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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「めぐらしや」

2020-04-18 | 本とか
読んだ小説の文体が、すごく覚えがあると延々考えてて、
なんのことはない同じ作者の別の小説なのだった。
ていうか、どの小説もこの文体ではあるんだけど、
フランスのインテリたちのどこかおしゃれな話と
日本の地方のごく普通の市井の人の日常の話とが違いすぎて気がつかなかった。

この人の文章は内容は繊細で折り目正しいのに
文体はゆるゆるダラダラとなる手前の柔らかさがあって
これは多分読者を自分でない他人だとはっきり思っている人の
優しい説明文だからかなと思う。
説明が長い人のリズムだ。(自分もそういうところがあると思う)
さっきお風呂で読み終わったのですが、そういうまだるっこしさの手前の文なのに、
映画ででも見たみたいに、日本の地方の瓢箪池のそばのアパートや、
酒蔵の家の和洋折衷の応接間などの場面が頭の中に見てきたように残っている。

ストーリー自体は特にどうということもなく好みでもないんだけど
心に残るのはディテールと文体なのは、この作家の他の小説も同じだな。

亡くなった父親の遺品整理で、父が「めぐらしや」という何かをしてたことがわかり
それをゆるゆると突き止めていくような話なんだけど、
謎を解くサスペンス的なものとは全然違って、日常や
市井の人々がよく描かれている小説でした。

堀江敏幸「めぐらしや」

「すべての、白いものたちの」

2020-04-02 | 本とか
白のイメージのある月は1月かなと思う。
それで1月にハン・ガンの「すべての、白いものたちの」を読みました。
この作家は「菜食主義者」を最初に読んで、あまりにねっとりと救いのない話でつらくて、
もう読まん!と思ってたのに、その後何冊か結局読んだ中で
「少年が来る」がすごく大事な本になった。
内容のつらさは同じだけど、それ以上に繊細さが優しさになってるところで何度も泣いた。
この「白い」も、短い章立てで、詩とも散文とも言えそうだけど、
その繊細さは健在で、やはりところどころ泣かされる。
静かで繊細な文でした。

今までのこの作者の本では感じなかったことだけど、この本を読んでると、
いつかすっかり忘れた頃に、この中にある文章を自分で考えた文章のように
つい同じ表現で書いてしまいそうな箇所がたくさんあるなと思った。
あまりに深く共感して埋没してしまって、その文が自分の骨や身になってしまって、
自分の文か人の文かもうわからなくなってしまうケース。
今じゃないよ。もっと何年も経って。
繊細の極致みたいな作家だからそういうところは自分の描くものとは違うけど、
ほんの部分的に、言い回しとか比喩とかすっとどうかしてしまいそうなところがあって、
いつか無意識にやってしまいそう。

冬に読む本だな。
わたしの胸の中にも霜の花が咲く気がする。

お風呂と教会

2020-03-27 | 本とか
お風呂に何かの端末や、ましてやテレビなどは持って入らないので、
そこは映画館と同じくらい余計な情報のない空間になって、
こんなにストイックながらリラックスできる空間って他に中々ないし、
お風呂はほんと自分の中心を保つのに重要な場所である。
一番静かな中心。

昔、女たちは教会と祈りの中でだけやっと自分を取り戻せたというのを読んだことがある。
そこでの祈りだけが誰かの妻や母でなく、一人の人間になれる静かな時間をくれるからと。
役割や属性を離れる時間は昔も今も大事ね。

役割や属性を離れると残るのは裸の自分ということで、
それ、まさにお風呂のことだな。と思いました。

本を読む

2020-03-25 | 本とか
ちょっと前にも似たようなことを書いたけど、今年に入って本当に
本のことをよく考えている。試行錯誤しながら、もう少し読めるように、もう少し、と。

本や映画で宝物のような文やシーンに出会うのは本当に素晴らしいけど、
今もまだ本を読むのは楽ではない。
鬱で文が読めなくなって以来、読んでいる時には幸せと苦痛が常に一緒にある。
体力がないのに走り続けてる感じ。
体力があって走り続けられた子供の頃が懐かしいな。
たまに苦痛を忘れるいい瞬間はあって、その瞬間のために読んでいるようなものですね。
知りたいものと触れたいものと味わいたいもののある本を目の前にしても、
読むということにはまだ苦痛がある。
無理やり何処かからわずかな集中力を寄せ集めて、それをすり減らしながら読みます。

