Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

第三話 新たな始まり - 大学入学と、早稲田シネマ研究会との出会い

2009-01-07 08:44:24 | Weblog
イギリス旅行から帰って来た私は、高校3年生になっていた。ああ、もうついに受験の年か、そんな諦めにも似た感情が、私にはあった。

また現実を受け入れることができなかった私は、いくつかわがままを言った記憶がある。海外の大学に行きたい、それか、自分の好きな美術を勉強する為、美術大学に行きたい、そう言ったのだった。

それは私の正直な気持だったのだが、将来を案ずる私の両親を説得するものとは到底なり得なかった。父から、海外の大学はダメだ、ちゃんと日本で勉強してから行けば良い、さらに、芸術は悪魔だ、やればやるほど、深みにはまってどうにもならなくなる、だからちゃんと実学を勉強して、世の中で役立たせなさい、そういう答えをもらったのを覚えている。

その頃実家では、マルヨ渡辺商店という魚問屋を営んでいた。私の父、そして溺愛してくれた祖父の当時の夢は、この末っ子「長男」に商店を継がせることにあった。幼少の頃から、私は「マルヨの三代目」と、漁業関係者が多く住む界隈である沼津市の港町(みなとちょう)では呼ばれており、祖父からは「魚屋を継ぐのだから、しっかりしたものを食べなさい」、ということで、おいしいお刺身を、小さいころから日常的に平らげていた様に思う。

祖父にとっても、私が魚屋を継がない、というオプションは、受け入れがたいものであり、私も祖父に面と向かって、そういうのはとても気が引けた。時間的にも追い詰められた私は、ついに観念せざるを得なくなった。よし、大学の経済学部を目指そう。そして、自分のやりたい美術の勉強は独学で達成しよう、でも将来の夢は美術館学芸員だ!そういう複雑な夢を抱く様になった。

勉強することを放棄していた私の成績は、惨憺たるものだった。高校3年生になった際に強制的に受けさせられた全国実力テストでは、受験3科目の平均偏差値が40、合格可能大学の欄には、聞いたことの無い地方の短大の名前が、申し訳ない程度にチラホラ載っていた。

まさかここまで自分の成績が悪いとは、と正直ショックだったが、逆にふっきれた部分もあったと思う。もしこのどん底から、目標としていることが達成できるのであれば、自分にとっても自信になるに違いない、そう、やるしかない!そう思い、気合を入れて勉強することにした。

目標は早稲田大学。文字通り、偏差値40からの大学受験であった。

確か、一日平均して12時間くらい勉強したと思う。これが限界、という自分なりのギリギリの線で猛勉強を続けた。受験勉強中、私のことをとても可愛がってくれた祖父が他界した。闘病中にもかかわらず、あまり病院に顔を出すことができず、申し訳ない気持ちもあったが、今は受験、と気持ちを切り替え、集中して勉強した。途中、正直しんどかったが、これさえ乗り切れば田舎を脱出して、東京に行って自由になれる、そう思って全力で頑張った。

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受験の結果、私は早稲田大学を不合格となり、同時に希望していた他大学もダメ、結局滑り止めとして受験した専修大学経済学部のみ合格となった。

入学式の日、私の心は悔しい気持ちで一杯だった。ちくしょう、俺の人生はどうなっちまうんだ、こんなことなら、もっと早い段階から勉強しておけば良かった、本当にそう思った。

しかし、この取り返しのつかない失敗を経験した私には、一つ確信めいたものがあった。

私は無目的とも思えた受験勉強が嫌いだったが、目的のある勉強は好きだった。嫌でもとりあえずやり抜いたこの受験勉強のペースで、もし大学4年間を勉強い続けることができたら、おそらく他の学生より大分差が付くんじゃないか、そう思う様になった。

そして私は、高校時代からあこがれていたニューヨークに行くにはどうしたら良いだろうか?そして美術館学芸員になるには今後どうしたら良いのか自分なりに考え、目標を立てることにした。

