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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「三の酉」

2020-12-26 | 本とか
11月のある日、昼休みを長めにもらって久保田万太郎の短編を伊丹の蕎麦屋で聴いた。
三島の金閣寺と同時に読売文学賞を受賞した『三の酉』
30分くらいの短編の朗読やリーディングは疲れなくてよく味わえてとてもいいな。

最初に美味しいお蕎麦としらす丼のセットをいただきます。
日本酒が飲みたくなるけど、午後にまた仕事に戻るので我慢。
それから二階に移動して照明を落とした部屋で
男女一人ずつのリーディング形式の舞台を楽しみました。

男の方は、蕎麦屋へ向かう道でお見かけして印象的なダンディな殿方だなと思って
記憶に残ってたその人で、ああやっぱり役者さんって雰囲気があるよねぇと思った。
女性は華奢できれいな着物の方で、とても涼やかな声をされてる。
複数でのリーディング形式の舞台を初めて聴いたけど、すごく良くて気に入りました。

お話は毎年11月の酉の日に開催される酉の市を楽しみにしている芸者と
そのなじみ客との会話で進みます。
酉の市は12日ごとにあるので三の酉まである年もあり、
これはそれについての会話劇で、ラストのオチは想像できたけど
暖かいような物悲しいようなお話でした。
作者の久保田万太郎が、三島由紀夫の金閣寺と同時受賞で読売文学賞を取った作品ですが
読売文学賞の小説部門は、室生犀星、佐藤春夫、井伏鱒二、大岡昇平などがいますね。
「金閣寺」に比べると、いつか古典になっていくようなタイプの作品ではなく
自分の生まれ育った浅草を舞台にした小説ばかりの、今は読まれなくなった作家のようです。
作家自身の人生も、あまり幸せじゃなかったみたいだけど
女性に関しては結構ひどい男だったっぽくてちょっと自業自得に感じます。笑
彼の句をふたつ置いておきます。

わが胸にすむ人ひとり冬の梅

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

「1982年生まれキム・ジヨン」

2020-11-11 | 本とか
こんな話読まなくてもわかるし今更だし別に〜としばらく買わずにいたのですが、
とうとう買って読んだのは昨年末頃。
そして、わかってて知ってることしか書いてないのに、30ページ目ですでに涙ぼろぼろでした。

キム・ジヨンという女性が心を病むまで、子供時代から学生時代、就職、結婚と
彼女の人生に何が起こってきたのかを精神科医が書き取っているという体裁なのですが
彼女が傷ついたいろいろなことはどれも、すごくリアルに現実的で
日本の女性でも誰でも、うんうん、そういうのあったあった、と思うようなこと。
でもあまりに当たり前になっていて傷ついていいとさえ思えない人も多いと思う。
キム・ジヨン自身も心のモヤモヤを抱えながら大きな声で泣くのではなく、
世の中ってこんなもん、よくあること、となんとか折り合って生きてきたのです。
いや、そうやって生きてきたように見えて、実際はしっかり傷ついていて
とうとう心を病んでしまったのですが。

これ、男性が読んで少しでもわかるんだろうか。
わたしがわかることを、弟が読んでわかるんだろうか。わからない人も多いだろうなー。
生まれた時から特別扱いされてたら、それが特別扱いだということさえ気づかないからね、
悪気などなくても。
夜に泣くと翌朝の目が腫れるので、もう読めない。
淡々と、よく知ってる事実が書かれてあるだけなんだけど。

読んでてずっとつらい本でした。
大学から就職するあたりなどは、子ども時代の共感のつらさではなく、
ここに描かれているまだまだひどい男尊女卑社会が、それでも自分の時より遥かにマシなので、
自分がかわいそうになってつらい、というつまらない自己憐憫。

どちらかというと、主人公の母親がわたしには近いと思う。世代的にも。
主人公を守ろうとするととてもいい母親なのですが、
男尊女卑社会のシステムを自分では破れなくて、でも
その中にずっといながらも、娘たちが破るのは積極的に応援して励まし守ろうとする。
その世代にわたしは近いです。
若い時ほんとつらかったなー。すぐ忘れるけどたまに思い出すと今でもつらいしきついし
思い出したくないけど、頑張って読みました。
ああつらい。つらい。いろいろ思い出してつらい。つらいしか言えない。
伊東順子さんの解説でもまた泣ける。ほんとみんな読むといい。どこの日本?って話だから。
こまごまと言いたいことはたくさんあるけどつらいのでしばらく寝かせてからまた感想を書こう。