読めなかった時期は、その集中力の元になる気力がゼロだったので、
簡単な文でも、何度繰り返し読んでも、何が書いてあるのか意味が分からなくなってた。
今はなんとか読める。でも鬱になるまでは何の苦労も苦痛もなく読めたのになぁ。
楽しさしかなかったのにな。そう思うとなくしたものは多い。

30代終わり頃から40代半ばくらいまで、読めなくて苦労した。
途中、通信の大学行って、通信ってとにかく読んで書かないと単位貰えないし、大変だったなぁ。
40代後半から少しずつ読めるようになってきたけど、元どおりにはならない。
でも、全く読めなかった時より100倍マシ。
ということを、少し関わることになった某総合誌をやっと読みながら思い出した。
この本、随分前から放置してたけど、今見ると中々良い本ではないか、と。

買っても読めないので何年もあまり本を買わないようにしてたのを、最近やっと自分に解禁した。
せめて夢の中で、その頃のように無傷な集中力で苦痛なくすいすいと読む時間を取り戻したい。

本を読むことあれこれ

2020-03-06 | 本とか
子供の頃、駅からうちまで結構長くきつい坂道で、
しかもすっごくつまんない新興住宅地だったので
上りの帰り道は本読むしかなくて(まだウォークマンとかもなかった頃だからね)
いつも本読みながら歩いてたら、近所の人に二宮金次郎さんとよく呼ばれた。
往復3時間くらいの学校に通ってた中高時代。
この頃はいくらでも読めたなぁ。

見た映画は数えてるし、感想も書くのに読んだ本のことはあまりなにもしてなくて、
そんなに読んでないしなと思ってたけど、今年に入って積ん読解消リストを作って
記録するようにしたら自分で思ったよりいっぱい読んでて自分で驚く。
こんなことも記録つけないとわかんないことになってたのね。
知らんうちに読み終わってて覚えてない本も多い。
読み終わってもずっと忘れない本ばかり読みたいけど、
映画でも途中では出ないし、本もつまんなくても結局最後まで読んでしまって、
そういうところが、わたしのだめなところかな。思い切れないところ。

買っても読めないので、本屋に近づかないように、本を増やさないように、
ここ10年くらいかなりストイックにしてきたけど、
なんとなく今年に入って解禁してみて、職場徒歩30秒の本屋でずるずると買い始めたら
積読の山の育つスピードがすごいことになってる上に
人が貸してくれる本もあるのでどうしたらというか、
本棚を増やすというのは解決策としてどうなんでしょうか。
本棚増やすから大丈夫、なはずと言い訳してるけど、きっとまた足りなくなるよね。
本を読むスピードは遅くて、今の生活ならせいぜい月に5冊くらいかな。
映画見るのやめればもう2冊、Twitterやめればもう5冊読めるかもと思う。
1月2月は10冊ずつくらい読めてたけど、このままコンスタントに
毎月10冊くらい読めるようになったら、若い頃に戻った気分になるだろうな。
時間と生活を工夫して読む時間を増やしてみよう。

最近本屋さんの書いた本屋さんについての本を続けて何冊か読んだら
本屋の棚の見方が少し変わったというか、
棚を一歩引いて見られる気がしてきたんだけど、
本が読めなくなって本屋にも寄らなくなっていた長い時間の霧が
少し晴れてきたような感じだな、これ。ああ、見える!なんかわかる!って感じ。
学生時代に本屋が楽しくて仕方ない特別な場所だった頃のことを、
何十年かぶりに少し思い出しつつあるのかなと希望が出てきました。

「画家たちの戦争責任」

2020-02-25 | 本とか
少し前に、94歳の女性の講演を聞いて来たところ、という人と飲んでて、
その女性の書かれた本を、お先にどうぞと貸してくれたので読みました。
北村小夜さんという方の書かれた戦争絵画と画家たちについての本で、
藤田嗣治の「アッツ島玉砕」を通して考えると副題がついてる。
戦意高揚的絵画を描いた藤田嗣治にずっともやもやした気持ちがあったのが、
これ読んだら整理されてすっきりするかなと読み始めた。

2006年くらいの多分京都の展示で藤田の「アッツ島玉砕」の絵は見たと思う。
その後藤田をモデルにした映画も見たし、映画の後の監督トークも聞いた。
さらに一昨年くらいにもまた京都で藤田嗣治展を見た。
そして藤田に対してもやもやを募らせていたのですが、結果的にこの本は
わたしの気持ちを鮮やかに代弁してくれていました。
本の文章は淡々と描かれていますが、
わたしは全くほんまやで!と一緒に怒りたい気持ちになりました。

