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池澤夏樹の個人編集の「世界文学全集」に、日本からは大江健三郎も村上春樹も中上健二も
敢えて入れなくていいかとスルーしたものの、
あとで石牟礼道子さんの「苦海浄土」を追加したと書かれてた。
わたしが去年読み終わった「苦海浄土」は、この池澤さんが編んだ文学全集の中の版です。
さらにそのあと「日本文学全集」を編むときは、石牟礼さんの他の作品も入れていて
池澤夏樹は彼女を神のように尊敬し崇めているのだなぁと思ってたけど
この対談集を読むと、その神のように敬愛している石牟礼さんとお近づきになれてうれしくて
石牟礼さんが大事で大事で日本の宝だと思ってらっしゃるのがすごくよくわかる。
それはなんだか尊いものだなぁと思う。
石牟礼さんは文章は濃厚ですごいものを書きますが、ここで話す言葉は平易で多くもないので、
池澤さんが石牟礼さんの言葉や言いたいことを先回りしたり説明したりすることが多いです。
それはこうこうこういうことですね、とどんどん整った言葉にしていくのが、
ちょっとやりすぎな気持ちになることもあるけど
とにかく好きで好きで仕方ないのが溢れているので、まあ仕方ないか、と思うことにした。
対談は時系列で並べられていて、一番最後の方は石牟礼さんの言葉も意識も
ややあやふやで頼りなくて、書かれていないけど池澤さんの切なさを感じ取りました。
こうやってお会いできるのがあと何回あるだろう、とにかく生きていてほしい、
でも死ぬことを、別の懐かしいものたちのところに行くことのように思うなら
そんなに悲しまなくていいのだろう。でも生きていてほしい。ただ生きていてほしい、と
そんなふうに思ってらしたのだろうな。
何箇所か引用します:
草の中に立ってると自分と草の区別がつかないという石牟礼さんに、
池澤:風が吹いてこう揺れたら草が揺れている。自分という草が揺れていると思えるわけでしょう。
石牟礼:思います。自分の祖(おや)は草だったと思ったりする。
人間よりも草に近い魂を持っていると、ああいう文章が書けるのだなぁと思った。
池澤:・・・・魂というのは、一人に一個じゃなくて、もっと何か…
石牟礼:ご先祖さまがいっぱい入ってますよね。
(略)
池澤:それが自分において一番色が濃くなっているところが自分の魂であって、でも閉じたカプセルじゃないですよね。
初めて覚えたひらがなが本棚の本の「つるみゆうすけ(鶴見祐輔)」で
石牟礼:ああ、そのときに「これは人の名前かもしれん」と思いました。
池澤:そのときは、文字を使えば、文字を連ねていけば、世界がひとつできるというか。
石牟礼:文字を使えば、今見ている景色とか、今見ている人とか、全部立ち上がり直すんだなという経験をしました。綴り方の時間が大好きで、鐘が鳴ってもずっと書いてるんですよ。(略)鉛筆の先から世界が立ち上がる。そういう自覚がありました。
あと、これは編集者をしている友達のことを思い出した部分。
池澤:一つはね、編集ってことをかんがえているんです。つまり普通編集というのは二次的な仕事と思われがちですよね。作家が書いたものを本にする。その部分だけと思われているけども、古代で考えたら「古事記」にしても、「竹取」にしても、「今昔」はもちろん、古代の文学のほとんどは編集ものなんですよ。つまり、さまざまな素材があって、それを集めて編むわけ…そのこと自体が非常に大事な、文学的な営為だった。個人の名前をたてての創作は、たぶん「源氏」からですよ。(略)
翻訳もそうですね。翻訳という仕事は二流だとみんな思ってきた。原語で読めない人のためにしかたないからやると。だけど、翻訳という仕事は非常に大事な文学的な仕事である、と、だって、文学はそれで広まってきたんだもの。
また後で別の時にも池澤はこう言ってる
つまり、編集は思想なんですよ。創作なんです。
池澤さんが文学と女性に関して語っていたところも印象に残りました。
世界文学全集を編んだ時に、気がつけば女性と旧植民地出身の作家が多くなっていたと。
その人たちはかつてはペンを持ってなかった、ずっと教育も機会も得られなかったけど、
ペンを持って小説をかけるようになって傑作がたくさん生まれたのだとおっしゃってた。
こういう話を聞くとうれしくなるな。
先日読んだ、抑圧されたアフガニスタンの女性たちの短編集「わたしのペンは鳥の翼」を思い出します。
これは辛い本でもあるけど、少なくともこうして極東のわたしに伝えることができている。
彼女らに文字が与えられず、また書けても出版してくれるところがなければ実現しなかった。
能力のないものとして何も与えられなかった弱かった人たちの状況が確かに変わってきたのだと思うと、
まだまだ道半ばだとしてもうれしい。
20世紀は大きな戦争の世紀だったけど、
一方で女性や植民地や民族の解放や人権獲得は少しは進んだのだな。
そして弱い側には言いたいことがいつもあるというところで
先日映画がリメイクされた「カラーパープル」の原作を号泣しながら読んだ辛い時期のことを思い出し、
また、魂の話のところでエヴァンゲリオンの人類補完計画のことを思い、
脳みそが活性化されてる時にはとにかくいろんなことを思い出すものだな。
そういう時は辛いことを思い出していても、それでもとても楽しい。
思い出すものが離れていればいるほど、その間を繋ぐ思考がカラフルになり