男の人も、社会の中でこれだけの差別を受けているのが自分の娘だったらと思うと
つらいみたいなことを言う人は多いようだけど、自分だったらとは考えないのねぇ…と思う。
女性はみんな自分のこととして読み共感するわけだけど。そこよね・・・。

この本で読書会をしたら、それぞれの女性の個人的体験で話がすごく長引くだろう。
それを有意義と思うかどうかは人によるかもしれないけど、
そういう語りたいつらい体験を持ち寄る人たちにとってはきっと有意義だと思って
やろうとしたけど、新型コロナで中止になりました。
いつかやりたいけど。

芥川賞

2020-10-27 | 本とか
芥川賞受賞の「破局」を朝、出社前に読んだ。とても面白かった。
主人公の一人称で語られるけど、この主人公とそっくりの書き方話し方をする人を知ってて、
ちょっとなるほどなぁと思う。
その人は主人公のように完璧に自分を律して世の中の常識に形だけは要領良く適応する、
ということはできない人で、むしろ非常に不器用な人だけど本当にそっくりの文章なのです。
自分の本当の感情を表すのに作った言葉でしか語れなくて
正確で情緒を廃した文章なのに、その正確さがむしろぎこちなさを感じさせるような。
小説の主人公の破綻は鮮烈だけど、わたしの知り合いの破綻は
多分最初からじわじわと続いてきてるものなので、主人公のようなことにはならない、はず。

「破局」は作者が若い人なので結構話題になってて、読みやすく面白いかと思ったし、
実際それはそうだったけど、この回の芥川賞のもうひとつの方を読み終わってみると、
こっちの方が好きでした。「首里の馬」。
これは情報量というか、含まれてる要素がすごくカラフルというか多様で、
奥行きが深く複雑で、ちょっと時間をおかないと全部掴めない感じだけど
豊穣と呼んでいいような、でももう少し柔らかく透明な世界がある気がしました。
全体の内容に比べるとラストのまとめ方はやや単調な感じもするけど、
これだけの要素を詰め込みながら
いくつもの孤独が何らかの静かなつながりを持たせて描かれていて、
導入の地味な感じがこうなっていくかと驚かされた。

文芸誌を買うことはあまりなく、芥川賞受賞作も滅多に読まないけど
今回のは楽しく読めた。
もっとまめに毎回読んで行こうかなぁ。

「人生最後のご馳走」

2020-10-22 | 本とか
善意の塊のような本を読んでても、中に出てくる戦争へ行ったお年寄りが、
戦場での友情を懐かしんだりするセリフがあると、
侵略戦争した側は加害の自覚もなく、自分たちの苦労だけを慰めあって、
お気楽でいいわねぇ、と意地悪な気持ちになる。
たとえばヒトラー万歳と言ってナチスにいた人は今その頃の話を、
いやぁ大変だったよなー、俺たち苦労したよなーなどという
自分の懐かしい苦労話にはできないと思うけど、日本の元軍人はそれをしてきたよね。
天皇陛下万歳と言いながら侵略したり殺したりしたことはなかったことにして、
自分のつらい苦労話や、懐かしく温かい友情話だけをする。

戦時中であれ、過去の友情を懐かしむのはかまわないけど、
侵略戦争は間違ったことだったとわかってれば無邪気に言えないと思うけど・・・。
善意の塊の本の中でも、そういう部分見るとどっと疲れていやになってしまう。
本でなくても、どこを見てもそんなことばかりだけどね。

この本自体はとてもいい本なんです。
末期癌患者が最後の日々を過ごす大阪のとあるホスピスでは、
週に一度患者さんの希望を聞いて好きなものを作ってくれるのですが、
患者さんが食べたいものは人それぞれで、
どの食事にも思い出の物語があって、それについて書かれた本です。
善意の塊しかない本なのに、温かい気持ちで読めない箇所があって
その患者さんを責める気持ちもないんだけど
日本の戦後責任についての納得のいかなさから、悲しくなってしまった。