著者は1925年生まれ、戦時中は大変な軍国少女でだったということで、
子どもたちは大人以上に増長し熱心に戦争に向かった、というところから始まる。

わたしは子どもは被害者、と深く考えもせず信じてきたし、それはやはりそうだろうけど、
でもそれだけで、被害者として済ませるべきではないのかもしれないなと初めて思った。
無垢で純粋で無知で無自覚な被害者でも、被害者としてだけとらえるべきではないのかも・・・
この著者のように、その時代を身にしみて知っている人が
数十年かけてその時代を俯瞰しつつ、当時の自分を振り返り
反省と贖罪の気持ちに突き動かされて研究し本を書き講演するようなことは、
戦後いまだにあの戦争の総括も反省も終わってない日本ではもうほとんどないでしょう。
戦争の最中に大人よりずっぽりと軍国主義に染まり、
大人たちの愛国や戦意を足りない、手ぬるいと糾弾する子供だった著者が
それを個人の後悔や反省で終わらせず、なぜそうなったのか考え総括して書かれた本です。

さて、藤田嗣治の戦争絵画に関してですが、その中でも代表作のアッツ島の絵は
戦意高揚絵画に見えない、むしろ反戦画に見えると今の人が見て言うのを、違うと言います。
1943年国民総力決戦美術展でこの絵を見て、その悲惨さに、くじけずに一層頑張るのだ!
覚悟し敵愾心を燃やし仇を打たねば!と心に誓ったと、
戦時中の軍国少女だった作者自ら書いています。
当時はみんなそうだったのだと、そこにいたひとりとして真実を書いてる。
その後、加藤周一が藤田は戦争の悲惨さを描いたのだ、
戦意高揚の気配もないと評しましたが
確かに今見ると反戦絵画にも見ることができる絵であっても、それは歴史歪曲の嘘だと。

そもそも藤田自身が「戦意高揚に役立つ幸せ」というようなことを戦時中に書いてて、
軍に守られながら安全な場所でのうのうと悲惨な絵を軍からの依頼ではなく自主的に
想像画として描き、兵士の死を正義に、人々のバンザイクリフでの自決を美化し、
それによって感動を与えたいと思っていたのですよ。

藤田は、戦後すぐに手のひら返してアメリカ占領軍の戦争画収集に協力してるし、
その後の世間からの戦犯画家扱いに怒って1949年3月に出国、フランスへ行ってる。
そして自分への反省もなく、自分を責めた世間に怒って
「絵描きは絵だけ描いてて下さい」という芸術至上主義的なノンポリぶりで
「画家は本来自由愛好者で軍国主義者であろうはずもない」と見苦しい言い訳してます。
戦後すぐの9月に藤田の疎開先で書類や本を焼く炎が1日あがっていたという証言があり
証拠隠しに様々のものを燃やしたのではという疑いもあります。
この気楽な傍観者、自分と芸術のことしか頭になくて、
それが当然の権利だと思っていた卑怯なエゴイストめ・・・。

さらに彼の日本出国のせいで戦争画議論を停滞させたという罪もある。
戦時中1941ー45年は日本の画壇では空白の時期のようにされているけど、
実は帯びただしい数の戦争画が描かれていて、
催される戦争画店は大盛況だったのが、戦後に隠蔽されてた時期があったことや、
他の画家についても少し言及されてました。
たとえば横山大観。国民的大家だと思いますが、
朝日や富士の絵で国民を扇動する間接的戦争画の代表と言える国粋主義者で
絵の売り上げを寄付し戦闘機を買って献納したりしてます。(名前は「愛國445(大観)」号)
藤田の写実以上に国民に訴えたにも関わらず、藤田と違って糾弾されず
戦後も地位を保ち栄光の中描きつづけ、勲章などももらってますね。
そこで著者は「戦前は続いている」と言います。
戦争の反省なく、戦犯容疑者に名誉を与え続けたわけですから、
何もきちんと終わってないじゃないかと。

ただ、少数派でしょうが戦時中戦争に協力しなかった画家や作品もあります。
シベリア帰りの香月泰男のシベリアシリーズは有名だと思います。
弾丸の来ないところで豊かな資料と庇護のもと絵を描いた藤田のような戦争画とは別物です。
あと、この本を読んだ数日後にわたしが伊丹市立美術館で見た浅野竹二展で、
彼が特高に捕まった話なども読んで感心しました。
こういう立派な人たちより藤田の方がずっと有名ですけどね・・・。