とりあえず、大学卒業後すぐに美術館での仕事を手にするのは不可能だろう、だからニューヨークの大学院に行って美術を勉強することにしよう、でもそうするには、お金が必要だ。とりあえず、大学の奨学金をもらって、そこで浮いたお金を学費としてニューヨ-クで使おう、そして、私の好きなケルアックとギンズバーグの行っていたコロンビア大学に行こう!そういう目標を立てた。

私の通った大学には特待生制度があったのだが、成績優秀者は学費が全額免除となり、さらに毎月お小遣いがもらえる、という素晴らしいものだった。とにかく、何としてでもこれを貰わなくては!と思い、私は大学の近くにアパートを見つけ、大学の授業もちゃんと集中して受ける様になった。(私は、4年間のうち大学を休んだことが2,3日程度しかなかったと思う)

さらに、もし大学院からニューヨークに行くのだとしたら、その前に相当な英語力が要求されるだろう、ではそれに備えて大学の交換留学制度を使ってアメリカに行き、その準備をしよう、と考え、英語の勉強の目標とプランを立てた。

英語に関しては、一番乗っている時は、毎日5時間を目安に勉強した。たまに大学での英語講座の様なものも取ったが、基本的に全て、テキストブックを使っての独学だった。また私は映画が好きだったので、映画もできるだけ字幕を見ないで理解する様にして、英語のリスニング力を付ける様心がけた。特に長編映画「ツインピークス」では、字幕を見ないで映画を理解する、という方法で見ていたのだが、7巻くらいから、ちゃんと会話が聞き取れる様になった。

通っている大学ではサッカーのサークルに入ったのだけれど、同時に入学することのできなかった早稲田大学でも文化サークルに入ろう、と思い、兼ねてから希望していた映画サークルに入ろう、と決心した。

早速早稲田大学に行き、校門で先輩たちが配っていたサークル紹介のパンフを手にいれて、いくつか映画サークルの代表者に電話をしてみた。「大学外からなのですが、入れますか?」と言うと、男子学生ということもあり、ほとんどのサークルが拒否反応を示していたのだが、そんな中、「シネマ研究会」といサークルの方だけ、「参加したければ、どうぞ」と丁寧に(?)対応してくれた。

そこから私は、シネマ研究会へと出入りする様になったのだが、このサークルとの出会いも、私の人生を今後大いに狂わせてくれることとなった。

「シネ研」は、曰くつきのサークルだった。早稲田の中でも、もっともダメかつ濃い、選りすぐりの人たちだけが吹き溜まりの様に溜まっているサークルだった。80年代の映画全盛期の時代には300人を数えたメンバーも、先輩が後輩をコントロールする、という封建的なシステムがたたってか、今ではせいぜい10-15人程度、一癖も二癖もある6年生まで、幅広い年代に広がる先輩たちが、たぬきの様に居座っていて、下級生たちに議論をふっかけている、そんな早稲田の古いバンカラを思わせるサークルだった。

そんなサークルに初めて行った時、飲み屋で隣に座った先輩に、いきなりこう質問された。
「君、エドガー・アラン・ポーで何が一番好き?」
困った私は、とりあえず高校時代に読んだことのあった
「大鴉です」
と答えておいた。今思うと、これがとりあえず、シネ研への参加儀礼としてのテストだった様に思う。他の学生で、
「どんな監督が好きなの?」
と聞かれ、
「ロッセリーニです」
と一生懸命答えていた女の子がいたが、意地悪な先輩に、
「ああ、イタリア人の政治家ね」
とスカされてしまっていた。その後、この女の子がサークルへ来ることはもう2度となかった。やはり、この先輩たちと付き合うには、相当な根性が必要だったのだろう。

先輩たちがそんな具合だったので、新入生はどんどん減って行ったのだが、その中で生き残った私は、ニューアカの最後の生き残りとも呼べるこの先輩たちから、洗礼を受けることになった。

映画は年間100本見ること。蓮見重彦に関するものは全てチェックし、ヌーヴェル・バーグの代表作品は全て見ること。必読図書は、まず柄谷行人とドゥルーズ、それからフーコーとデリダ、さらにベンヤミンにドゥボール、批評空間と現代思想はちゃんとチェックすること、そして小説も読み、音楽も聞くこと。。。