動かないことば

2020-09-01 | 本とか
幸田文さんの誕生日だとGoogleが教えてくれたので、
今夜のお風呂では幸田文の旅の随筆を少し読んだ。
お風呂では旅の本を読むことが多いですね。
そしてまたその随筆が良くてうなって少ししか読めない。
イーユン・リーなどもそうですが、あまりに文章がいいと
何かが吸い取られるのか、あるいは溢れそうになるのか、
すいすい読み進められなくなる。それはそれで幸せなことなんだけどね。

汽車の中で父親の幸田露伴と出版社主の某さんとの伊豆への旅の帰り、
車窓から桜の花を見ながら不意に某さんが
「若いとき好きになった人はいつまでも忘れませんなあ」と言う。
恋は恋でも淡いものだったようで
「それで、なにもいえずできずで、とうとう包んだままに終わってしまった」
しばらくすると某さんは鼾をかいて寝てしまった。…
「人というものはおもしろいねえ。ほんとの気もちのときには動かないことばを遣うもんだ。
さっき某君は、包んだままに終わったといって不成就の気もちを話したが、
あの包むは動かないことばだな」と、これは文中の、幸田露伴の言葉。

さてわたしは、切実な話をする時に動かないことばを遣っているだろうか。


「旅の手帖」幸田文 平凡社

「わたしのいるところ」

2020-07-28 | 本とか
ジュンパ・ラヒリの、イタリア語で書かれた長編小説ということだけど
連作短編の形式により近い。短い断片が連なって主人公女性やその人生が描かれますが
時系列で物語が進む感じではなく
主人公の「わたし」の日常が、シンプルな文章で淡々と綴られている感じ。
彼女の小説はいくつか読んでいるし、原書(英語)で読んだ短編もあるけど
その彼女が初めてイタリア語で書いた本のことは前に書きました。
→「別の言葉で」
「わたしのいるところ」も、シンプルで淡々とした話に見えるけど、読み進めていくと
この一人称の主人公が中々繊細でクセのある人であることがわかります。

母親、父親、かつて愛して今もたまに街ですれ違う男、友達などが断片的に出てくる
内省的な私小説風の小説ですが、
最初の方は40代後半くらいの主人公に共感するところが多くて
感情移入もしてたけど、後半は彼女が少し遠くなって来た。
かなりはっきりと自分を持っている人で、自分の感情や好悪がはっきりわかっていて
時に結構容赦のない感じや、自分にとって不要なものを冷たく突き放すようなところが、
わたしには少しきつく感じたのでした。
とはいえ、自分の人生や、恋愛についての迷いも多く、失敗や後悔も結構あって
こういう人は少し苦手であっても、嫌いではないなと思うし、
わたしはこんな風にはっきり表せないけど、
結局、裸の自分と重なるところは多いのかもしれません。
今、改めてぱらぱら読み直すと、感じるのは孤独、孤独、また孤独。
どんな人でも、その孤独にはかならずどこかで共鳴してしまう。

彼女のこれまでの 英語の小説とは違う感じも多くて
きっとうまく分析されてる方も多いだろうと思うけど
言語自体の違い、言語の習熟度による違い(作者はインド系アメリカ人で英語ネイティブ)
イタリアに住むようになった作者の変化など、いくつもの要素があるのだろうな。

固有名詞や特殊性を避けた抽象度の高い小説を書くようになった作家の、
短い連作のような話を読んで、このスタイルは好みなんだけど、
そうすると行き着く先は詩よねぇ、と思う。

>そこはあくまでも仮の場所で、わたしは腰を落ち着けることができない。同僚たちはわたしを無視しがちで、わたしも彼らを無視している。気難しくつきあいにくい人間と思われているようだが、知ったことではない。わたしたちはいつでも手が届くほど近くにいることを強制されているが、それでもわたしはどこからも離れていると感じている。