本の後半には、日本がまた近年愛国教育などを取り戻してきている過程も描かれてます。
教育における道徳や音楽の扱いの変化について、たとえば「われは海の子」の歌。
これ、わたしも小学校で教わったし、大らかな童謡と思ってたけど
最後の段は「いで、軍艦に乗り組みて、我は護らん、海の国」ですよ。
教科書にはそこまで載りませんが、元々イケイケ戦えお国のためにという歌だったとは…
さらに最近は、君が代の強制指導というのもありますね。憲法違反じゃないのそれ?
山田耕筰は「音楽は軍需品なり」と言ったそうです。まさに。まさに。
それを戦後何十年かそろそろと進めてきている、とても嫌な気配がします。

「今日のこのぶざまさは、戦後70年誰の戦争責任も問わずに来たせいだ」と
94歳の、戦争を知っていていまだに講演を続けている著者は言います。
そして終戦を満州で迎えたけど、その後の自分の引き揚げの苦労は語らないのです。
引き揚げは侵略者として赴いたから起こったことであるから、語るなら
先に侵略の実態をきちんと語ってからでなければならないと思っていると。
自国の侵略の歴史を認めない人が多い中で、なんと真っ当な人だろう。

そして、これだけ色々描いたけど、わたし
藤田の絵自体はやっぱり嫌いなわけじゃないんですよねぇ。うーん。うーん。
怒りながら藤田について何度書いてきたことか。過去のいくつかのブログです…
古いものから順に、リンク貼りました。
・映画「FOUJITA」と小栗監督トーク
・森山大道とFOUJITA
・戦後50年藤田嗣治展

「しらふで生きる」

2020-02-18 | 本とか
町田康好きだし、わたしも最近飲みすぎかしらんと思うことが増えたので読んでみた。

目次からキョーレツである。

しかし町田康って久しぶりに読むとやっぱおもしろー!と思うのに、
いつも30ページくらいで飽きてしまう。すみません。
でもこのグダグダくねくねした文体って面白いけどみんなずっと飽きずに読めるのかな。

この本は目次と最初の数ページと最後の10ページほどを読めばいい気がします。
最初の前提のところ、なぜお酒をやめるかはぼんやりしたまま
お酒をめるためにはどう考えどう変わればいいかを延々と考察してるだけなので
ダルくて終わりにくるまで随分時間がかかったけど、
最後の10ページほどででお酒をやめてよかったことを語り始めたら
なんだか急にわたしも改心?しそうになったので、実はよくできた本なのかも。

なんか今更だし多方面から怒られそうだけど、
わたしタバコもお酒も体質に合ってないと思うんですよ。
この本のほとんどがいくら読んでもお酒の素晴らしさが書いてあるだけに見えるんだけど
(町田康は長年泥酔生活の後これを書いた時点では1年以上1滴も飲んでないけど
 まあ町田康だし)
我が身を振り返り最近の二日酔いのつらさを思うと、これは考えた方がいいのかとふと。
そう思うと効果あるのかもこの本?笑

町田康の断酒は、1日欠かさずの泥酔が完全に習慣化してるところからの断酒なので
節酒という選択肢はもう無理で、極端な断酒になるしかないようだけど、
わたしは飲まない日も普通にあるのでそこまでしないでいいはずで、
でも節酒はした方がいいのかなと、ちょっと思ってしまった。
父も、母方の叔父も祖母もみんな心臓で亡くなってるので、わたしが心配すべきはそこで、
肝臓も糖尿もあんまり心配してないんだけどね。
(息子の髪に関しては父方見ても母方見てもあれなので、心配しているけど)

途中のごちゃごちゃの考察に関して丁寧に描かれている書評。



田中小実昌とトーベ・ヤンソン

2020-01-02 | 本とか
以前友達が、「酒呑まれ」という文庫本をプレゼントしてくれて面白く読んだのですが、
酒呑みの本といえば、ふらふらとバスに乗って、ほよんといろんなことを考え
夜はお酒を飲んで、という田中小実昌の本を思い出す。
日本にいるときは昼間は試写で映画を2本くらい見て夜は飲むみたいな毎日だったかな。
それは羨ましくて、ちょっとコミさんになりたかった。
平日は試写の映画を2本見て週末はバスに乗る生活というだけなら、
仕事を辞めたらできるかな。
試写には呼ばれないけど自分で払って見ればいいや。
生まれ変わったらトーベ・ヤンソンになる予定だったけど、
思いがけず父が死んで自由になって、わたしももう今にも生まれ変わりそうなのに
トーベ・ヤンソンはまだ遠く、
とりあえずコミさんになるかと本棚を探してるんだけど見当たらないのよねこれが。
うちの中のどこかにあるはずなのに探せない。

