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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

義務や教養のためでもなく、でも

2019-09-24 | 本とか
芥川賞とった今村夏子さんの「紫のスカートの女」を読んでて
あまりにおもしろくてぐいぐいと押されるように、引っ張られるように一気に読んで
こんなに面白くて一気に読めちゃう本は、
内容の深さや重さに関係なく、読むのが楽だなぁと久しぶりに思ったのです。
そして、人生で読める本は限られているのだから、もうこれからは
嫌々ながら読む本や、難しくて中々進まない本など「読むべき」本ではなく
読みたい本だけ読めばいいのでは?
読書は勉強じゃないから本当に読みたい本だけ読んで生きていけばいいんじゃ?
義務や教養のためなんかじゃなく、楽しみのために読むのがいいよね?と、一瞬、考えた。
でも、よく考えたら、
読むのがラクで楽しいということだけが本を読む楽しさじゃないんだった。
手ごわい本は手ごわい感動をくれるし、難しい文体も少し慣れるとうれしい。
気難しいけど尊敬できる友達みたいなものか。
気楽な友達もいいけど、そういう友達もいる方がいいな。

猫はパソコンの邪魔はすごいけど、読書の邪魔はあんまりしないし、
涼しくなって、いい感じに本が読めるようになってきました。

新聞小説「ひこばえ」

2019-08-05 | 本とか
いま読んでる新聞小説の重松清の小説が、死んだ父との絆を取り戻すみたいな話で、
「だって(どんな親でも)親なんだものね」に集約される家族愛の話なんだけど、
どうにもこれがいやでいやで。うまく泣かせる重松節も鼻について。
凡庸なおっさんの凡庸な家族愛の話に優しくなれない。
重松清自体は嫌いじゃないんだけど。
ここに書かれている小さくも凡庸な人間の家族愛を決して嘲笑いたくはないけど、
家族主義に絡め取られた人たちの話はわたしにはしんどいのです。
小説自体の問題じゃなく、わたし個人の問題なのでしょう。
家族というものがいやで仕方ない。今も。
もちろん、小説に描かれているように家族ならではの美しさはあるのでしょう。
まあ、それを知らないわたしが悪いのよ。
ああモヤモヤする、嫌だ嫌だ、と言いながら毎日読んでしまうのが新聞小説だけど。

「西太后秘録 近代中国の創始者」

2019-06-25 | 本とか
友達が貸してくれた西太后の本を読みました。
西太后についてとてもよく調べられた伝記、上下巻です。
書かれた順番は同じ作者ユン・チアンの、評判になった本「ワイルドスワン」が先だけど、
歴史的には西太后が亡くなった後に、共産党独裁の文化大革命時代が来て、
その頃の中国の、ある家族の話を書いたものが「ワイルド・スワン」なので
西太后のあとに、その続きのように読みたくなりました。
積ん読が多すぎてまだ読んでないけど。

この本によると、西太后は巷で思われてきた、残虐な女帝というイメージの
愚かでこわい化け物のような人間ではなかったようです。
作者が西太后好きすぎて感情移入しすぎて、
西太后に都合よく美化して書かれてる気がする箇所も多いけど、
そこを割り引いても、わたしの思ってたイメージと随分違う西太后だった。
晩年は満州を救いたい一心だった、というあたりは、ちょっと良く書きすぎで、
しょせん独裁者の独善もあるはずなのに、そういうところにこの本の限界もあるけど、
あの時代の、しかも女性指導者としては、どれだけすごい人だったかは、わかった。
纏足をやめたのも、未だかつてないほど中国の自由化文明化推し進めたのも西太后なのに
中国で生まれた作者でさえそれは中国共産党の成し遂げたことと思い込んでたくらい、
西太后は悪い方に誤解されてる。歴史が固定化してしまったデマのせいなのね。

さて、上巻の終わりにきて日清戦争が始まりました。
めっちゃ波に乗ってグイグイ来る日本と、たるみまくって鈍重な老大国中国。
光緒帝の愚かさ。李鴻章のずるさ。そして調子に乗って攻めて来るイケイケ日本。
実際この頃の日本帝國軍はほんとに破竹の勢いだったんだろうなぁと思う。
日本の人々は変な高揚感、全能感をどんどん持ち始めてしまったのだろう。

そして、日清戦争の時って、負け戦側の中国にも、特攻的なことがあって、
誰か将軍が敵に突撃して死んだのが美談になったということなので、
特攻賛美って日本特有の美学とかではなく、
戦時には負け戦側が無駄にやる定番の作戦なんだなぁと、思った。
当たり前だけど、特攻とかするようになったら負けるしかないってことね。
まあ、そんな愚かな作戦を賛美するような国が勝つはずがないけど。