>孤独でいることがわたしの仕事になった。それは一つの規律であり、わたしは苦しみながらも完璧に実行しようとし、慣れているはずなのに落胆させられる。

>みんなを覆うその日陰は救いというよりは敗北だった。考えてみれば、海には耐えるべき、または乗り越えるべき恐ろしい要素がつねにあり、それは望まれるにしても嫌われるにしても、危険な要素であることに変わりはないのだから。
 誰かの陰にいるということは、わたしにも大いに関係がある。自分より優秀な兄弟も、美人の姉妹もいないとはいっても。
 誰もこの季節の情け容赦ない日陰や自分の家族の陰から逃れることはできない。それでも、わたしには優しく守ってくれる誰かの陰がないのが寂しい。

>辞退して、ここに釘づけになっていることもできた。でも、犬がお屋敷の長い小道を引っ張って歩いてくれたように、何かがいまの生活の鎧の外へわたしを押し出そうとしている。衝動に従おう。わたしはこの場所の気質、息遣いを知りすぎている。それなのに今日は、消えることを拒んでいる心の奥底のいろいろな感情にとらわれ、何もやる気が起こらない。


「わたしのいることろ」ジュンパ・ラヒリ 新潮クレスト・ブックス

積読の解消

2020-06-11 | 本とか
本屋は危険なので、ここ数年最低限しか近寄らないようにしてたんだけど、
今年に入ってタガが外れつつあって、積ん読が困ったことに。
でもなんとなく買ってなんとなくあれもこれも読み始めて中々読み終わらない本ばかりなので、
もっと計画的に積ん読を減らすことにしよう。
まず、積読のリストを作る。
それを大雑把に読む場所別に風呂本、電車本、ベッド本、ソファ本にわけて
その中でそれぞれ読む順番をつけて各2、3冊ずつを各所に配置して、
計画的に順番に読んでいくことにしたら家の中も片付くのでは。
残りは本棚の次読む本コーナーに置く。
いや、あ、そんなスペースがないんだった。ダンボール箱でもいいけど、忘れちゃうか。
本棚の部屋の整理をしたいけど、結構大きな覚悟がいる。
本もぐちゃぐちゃだけど、物置化してるので。押し入れを整理してものを移したい。
特に糸と布類。積読を減らすために、まず押入れの糸と布の整理か。。。

あと、長年の積ん読を熟成度合いで分ける。1年以上積んであるのは、
長い目で見る熟成カテゴリーに分類。
まだ1年未満のフレッシュな積ん読から、フレッシュなうちに片付ける作戦。
10年物20年物の長期熟成タイプも、いつか何かの拍子に読むかも知れない。
熟成度合いと本の内容の重さ軽さは関係ない。
とか言うてたらピンポーンと宅配来て、どさっと届いてまた増えた・・・笑

「しずく」

2020-05-26 | 本とか
猫を2匹飼ってる友達がいて、一匹はしずくという名前で
とてもかわいい猫で、素敵な名前だなぁと思っていました。
この、西加奈子の短編集の表題の「しずく」という話も、なんと猫が出てくる話で
猫の名前がしずくなのではないけど、親近感がわく。

西加奈子はわりと好きな小説と、あまり好きでないというか
読んですぐに捨てちゃった本もあるわたしにとってむらのある作品を書く作家で、
何か読むときはどっちかなぁと思って読むんだけど(作家としては好きなほうだと思う)
これは好きだった。
全体を通してのテーマは女ふたりの友情の話で、どれももとてもいいんだけど、
中でもこの表題の「しずく」が好き。
女は女でも猫2匹、フクさんとサチさんの話ですが。
この猫2匹の会話が、動物の擬人化の嫌いなわたしでも
なんとなくこれはいいと思ってしまう絶妙な擬人化(人言語化)加減なのですよ。
猫の思考を日本語にしたら確かにこういう感じじゃないかと思わせるんです。
人間に対しての距離や考え方とか、ああ猫ってそうだろうなとすごく思う。
仕事をしている人間はつまらなくて、でも寝ている人間が一番いいと考えてる。
うちの猫も、わたしがなにかしていると退屈して邪魔ばかりするけど
昼でも夜でも寝ているときは横に来て満足そうに丸くなっていくらでも一緒に寝てて、
邪魔をしたり遊ぼう遊ぼうとは言ったりはしないし、なるほどなぁと。
あと、辻褄が合ってないとか、考えてる途中で忘れちゃうとか、
何かに気を取られて支離滅裂になるとか、話の途中で別の話になっちゃうとか
ああ、まさに、猫ってこんな感じよね!と笑ってしまう。
猫同士のケンカのときはこんな具合。
「前から言おうと思ってたんだけど、前から言おうと思っていたし、これは、前から言おうと思ってたんだから!」
「のおおおおおおおおおおおおおおお。」
「だふううううううううううううううう。」