コミさんは外国でもバスに乗るけどわたしは外国ではバスは難しい。
尋常でない方向音痴なので乗ってるうちにわからなくなって
何もないような場所で降りて帰りのバスがもうないなんてことになるのが怖い。
若い頃フランスでそう言うことがありました。バスがどんどん郊外へ行き
人気のない殺風景で埃っぽい工場地帯みたいなところが続いて、
これどうやって帰ればいいんだろうとこわかったことが。
それ以来、外国の知らない街であてずっぽうにバスに乗るのは少し怖くなってしまった。
バス自体は好きなので、日本ではわりとバスに乗るんだけど、
知らない土地だとやっぱりどきどきする。
コミさんに、禿げたおじいさんになったら、どきどきせずに知らないバスに乗れるかな。
でも飄々と禿げたおじいさんになるのは、トーベ・ヤンソンになるより難しいかもしれない。

「むらさきのスカートの女」

2019-12-01 | 本とか
友達に借りました。人に借りると、返さなきゃと思って早く読める。
でもそんな心配ないくらい、あっという間に読んでしまった。
文庫になったら買います。(お金とスペースの都合・・・)

初めて読んだ「こちらあみ子」に衝撃を受けて
あらゆる場所であらゆる人に薦めまくり、これは何人かの人が読んでくれました。
でもまだ足りないくらい好きだわー。読後感は全然良くないんだけどね。
この人の小説はどれもだいたい、どこかおさまりの悪い気味の悪い話なんだけど、
それも含めて日本の小説を読む至福を与えてくれる。
人間というもののこの不気味な機微を書いて期待を裏切らずそれぞれ好きなんだけど
「むらさきのスカートの女」は他の話よりだいぶ普通の日常に近い話で、
怖くて切なくて寂しくて空虚でこんがらがってて
そしてラストの方では今までとは違う、ある意味とても小説らしい仕掛けになってて
良くも悪くも、この寡作な作家は別の次元に入ったのかなという気がしました。
すでに次の作品が楽しみだけど、ゆっくり書いていってほしいと思います。

内容的には、この書評にうまくまとめられていますが
ラストの解釈は人それぞれかなぁ。

「短編画廊」

2019-11-30 | 本とか
エドワード・ホッパーの17枚の絵で17の短編というのはすごくいい企画と思うけど
表紙の無駄にデコラティブなタイトル文字デザインだけは、ちょっとやりすぎと思う。
アメリカ版のデザインはどんなかな。

紙も良くて印刷もいい気持ちのいい本です。
何度も絵を見ながら、それぞれの短編を読んで、改めてエドワード・ホッパーの絵が
ちょっとクラシックな現代アメリカの短編小説とものすごく馴染むことにも感心。
かなり楽しく読んだ。
毛色の違う話の集まったアンソロジーでも、ホッパーの絵が付かず離れずまとめてくれるし
若い頃はアメリカの短編は少し遠いよその世界で嫌いじゃないのに
自分とは距離があったけど、今読むとなんかすごく近くなってきたなぁとも思った。
世界が縮まったしわたしが広がったのかな。

ホッパーの絵がそうさせるのか、推理小説や探偵物っぽいのが多かったけど
一番好きだったのは、幻想的なお話。
部屋がどんどん増えるので実像がつかめない家に住む人と料理人、
ドアを開けると海の上という部屋、水陸両生で二度死ぬという古のバスク人の子孫。
海辺の部屋というホッパーの絵と見事に呼応していて、
その屋敷のことを映画でみたように思い浮かべることができました。

横尾忠則さんの書評。


ベッドで寝転んで毎日一編ずつくらい読みましたが
寝転んで、枕の上に本を乗せて読んでいるといつも猫が枕の横に来て
うとうとするのが、かわいくて、仕事が終わったらはやく帰って読むのが楽しみでした。

「わたしを空腹にしないほうがいい」

2019-11-20 | 本とか
あなたが書いたみたいな本と言われた本を、なんとたまたま偶然
その日にわたしも別の場所で買ってたので、
それを読むとほんとにその通りなので、なんかムカつく。
文体はぜんぜん違うし書いてる人は息子くらいの年なんですけど、中身が、
いちいちわたしが書いたのか!と思うような相似具合で、もう
2ページに一回くらい、わたしか!と思ってムカつく。笑

たとえばこれ。ビアガーデンの話。

文体を変えれば、まるっきりわたしの普段のブログである。
外で飲むお酒の至福、小さなベランダで無理やり立ち飲む満足、
乾杯と言いながらその言葉のPの音について考える。まるで自分だ。

