Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

明朝体と音読について

2009-08-26 01:12:59 | Weblog
普段、日本語で会話をしていて、そこから仕事の関係で、英語で文章を書くモードに切り替えると、私の頭の中での思考回路のスイッチが、少しだけ切り替わる印象がある。それと同時に、私の日本語思考の癖や回路が客観的に眺められてしまい、日常的に日本語にて思考し、会話している私が怖くなることがしばしばある。岡潔や胡蘭成は、こういう問題を、どんな風に考えたのだろう。

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活版印刷以前の時代、人間は文字を「音読」しないと、文字を言葉として認識することができなかった、と読んだことがある。つまり、活版印刷という定型フォントの登場が、文字を音読=パロールという「翻訳」を通じて理解する必要が無くなり、エクリチュールそのものとして理解することができる様になったのではないか。(その背景には、ルネサンス期のダンテなどの言文一致の問題が大きいのかもしれないが。ちなみに柄谷は、言文一致は内的な観念にとってたんに透明な手段でしかなくなるという意味において、エクリチュールの消去だと述べている点が興味深い)

パソコンにフォントという概念を持ち込んだスティーブ・ジョブスは、ヒッピーを経験しながらオレゴン州のリード大学在学中に書道を勉強したことから、人間に対してよりフレンドリーな形態を持つコンピューターを作る為、フォントの開発に向かった。(そこには、ジョブスの母がシリア人だった、という影響も少なからずある様に思える)

「明朝体」というフォントを考えた中国人は、明朝の時代、いったいどんな文章の読み方をしたのだろうか?そして元の時代にパスパ文字を使っていたモンゴル人が、政治的な理由からキリル文字へと切り替えた際、どんなマインドセットの変更があったのだろうか?

丸山圭三郎は、ソシュールの弟子たちがシニフィエ・シニフィアンの上位下位の問題を設定したことを批判したが、その批判の際に仏教の中観派、つまり大乗仏教学者・ナーガールジュナの般若空観の考え方は、ソシュールの思想を先取りしていると指摘している。ソシュールの言語学=シーニュの問題そのものが、サンスクリット語のシューニャ=空をルーツとしていることを考えると、丸山の指摘は正しいと思う。

私は今まで、ソクラテス、イエス、仏陀は何故本を書かなかったのか、という話を友人のアーティストと何度か繰り広げてきたが、私の意見は、彼らはパロールの力、さらに弟子を信用しており、自分のメッセージが間違って伝わったのであれば、それは発話者である私自身の責任だと思っていたからではないか、と考えている。

言葉の問題は、これからもずっと考えて行きたい。