あるいは
「もうちょっとあっち行きなさいよっ。」
「あんたこそっ!」
「あっちっ!」
「あじ?」
「さんま?」

ぷぷっと声を出して笑わずにいられない。
西加奈子は猫をよく知ってる人なんだな。

本を読む人と言われる最低圏内

2020-05-22 | 本とか
息子25歳が、自分は月に2冊くらい、年25冊くらい読むけど、
これって本読む人の最低圏内くらいには入ってて、
読まない人からはすごく読んでると思われるレベル、と言ってて
え?そんなもんなのか?と思ってたけどそうなのかもしれないなー。
映画も、月二本見てたら、見ない人からは結構見てる人に分類されるし、
見てる人からは最低圏内には入れてもらえる感じかな。
100本見る人を普通と思う人たちはまた別。笑

自分はここ数年、映画は年に60〜70本で安定してて、
これくらいのペースがいいのかなと思ってるけど、
月二本見る人は、まあ仲間だと思う気がする。
本は多分年に50冊も読んでないなぁ。
鬱で全く読めない時と比べたらだいぶ読めるようになったけど、
年とともに目も集中力も弱くなって多分これ以上は読めない。
映画はその点映画館に行けば強制的に集中させてくれるので見やすい。

でも映画館が軒並み休業で、テレビのないうちではネット経由の映画配信は
12インチのノートパソコンで見ることになって、スケール感が全然違うし
家だと集中ができなくて、あんまり映画を見る気になれない。
その代わり本を読む時間は少し増えて
今年はずっと読みたかった苦海浄土を読みたいし、
時間のかかる本を何冊か読み終えたいです。
その合間に軽い本もどんどん読みたい。今年は100冊くらいは読みたいです。

映画館に行きたいし、美術館にも行きたいし、電車や街で人々を眺めたいし、
人と会いたいし、話したいし、
そういうインプットがないと、自分の中があっけなくも空っぽでつらいね。

本屋さん

2020-05-21 | 本とか
同じように情熱のある愛のある本屋でも、
百田などの本をベストセラーにし講演などの付き合いをした本屋と、
マイノリティ差別をした大手出版社の本の取り扱いを当面中止するとした本屋となら、と
比べかけたけど、比べること自体、ないわ。ない。比べる以前の問題。
前者の本屋さんに関する本を読んでたんだけど、そのあたりからもう読む気にならない。
後者に関しても、そのLGBT差別への抗議を政治的な意図ではないと
言い訳する点には少し疑問が残る。
政治的ではない場であるという姿勢はそれはそれでいいとは思うんだけど、
政治的であることや、自分の政治的な立場を表明するのを避けたがる人が多すぎると思うし
右でも左でもないとか中立とかもうあきあき。

本屋といえば、
本屋さんが本屋について買いた本を昨年末から読んでいて5冊目超えてきたのですが、
いや本屋ってほんとにいろいろなんだなぁと面白くなってきた。
店主も本棚も全く違う。なるほどねぇ。
本棚を作るというのがどういうことか少しわかってきて、
本屋さんに行っても今までとは違う目で見られる。楽しい。
そして古本屋の方が新刊書店より、より「マーケティング」的なものから遠いのは
当たり前だなと思ったり、方向が違うだけという部分もあるかなと思ったり。
あと5冊くらい、本屋さんについての本を読みます。


「外は夏」

2020-05-04 | 本とか
キム・エラン著の短編集「外は夏」
2篇目が少年と犬の話で、かなり泣かされて(少年と犬、というだけでヤバイよね)
重松清風の泣かせるエンタメかな、などと思ったら全然違った。
ゆっくりと味わって読む本だったし、基本的に全部つらい話。
喪失がテーマだから仕方ないけど。希望があんまり見えない閉塞感、喪失感。
韓国の作家をあまり知らないけど、例えばハン・ガンとどこかに同じ空気があるように思うのは
韓国人作家だからか、韓国の人の喪失感に共通した匂いがあるのか。
冷たく厳しく空疎で寂しい中に、痛いような繊細な優しさがある感じ。
この小説は繊細というほど線の細い感じではないけど、
絶望の中に仄見える優しさ、寂しげな優しさのある話が多い気がしました。