地方から出て来たばかりで、情報や刺激に飢えていた私は、自分の期待にそれ以上のもので応えるシネ研に、驚いた。

先輩たちにはかなりレベルの高い教養を要求されたが、知らないことを聞けば何でも教えてくれる、そんな先輩にかこまれていたことは、私にとって大変重要な学習機会となった。この中で数年揉まれた私は、世界で通用する高いレベルのリテラシーを身に着けることができたと思う。この先輩たちには、今本当に感謝している。

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そんな大学一年生のある初夏の日、私は熊野に行きたい、そう思う様になった。

当時、中沢新一の洗礼を受けていた私は、南方熊楠の思想、特に南方マンダラにとても興味が湧いており、さらにシネ研の先輩に必読図書として薦められた中上健次の「枯木灘」を読んでいるうちに、まだ見ぬ紀伊半島、枯木灘の景色が見たい、そう思う様になった。また先輩たちの間でも一人旅をしている人が多く、いろいろと刺激的な話を聞いているうちに、私も一人旅がしたい、そう思う様になった。

紀伊半島まで行くのなら、アンドレ・ マルローが思わず「アマテラス」とつぶやいたという那智の瀧、そして伊勢神宮まで行こう、ついでにこうなったら、出来上がったばかりで話題になっていたベネッセアイランドこと直島にも行ってキャンプしよう、そう思い立った。

長期間の旅行になるだろうから、夏休みを使おう、青春18切符を使って、2週間程度の旅行としよう、そうプランを立てた。とりあえずバイトして最低限の小銭を貯めて、あとは貧乏旅行で何とかしよう、そう思う様になった。

夏休みに入ってからの日雇いの仕事かなんかで、確か5-8万円くらい貯めたと思う。あらかじめ用意してあったバックパックと寝袋を使って、安宿があれば宿に泊まり、なければ野宿でも仕方ないな、そう思って出発した。

用事を全て済ませて、自宅から小田急線を使って小田原まで出てくると、JRの改札で駅員さんに元気よく頼んだ。

「青春18きっぷを下さい」
「ええと、残念だけれど、実は昨日で販売は終了しました」
「ええ?どうしたんですか?」
「今日はもう9月1日です。青春18きっぷの販売は昨日まで。明日以降も使えるけれど、販売は終わってるよ」
「。。。」

そう聞かされた私は、途方に暮れた。バイトしてお金を貯めているうちに、8月が終わっていたのであった。さっきまで背負っていた青いバックパックが、急に悲しい陰を落とす無用のオブジェの様に感じられた。

しかし、私はどうしても諦められなかった。こうなったら、なんとかして、熊野まで行ってやる!

そう思うと、私はペンとノートを買いに、コンビニへと駆け込んだ。そう、ヒッチハイクの開始である。


-- つづく --

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1 コメント

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Unknown (tomoko)
2009-01-08 00:06:07
渡辺さんがさまざまに奮闘されるご様子拝読しております。一体どのような過程を経て、「9条を、アートを手段として世界に示す」という魅力的なテーマに取り組まれることになったのか以前から興味を抱いていたのですが、ここ数回のお話はそれとは別に学生としての私にいやがおうにもさまざまな刺激を与えるものでした。
特に渡辺さんが大学時代に出会われた「映画サークル」のような、趣くままに議論を重ね「教養」を高めていくことのできる場所は、私自身、大学4年間を通して渇望し探し求めてきたものでしたが、とうとう探し当てることができませんでした。ですので、苦しいくらいの憧れと、悔恨をもって読ませていただきました。
しかし同時にどんなに困難であろうときでも冷静に自分自身を正当に評価して望みを捨てないことが、さまざまな可能性につながること、あとは肝っ玉だ、ということが見出されたように思いまして、大げさですが希望がわいたように思いました。ありがとうございました。
公共性のないメッセージですので、載せる必要はありません。これからもブログ楽しみにしております。
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