生きている、生きて思考している喜びがある。
敢えて入れなくていいかとスルーしたものの、
あとで石牟礼道子さんの「苦海浄土」を追加したと書かれてた。
わたしが去年読み終わった「苦海浄土」は、この池澤さんが編んだ文学全集の中の版です。
さらにそのあと「日本文学全集」を編むときは、石牟礼さんの他の作品も入れていて
池澤夏樹は彼女を神のように尊敬し崇めているのだなぁと思ってたけど
この対談集を読むと、その神のように敬愛している石牟礼さんとお近づきになれてうれしくて
石牟礼さんが大事で大事で日本の宝だと思ってらっしゃるのがすごくよくわかる。
それはなんだか尊いものだなぁと思う。
石牟礼さんは文章は濃厚ですごいものを書きますが、ここで話す言葉は平易で多くもないので、
池澤さんが石牟礼さんの言葉や言いたいことを先回りしたり説明したりすることが多いです。
それはこうこうこういうことですね、とどんどん整った言葉にしていくのが、
ちょっとやりすぎな気持ちになることもあるけど
とにかく好きで好きで仕方ないのが溢れているので、まあ仕方ないか、と思うことにした。
対談は時系列で並べられていて、一番最後の方は石牟礼さんの言葉も意識も
ややあやふやで頼りなくて、書かれていないけど池澤さんの切なさを感じ取りました。
こうやってお会いできるのがあと何回あるだろう、とにかく生きていてほしい、
でも死ぬことを、別の懐かしいものたちのところに行くことのように思うなら
そんなに悲しまなくていいのだろう。でも生きていてほしい。ただ生きていてほしい、と
そんなふうに思ってらしたのだろうな。
何箇所か引用します:
草の中に立ってると自分と草の区別がつかないという石牟礼さんに、
池澤:風が吹いてこう揺れたら草が揺れている。自分という草が揺れていると思えるわけでしょう。
石牟礼:思います。自分の祖(おや)は草だったと思ったりする。
人間よりも草に近い魂を持っていると、ああいう文章が書けるのだなぁと思った。
池澤:・・・・魂というのは、一人に一個じゃなくて、もっと何か…
石牟礼:ご先祖さまがいっぱい入ってますよね。
(略)
池澤:それが自分において一番色が濃くなっているところが自分の魂であって、でも閉じたカプセルじゃないですよね。
初めて覚えたひらがなが本棚の本の「つるみゆうすけ(鶴見祐輔)」で
石牟礼:ああ、そのときに「これは人の名前かもしれん」と思いました。
池澤:そのときは、文字を使えば、文字を連ねていけば、世界がひとつできるというか。
石牟礼:文字を使えば、今見ている景色とか、今見ている人とか、全部立ち上がり直すんだなという経験をしました。綴り方の時間が大好きで、鐘が鳴ってもずっと書いてるんですよ。(略)鉛筆の先から世界が立ち上がる。そういう自覚がありました。
あと、これは編集者をしている友達のことを思い出した部分。
池澤:一つはね、編集ってことをかんがえているんです。つまり普通編集というのは二次的な仕事と思われがちですよね。作家が書いたものを本にする。その部分だけと思われているけども、古代で考えたら「古事記」にしても、「竹取」にしても、「今昔」はもちろん、古代の文学のほとんどは編集ものなんですよ。つまり、さまざまな素材があって、それを集めて編むわけ…そのこと自体が非常に大事な、文学的な営為だった。個人の名前をたてての創作は、たぶん「源氏」からですよ。(略)
翻訳もそうですね。翻訳という仕事は二流だとみんな思ってきた。原語で読めない人のためにしかたないからやると。だけど、翻訳という仕事は非常に大事な文学的な仕事である、と、だって、文学はそれで広まってきたんだもの。
また後で別の時にも池澤はこう言ってる
つまり、編集は思想なんですよ。創作なんです。
池澤さんが文学と女性に関して語っていたところも印象に残りました。
世界文学全集を編んだ時に、気がつけば女性と旧植民地出身の作家が多くなっていたと。
その人たちはかつてはペンを持ってなかった、ずっと教育も機会も得られなかったけど、
ペンを持って小説をかけるようになって傑作がたくさん生まれたのだとおっしゃってた。
こういう話を聞くとうれしくなるな。
先日読んだ、抑圧されたアフガニスタンの女性たちの短編集「わたしのペンは鳥の翼」を思い出します。
これは辛い本でもあるけど、少なくともこうして極東のわたしに伝えることができている。
彼女らに文字が与えられず、また書けても出版してくれるところがなければ実現しなかった。
能力のないものとして何も与えられなかった弱かった人たちの状況が確かに変わってきたのだと思うと、
まだまだ道半ばだとしてもうれしい。
20世紀は大きな戦争の世紀だったけど、
一方で女性や植民地や民族の解放や人権獲得は少しは進んだのだな。
そして弱い側には言いたいことがいつもあるというところで
先日映画がリメイクされた「カラーパープル」の原作を号泣しながら読んだ辛い時期のことを思い出し、
また、魂の話のところでエヴァンゲリオンの人類補完計画のことを思い、
脳みそが活性化されてる時にはとにかくいろんなことを思い出すものだな。
そういう時は辛いことを思い出していても、それでもとても楽しい。
思い出すものが離れていればいるほど、その間を繋ぐ思考がカラフルになり
生きている、生きて思考している喜びがある。
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