少年と犬の話では、つい自分の興味を大事な犬より優先させてしまった孤独な少年の
深い後悔の切なさにおいおい泣いたのだけど、
「沈黙の未来」という話はもっと緻密な文章で、スラスラとは読めなかった。
これは世界から失われた「言語」が自分について語る形の話で
その言語の最後の語り手、その語り手の最後の場所、いかに集められいかに滅ぼされたか
「中央」と呼ばれる権力機構が望む統治形態の下での運命を詩的に語っている話でした。
ある国同士は百五十回以上も形を変える。それはプリズムに当たった光のように幾筋にも枝分かれして屈折する。単語が音に反射して精神に虹を映し出す。ある民族にとって愛は接続詞、その隣の部族にとっては助詞なのだ。しかしまた別の部族では本来そういうものに名前をつけるべきではないとして、名札は一切つけない。ある民族の「会いたい」は一音節で用が足りる。だが別の部族の言葉では十を超える文章で表現される。それだけではない。ある寒い地方では吐く息の形も単語の役割をしている。(沈黙の未来)

子供を失った人の話、夫を失った妻の話、愛を失くした夫婦の話…
とにかく喪失に次ぐ喪失で、続けて読んでると、ずいぶん寂しい気持ちになりますが
喪失の話はつらいけど嫌いじゃないのです。
以前「人生はビギナーズ」という邦題最低、中身は最高の映画を見た時に書いた感想がこれ。
喪失感は素敵。
喪失感って、以前はあった、一度はあったってことだから、
とても贅沢なものだと思うんです。
最初から与えられなかった者や、持っていなかった者には味わえないんだもの。
大事なものを無くした悲しさは、まっすぐで誰にでもよく届き理解される。
家族や愛するひと、こと、ものを、持っていたことのある人って多いんだなぁ。
自分は大事な家族は持っていなかったし(今は息子がいるけど)
喪失の痛みとは、あまり関わりなく、
代わりにあらかじめ与えられた空虚を抱えて生きてきました。
だから、喪失を悲しめる人を羨ましく思うことが多いです。
つらいだろうけど、贅沢なつらさだ。
一度は、大事なものを持てたわけだから。

わたしって、いじけた人間ですね。笑

もう一箇所、心に残った一行をここに。
「理解」は手間のかかる作業だから、横になるときに脱ぐ帽子みたいに、疲れると真っ先に投げ捨てるようにできてるの。(覆い隠す手)

「結婚式のメンバー」

2020-05-02 | 本とか
Amazonのおすすめに出てきた作家。カーソン・マッカラーズといえば、
名前は知ってて学生時代読んだかもしれないアメリカ人作家ですが、
電車が30分も遅れてるホームに立ったまま読み始めて、これは良いと思った。
12歳の少女の夏?みたいな話なんだけど、
そういう少女の成長物語にある、わたしの個人的に嫌なところがないのでした。
「あるいは淡い色合いの春の夕暮れのあと、甘くて苦い塵と花の香りが空中に漂い、あたりは暗くなって窓に灯がともり、夕食ですよと告げる語尾を引きずった声が聞こえ、エントツアマツバメたちが群れ集い、街の上空を飛び回るのだが、ツバメたちがひとかたまりになって、どこかねぐらに帰っていくと、空がとたんにがらんと広くなってしまう。この季節特有の長い黄昏が終わると、フランキーは街の歩道を歩きまわったが、ジャズに似た悲しみに神経を揺さぶられ、心がかたまって、そのまま止まってしまいそうになった。」
少女は特別に背が高い12歳。
母親はすぐに亡くなって、父親と住んでいる。
家には家事をする黒人女性ベレニスがいて、この女性のキャラクターやエピソードが
生き生きとして一番面白いです。
特に美しくないけど何度も結婚し、今も優しい崇拝者がいて、自分の魅力を信じている女。
少女とベレニスと、近くに住む親戚の男の子(5歳くらい?)ジョン・ヘンリーとの
台所での会話を中心に話は進みます。
台所では食べたりなにかしたりしながら、いろんな会話をするけど
三人がそれぞれ全能の神だったらと語る話が印象に残る。
小さい男の子ジョン・ヘンリーの全能の世界はは脈絡のない好きなものでできていて、
黒人メイドのベレニスは黒人も白人もなく全て皆褐色の肌の世界で、戦争もなく、
そしてそこには最初の夫、唯一愛した夫が生きているという世界、
主人公の少女はベレニスに似ているけど、誰でも船と飛行機を持っているもっとカラフルな世界を作る。