そしてこれ。

美味しいものを作って食べながら、すっかり王になった気分だと、ここで
少し大げさな王と言う言葉が出てくるところ、やっぱりわたしだ。

「自分がどれだけ書くことと料理をすることに救われているのかわかっておどろく」
というこの人の文章が、自分と似るのは仕方ないことなのかもしれない。

ただこの人はまだとても若く、わたしが半世紀以上かかってやっと手に入れたものを
当たり前のように手にして生きていて、それにわたしは嫉妬するのだろう。
暖かな家族、友達、恋愛、希望や未来、失敗や挫折も含めて、自分の生活を、自分の人生を、
自分で進めることのできる自由。
自分の人生が大体自分のものになったとき、わたしはもう50歳だった。
親に軟禁されたり就職させてもらえなかったり結婚させられたりしなかった場合の、
のびのび育った異次元の自分か、これ、と思って、嫉妬するんだろうなぁ。


岸本佐知子さんトーク

2019-10-22 | 本とか
翻訳家の話を聞く。
去年くらいからできるだけたくさんいろんな人のトークを聞くようにしてるけど、
結局、作家と写真家に偏ってるかな。まあ偏るのは仕方ないけど。
映画監督のトークも、最近聴いてないな。俳優のトークは、まあいいかと思うことが多い。
映画の内容についてや撮影秘話的なものは面白くても、もっと内側の自分の言葉
自分の生活、自分の人生が面白いのは、やはり作家かな。
人の話をだまって聞くのは、つい自分のことでいっぱいになってしまう自分にとって、
落ち着いて考えるためのよい訓練でもあります。
読書会もそういうところがあるな。つい熱弁しそうになるけど(たまにしてしまうけど)。

岸本佐知子さんは、好きな翻訳家ですが、エッセイがまた面白いのです。
なんだかぐにょぐにょとした異世界にどんどん入って言ってしまうタイプで
スーパーの列に並ぶだけの話でも共感とバカバカしい笑いと不思議が渾然一体。
昨年だったか、、ミランダ・ジュライの長編小説「最初の悪い男」の発刊後のトークで
津村記久子さんとのトークがあって、それにも行ったのですが
その時は津村さんの大阪弁こてこてマイペースの喋りが強くて
岸本さんの印象が薄かった。津村さんの小説もいくつか読んだし面白い人で好きですが
圧倒的に声が大きい人なんですよね。音量的ということではなく、声の文字が太い。
インパクトがあってキャッチーというか、シャープな声で大きな文字で
主役の場所からネタになる話をどんどん繰り出す感じがするけど(それも面白かったけど)、
岸本さんはもっと線が細い。柔らかい声で、真ん中に出ていかないままで、
でも何か聞かれるといくらでも話すことが出てくる感じ。
じっくり聴けば聴くほど面白い人ですね。こういう人が好き。

でも今回のトークで、いい聞き手である編集者の方を相手に存分に話すのを聞いて
こういう面白さの方がわたしは好きだなぁと思ったのでした。
ぱっと前後がなくてもわかりやすい面白さやノリではなく、
話を聞いていると、どんどんいくらでも面白いものがもしゃもしゃと出てくる感じ。
今回のトークはショーン・タンの新刊の訳の話が中心だったんだけど
最近訳されたルシア・ベルリン作の「掃除婦のための手引き書」についても話されてて
この本買ってあるけどまだ読んでないわたしは、早く読みたくなってうずうずした。
本当に優れた作品のようで、すごい評判がいいし(これ書いてる時点でまだ積読中・・・)
それから岸本さんご本人の生活や翻訳についての話もたくさん聞けて、ほんと面白かった。
津村記久子さんと違って、話す声の文字が細い感じの人なんだけど
だからといって内容が薄いわけでも少ないわけでもないんですよね。
辞書にない言葉を探すためにこそ、辞書をどんどん引けと言われた話、
ショーン・タンの描く移民の目は世界をまだよく知らない子供の目と同じなのだという話、
(移民や異邦人の目は生まれて数年しか経ってない子供と似ている、彼らには世界は不思議なんです)
翻訳は言葉を言葉に訳すのではなく、言葉で表している何か
イメージの連続のような何かを、別の言葉にする作業なのだという話。
普段の生活や最近凝ってるもの、煮詰まった時にするグニャグニャ踊り・・・。
ご本人、すごくチャーミングな雰囲気の方で、写真で見た高野文子さんに似てるかな。
すごい好きだわ。ファンです。

京都のモンターグブックストアという、翻訳書ばかり扱っている本屋さんのイベントで
そのときJR京都構内の美術館「えき」のショーン・タン展のチケットがもらえたので
それも帰りに見に行きました。

