリカでの述べ8年近くの生活を通過した私は、複雑なアイデンティティ形成を遂げてしまった。アジア人として括られるのも嫌、日本人として見られるのも嫌(その根底には、日本の抱える歴史問題が横たわっている)、言語を通過するごとに生まれる、おのおのの言語の持つ主体性を内包化して行きながら、マルクス経済学の影響を受けつつ、ネーション・ステート批判や近代の問題を考える様になった。

アメリカから帰ってきた大学4年生の頃、私はどうしても沖縄に行きたい、と思い、船に乗り込み、初めて沖縄へと向かった。その最大の理由は、日本で苦労している沖縄を見てみたい、という思いからであった(その姿勢は、私の沖縄出身の友人から徹底的に批判されたことを追記しておく)旅先の沖縄で、似た様な問題意識を持った在日朝鮮人の大学生と朝まで議論したのが、記憶の底でゆらめいている。

アメリカに行って「悲しみは空の彼方に」を撮ったサークが、ナチに追われたユダヤ系であった様に、私はアメリカでもアメリカに完全に同一化することができず(そこには、ある種の敵対概念が内包されているのかもしれない)、ニューヨークへと流れ着いた。そして、私が経験したことを通じて考えたこと、さらに学んだことを日本にもって来ようとした際に、システムの違いからか、システム祖語が発生してしまった。これこそ、近代の問題、さらに日本の近代化の抱えた構造的な問題だと痛感している。

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サラ・ジェーンが、自分自身のルーツである黒人という事実に差別的な人格を形成してしまっていたかの様に、私自身は、「日本人」に対して、ある種差別的な人格を形成してしまっているのではないか、と考えた。(自分が、日本人であることをほとほと嫌になってしまったことを経験している人というのは、それほど多くないかもしれないし、ネーションが主体として捉えられることを否定する文脈にて憲法批判をした人、さらに日本の自己規定の中に入り込んでしまった9条における、自己を規定する際における他者概念を述べた人も少ないと思う)そして、その裏返しとしての過剰な期待を、もしかしたら似た様なアイデンティティの問題を抱える「沖縄」へと投影してしまっているのではないか、と考えるに至った。(自分自身に対する精神分析は無意味だ、と言ったのはフロイトであったが)

アートをやる限り、私はアートのルールや、共通言語に従わなくてはならない、と考えている。私の仕事は、西洋の「アート」を日本語へのローカル言語へと翻訳するのではなく、西洋のアートをアートとして日本に輸入すると同時に、主体が成立しない、という汎神論的な近代の在り方を実現した日本の思想を、モダニズムを強化する為に、海外に輸出することを目的としている。

沖縄にてアトミックサンシャイン展を開催した際、私はNYにて立ち上げたコンセプトを、できるだけ変更せずに東京に、さらには沖縄へと持ち込みたいと考えた。それが、共通言語を話すことだと私は考えたのだが、日本の、そして沖縄のローカル言語は、それを共有することができず、特に沖縄では、その複雑なプリズムを通じて、大変複雑な乱反射を生み出してしまった様に思う。そして、沖縄における私は、「渡辺真也」という個人として以上に、「ヤマト」の人間だと、ベタに認識されていた気がする。

それは、私が通常語っている「他者」と出会った瞬間であったのかもしれない。しかし、この出会いは、強烈かつ、感情的なものであった。沖縄の強烈な自然のプレゼンスの中では、ロゴスの整然さよりも、パトスのうねりの方が強かったのかもしれない。

沖縄の展示のことを、ずっと引きずっている。ここで生まれた一連の問題が、日本の本土の人間、そして異なる言語圏の人たちと共有することが、絶望的なほど困難なことであることを認識しながら、そこに佇んでいる。

遅ればせながら、沖縄展の写真をWebにアップしました。展示に含まれた美術館のパーマネント・コレクション作品はご覧になることができませんが、展示のおおよその様子はご覧になれると思います。沖縄での展示にいらっしゃることのできなかった皆さま、ぜひ、ご覧になって頂けたらと思います。

沖縄展に関することは、考え抜いて行きたいと思います。ご声援の方、どうぞよろしくお願いします。