ベレニスの過去の話がすごく面白い。12歳の少女に、愛とは、男とは、など語るのですが、
最初の男との幸せな結婚のあとにその男が死んでしまって、
男と似た潰れた親指のろくでなしや、
男とそっくりの後ろ姿で男の持ってた古着のコートを着ていたダメ男などと
つい不幸な結婚をしてしまった話を、歌うように語るのです。
そういう男たちに関する話に、半世紀以上経って遠く離れた日本で、ひとりすごく納得するなど。

主人公の少女は、とにかくここを出てどこか、世界へ出て行きたい子で、
兄が結婚式をしに戻るので、兄夫婦が自分を連れて行ってくれると信じていて
それは不思議なくらい強い思い込みになって、そのためにあれこれ準備したりします。
その、どこかへ行きたいというのは、具体的につらいことがあるというより
今の生活に倦んで、閉塞感に耐えきれなくなってる感じですね。
それで「結婚式」というものに恋をするように夢中になって、その先の生活を夢見てる。

ここからラストのネタバレ

ラストでは、それまでの彼女の思考や、台所での長い会話や、ぐるぐると歩く町の話から
結婚式の顛末、その後の家出、ベレニスがやめて出て行くこと、ジョン・ヘンリーの死、と
大きな出来事がわりとあっさり語られます。
でも少女には親しい友達ができ、空想の世界や自分の思考だけの世界は一旦過去に押しやって
現実の世界へ幸せな気分とともに向かうのでした。
幸せな気分で向かうのだけど、読んでいるこちらがなんとなく寂しいような虚しいような
不思議な気分になるのは、ジョン・ヘンリーの死もあるけど、
少女の、ある特別な時代の終わりを見ているからでしょうかね。

作者の自伝的要素のある小説ということだけど、
この主人公の12歳女子は、見ている方向は真逆ながら、
自分なりに物を考えるまだ未熟なこの年の女の子の言葉遣いや思考の飛躍や
それを繋ぐ論理の不思議な理屈っぽさは、あれだ。赤毛のアンだな、とふと思いました。
この本の翻訳をした村上春樹は、樋口一葉の「たけくらべ」のみどりに似ていると
あとがきに書いてたけど、そうかな。
「たけくらべ」あまり覚えていないけど、今度読み返してみよう。

あと映画「レディ・バード」の主人公とも似ていると思いました。
自分を別の名前で呼べと言い張り、不器用にギクシャクした自意識に振り回されながら
突き進む不安定なエネルギー。自分は世界を知らないということをまだ知らない強さ。
そして、もろさ。
この映画は、無様で不器用でやたら尖ってた自分の思春期思い出しちゃって、
なんかもう恥ずかしくていたたまれない部分が多くて、見た直後は
あまり好きじゃないと思ったものの、でもそれだけいい映画だったなぁと、落ち着いてから思います。
その映画にも、少し似てるなぁ。
わたしも以前同じようなところがたくさんあった、少女というもの。

「小松とうさちゃん」

2020-05-01 | 本とか
「小松とうさちゃん」は、前半3人の登場人物の話がそれぞれ入れ替わり出てきて
ぷつぷつと途切れるリズムが短くて、集中しにくかったけど後半にそれぞれが関わり始めて
最後は一つの話になって読みやすくなり、ラストはまあちょっと出来過ぎの話だけど
すっきりして読後感はとてもいいです。ハッピーエンド。