自分の好みではないのですが、それにしても大変素晴らしいです。すごいいい。
彼の絵本などの仕事とは少し毛色の違う、アクリル絵具でいろんな街の情景を描いた
サムホールサイズのシリーズは、もうすごい好みで大好きでした。
なんでもない街角の絵ですが、熟練の写真家の街のスナップのような雰囲気がある。
巨匠写真家の良いスナップ写真と同じ種類の感動と、絵の良さと両方あった。良い。
そしてこれは京都のためにかいてくれた1枚で唯一撮影可だったもの。かわいいね。

トニ・モリスン:『青い眼がほしい』と『「他者」の起源』

2019-10-06 | 本とか
亡くなりましたね。
日本では一般にはさほど知られてなかった気がするけど
なんか「一般」って一体どういうとこらへんかよくわからないので、
有名だったと言われればそうかなと思うけど、そうなのかな?

30年以上前、大学で英米文学の専攻だったのですが
その頃の先生たちはまだ年配の男性が多かった中、やや若めの女性の先生がいて
そのクラスでは公民権運動に関連した映画や本をいろいろ紹介されました。
アリス・ウォーカー原作の「カラー・パープル」が映画化された頃で
その映画はものすごく泣きながら見たけど、原作もおんおん泣きながら読んだのを覚えてます。
自分自身がもうありえない家父長制の家ですごい抑圧の下にいて
辛くて苦しい毎日だったので、差別の問題、特に女性のつらさに共感したのでした。
その時、一緒に読むよう言われたのがトニ・モリソンの「青い眼がほしい」でした。
登場人物の背景や人生、その親の人生などを淡々と描写していく小説で
途中誰が誰の親だっけ?娘だっけ?と混乱するところもあって読みにくかった。
文章が濃いせいもあるし、全然エンターテイメントでなかったせいもありますね。
でもその後随分経って「ビラブド」を読んで圧倒されてぶっ飛んだので
この作家の本は少しずつでももっと読まないといけないと思ったのでした。
でも何しろ濃くてヘヴィなので一冊読むと疲労困憊で次が読めずそのままだった。

西加奈子さんの追悼記事

そして、この本の読書会があると聞き、何十年かぶりに読みかえして参加してきたけど
すごくいい読書会でした。理解が深まるとはこういうことだなぁと。
自分にはなかった優しい視点を知って反省したり、自分の中の怒りを確認したり、
ひとりひとりの人物に対して、しっかり向き合うことができた気がする。
全く違うな、と最後まで思う意見の人もいたけど、それもまたよしと後で振り返ると思います。
自分の好きなもの感動しているものに対して、他の人の別の考え方や理解の仕方が
全然違う、間違ってると思うことは時々あっても、否定はしないというのがこの読書会で、
そもそもこんな大変な本を、ちゃんと読んできた人たちと喋れるという幸せ。
普通に自分の周りでこの本を読んだ人ほとんどいないもん。ありがたい。

読書会の前に、ああ地球の財産がひとつ亡くなってしまったなぁと悲しく思いながら
読んだのが、最近出た小説じゃない本「他者の起源」でした。ハーバードでの講義録です。

薄い本なので割とさっと読めたけど、結構難しい。
でも後半の、自分の小説を引用しながらの部分は、やはり面白いし、
訳者解説がとても親切でわかりやすかった。

モリスンは黒人差別について語っているのだけど、
この「文学」を「芸術」に置き換えても通じるところはあると、
あいちトリエンナーレの騒ぎを見て思う。なんでも何かに繋がってるよなぁ。
文学はそのようなイデオロギーとは関係なく普遍的でなければならないという批判があるかも知れません。けれどもモリスンはそのような考えは間違いであると断言します。人種に惑わされないアメリカ文学などありえない。人種イデオロギーを無視すれば、それは「文学のロボトミー化」(『暗闇』)であり文学を矮小化することになると批判します。