小松は大学の非常勤講師。超低収入で実家住まいの超さえない50男。
うさちゃんは大手企業勤めの少し年下で、妻子もあり海外駐在経験もあり
将棋の駒のような顔なのに、小松からしたらなんでも持ってる人生。
居酒屋で知り合い、時々飲むようになった友達どうしですが、
小松がみどりさんというわけあり女性と知り合ったところから話が進み出します。
小松はみどりさんを好きになるのですが、低収入、実家住まい、外見はおっさん、という引け目もあり
思い切ったことができないのを、うさちゃんに励まされて一歩進むのです。
うさちゃんは、ネットゲームにはまってて、それが後半に効いてくるんだけど
仕事はできそうだけど、わたしには特に魅力的ではない。気楽に浮気もするしね。
でも小松には好感を持ちました。何より誠実でやさしい。
時におろおろと物慣れず頼りなく見えるけど、時にどっしりと動じないところもあって
好きな相手の問題も丸ごと受け入れる包容力もある。中々いい男と思う。

もうひとつの掌編が、この話の元になったもので、そのあとこれが書かれたんだけど
作者にとって愛着のある二人なのでしょうね。

残りのもう一編は、クラゲの話で、この話は好きです。
動物やものを擬人化した話ってわりと苦手なのですが
擬人化の具合によっては受け入れられるものもある。
人間化しすぎてない、特に感情の部分で人間っぽくなかったり
論理がへんてこだったり人間的には意味が通じなかったりしながら
不思議なリアリティが少しでもある、というものなら、大丈夫かな。
たとえば西加奈子の「しずく」という短編集の中の猫の会話は、
猫が話せたら確かにこんな感じかもなと思わせて好きだし
このクラゲの話もそうです。
クラゲは思考はするけど意思はない、というところとか。
その特別なクラゲと心だけクラゲの内側に入った人間の女性の話で、
女性が若い人でなく還暦くらい、というところもいいよね。

わたしも心だけになって、クラゲの中に入って、クラゲに笑うってどう言うことか教えて、
そして一緒に笑いたいな。

絲山秋子「小松とうさちゃん」

「某」

2020-04-23 | 本とか
お風呂で5夜くらいで読了した、川上弘美の「某」。
これ、韓国映画の「ビューティー・インサイド」みたいなお話。
この映画は、わたしは結構好きだった。誰でもない者の哀しみ。
クールな女子学生や、やりたいだけの男子や、おじさんや、ギャルっぽい子や、色んな人になる。
人と付き合って一緒に住んで関係を築き、新しい感情のようなものが知ったり、
過去の記憶があったりなかったり、自分と同じような種類の人と出会ったりしながら、
ラストの辺はファンタジーがかってきて、読むのがちょっと減速した。
愛の話と思えば読めるんだけど、ファンタジー感あると読むのがしんどくなる。
なんでファンタジーこんなに苦手なんだろなぁ。
川上弘美はわりと読んでるけど、新聞連載だったファンタジーはダメだった。
新聞小説というものが好きだけど、途中で脱落するのが10年に一度くらいのことであるのです。
川上弘美がどうこうではなく、ファンタジーがかなり苦手なのですね。
ファンタジーでも、変な生き物や変な世界の出てくる変なく話はすごく好きなんですけど。
人間が成長するタイプの人間くさいファンタジーが苦手なのよね。

とはいえ、読み終わってみるとラストは超有名猫の絵本みたいな話で、やっぱり愛の話だな。
わりとそういうの好きなので、よかった本。
(タイトル言うとネタバレになってしまう有名な絵本…

Twitter文学賞

2020-04-21 | 本とか
Twitter文学賞の翻訳作品受賞作の上位が、わりと自分の読書傾向と重なる。
「掃除婦のための手引き書」は先月読み終わったとところ。1編目から舌を巻いた。
そしてやっぱりテッド・チャンの新しい本も買ってある。
ハン・ガンのこれも読んどくこうか。
ジュンパ・ラヒリのこの作品は少し前に読んだ。
キム・エランの「外は夏」も買ってあって次に読む順番。

わたしはやっぱりTwitterランドの住人なんだなぁと思う。
自分が普通に読んでるあたりが大体出てて、自分の分かりやすさが少し恥ずかしいわ。