「図書室」

2019-10-03 | 本とか
この写真も岸さんということで、
「断片的なものの社会学」の時の写真家の写真と似てるけど、良いね。

読み始めた時は、こまごまと感想がわいてきて中々進まなかった。
岸さんの小説はいいと思うけど今まで少し自分から遠かったのが、
これはなんだか近すぎてイラっとするのよねえ(褒めてる)。
自分は主人公には全然似てなくて、
自分にはなかった少女時代とその後のやはり自分にはなかった人生の、
なかったのに、あったかもしれない人生が妙に近く感じられて。
自分には自分の人生みたいなのが最近までずっと欠けてたから、
羨ましくてイラっとするのかなぁ。
たとえばわたしは50を過ぎて初めておそるおそる猫を飼ったけど、
小さい時からわやわやと猫がいたこの少女が遠くて近くて、イラっと。
梅田で紀伊国屋かジュンク堂によって本を買って、と考えながら
ゆっくりひとりコーヒーを飲む大人の主人公も、
わたしが何十年もかかってやっと数年前に手に入れたものを
当たり前のように持ってるので、羨ましくてイラッとするのか?
集中できない時の本が、大好きな本でさえ、カラフルな映画のような世界ではなく
白い紙に黒い虫のようなギザギザの文字があるだけの何かになるところも。
それから小学生の主人公が、同級生の男子を「何ていうか、全体としてみんなバカだった」
というところはわかりすぎて笑った。
そういうディテールにいちいち立ち止まりながら読みました。
前作の「ビニール傘」はいまひとつだったのだけど
(ああいう孤独なんだけど自由な男の視点がどうにも私には遠いのです・・・)
これは立ち止まりながらもぐんぐん読んでしまって
最後の10ページくらいはなんか泣きながら読みました。

主人公の女性はわたしと同じくらいの年だけど、結局、彼女の今も子供時代も、
自分と似たところも共通点も特に共感できるところもないのに、
自分が自分でなかったら自分はこうだったかもしれないという不思議なリアリティというか
身近さを感じたのでした。「ビニール傘」と違ってとても近い。
うまく言えないけど、岸さんは11歳の女の子だった時があるのだろうか、
あるのかもなとも思った。
少女の一人称小説を読むと、自分の少女時代が不幸すぎて
小説の中の少女が幸せでも不幸でもなにか微妙にイラっとするところがいつもあるのに
「図書室」にはなくて、この大阪弁の子ども二人の会話を延々と永遠に聴いていたい
読んでいたい気持ちがしたのでした。
そして、静かに泣きながら読み終わった時に、
すぐそばで動かずこっちを丸い目でじっと見ているうちの猫が
すごく大事な気持ちになりました。そういう小説。猫もいろいろ出てくる。

もう一編収められている、岸さんの自伝的小説?は、
もっと冷めた目で読んでしまったかもしれない。
古き良き日々、グッドオールドデイズを抱えている男の話が、
その時代にも辛いばかりだった女としては、お気楽だなぁと思えて。
ごく個人的なノスタルジーにもやもやするのはどうかと思うし、
岸さんのような人生も体験もわたしには全くできないのですが、
バブル時代を懐かしむノスタルジーって、そこで苦しんでた者には釈然としないのよね。
大体、男の持つ「古き良き時代」ノスタルジーってもやもやすることが多い。
そのノスタルジーや孤独がどんなに甘く切実であっても、なんだかなぁと思う。
お気楽だった者の特権だよな、生ぬるいな、というか・・・
いや、わたしの方がよっぽど生ぬるいのにえらそうですみません。ファンなんですけどね。

まがり書房

2019-09-30 | 本とか
自転車で行ける距離の隣町に小さい本屋さんができたと聞いたのは2年ほど前か。
それからツイッターなどでちょっと行ってきたみたいなのを見て、
忘れる前に一度行かなくては!と、とあるギャラリーに行った帰りに探して行きました。
大きめの通りを少し外れて、さらにもう一つ外れたところにありました。
最近まで?土日祝しかあいてなかったので中々行けなかったけど、やっと行けてうれしい。

店内は店主の男性が静かに店番をしています。

でもなんかこの日、結構お客さんが多くて繁盛してた気がする。
いやいつも暇なんですよ、とお店の方はいいそうだけど。

入り口にはかわいいのぼり?が。

そして俳句が書かれてて、これって毎日こしらえて書いてるんだろうか?

入り口に書かれてた今日の一句は「長針が指すヘルベチカ長き夜」でした。

お店の中にはゴンチチが流れてて、お店の人もウクレレ触ってたので、
このCDわたし持ってるとか話してたら、
ゴンチチのチチ松村さんがいらして買い物されたのに、
チチさん本人のSNSで自分の店を見るまで気づかなかった、という話を聞きました。
ずっとファンなのに気づかなかったとはなんたる不覚、なんたる失態、と。笑
でもなんかそういうエピソードが似合う気がする。
小さい本屋さんですが、おしゃれすぎず、尖りすぎず、肩のこらない感じが落ち着きます。
それで、なんだかついついたくさん買ってしまった。

そのあと、電車の同じ路線のテラスのある映画館で次に見る映画までのあいだ、
買った本を見ながらビール。至福でござった。