下巻では、1900年頃北京議定書のあたりの欧米列強先進国が、
その半世紀前とは違う価値観を獲得し始め、人権意識が生まれてきてたようで、
中国に対しても手加減というより経済でも教育でも協力的なところが見られたし、
北京議定書のひどい内容を反省して返すアメリカのような国もあったのね。
阿片貿易も、この頃対英ではほぼなくなった。
確かに、あの異文化の広大な壮大な国を、全て占領して統治してみろ、ほい、
と言われてもできるはずがなかったし、
列強としても、中国を丸ごと支配するより、国として整えてやって
自分達に都合がいいように利用するしかない、という考えもあったのかなと思う。
列強の中でも、アメリカは、すでにボロボロの中国から分捕ったものを返したり、
教育に力を入れるように諭したりしてて、そこは若い国の理想はあったかもなぁ。
とはいえ、その一方では依然として植民地差別や搾取は続いていてて、
少しは人権や公正さのような概念を持ち始めたのに矛盾だらけじゃないかと思うけど、
そういう矛盾が人間だし、それが歴史ってことなんだろうな・・・。
そして、その頃の日本は帝国主義先進国たちの真似をして、調子に乗りはじめていたけど
どんなに調子に乗って軍備増強しても、そういう部分は遅れていて先進国ではなかったのね。

しかし、本の後半に行くに従って、ますます西太后が気の毒になってくる。
賠償金や鵜呑みの条約のせいでボロボロになってしまった。
野心のために日本と組む男と、お金のために日本と組む男が皇帝に取り入り
西太后の暗殺を企てて失敗するけど、かといって皇帝を殺すわけにもいかないし、
進歩派の西太后の進めたことは全て政敵の手柄にされ、
失敗したことは頑迷な西太后によって潰されたという話が広まり、
さらにひどいデマがばらまかれる。
この政敵たちのスパイ活動のせいで下関条約はあれだけ中国にとって不利なものになり、
日本を利することになり、さらに欧米列強に付け入られることになるんだけど、
西太后の決意通りもっと抵抗していたらどうなっただろう。
どうせ負けるにしてもあれだけの不利な条約にはならなかったかも?
日清戦争のあと、ボロボロの中国がハゲタカのような列強に好き勝手蹂躙される中、
つい誤った判断でならず者の義和団と手を結んでしまうところは他人事ながら痛恨。
日清戦争でもう少し粘って、外交頑張ればよかったのになと思う。
そこで日本は調子づいてしまったし、

西太后は、ビクトリア女王はひとりで大英帝国を運営しているのではなく
後ろに議会が控えていたからできたのに対し
たったひとりで4億の民を抱え統治も外交も何もかも決めなくてはいけない
自分の体制も変えようと思ったということだけど、時すでに遅しだったのねぇ。
西太后への同情がやはり禁じ得ない。

西太后が、中国で初めて立憲君主制で選挙をやることに決めたあたり、
日清戦争で列強にボロボロにされたあと、猛然と文明開化に向かうところは素晴らしい。
西欧式文明開化は、国を強くするのには必要なことだったんでしょう。
その一方で、西太后は西欧の洋服については、
美しいが美しい体型の者でないと美しく着られない、
中国の服は誰が着てもそういう差異は出ない、というような感想を言ってたそうです。
ほんと、そうね〜。

ことりと菜食主義者

2019-05-07 | 本とか
小川洋子の「ことり」のあとに、ハン・ガンの「菜食主義者」の話を
NHKのラジオで聞いて考えた。

前者の孤独がこんなに温かいのに、
後者がこんなに寒々としてねっとりとして暗く重くつらいのは何だろう。
前者が誰も責めないのに比べて、後者は社会や人間の世界や
いろんな他者を、そして自分自身を?責めているからか。
どっちが正しいのかはわからないけど、
責められるのはとてもつらいからね。加害者でいることはとてもつらい。
つらいから目を背けたり否定したりする。

「ことり」でわたしは共感者になれるけど、
「菜食主義者」ではわたしは加害者側にいるかもしれない。
だから、この本を読むのがこんなにつらかったのかなと思いました。

「別の言葉で」

2019-03-28 | 本とか
先月、お風呂で、ジュンパ・ラヒリの、イタリア語で書かれた本を読んだのですが
なんか思ってたのと違ってすごく安心した。
彼女はインド系アメリカ人?で、英語で書く世界的な作家なのですが、
きっとイタリア語もすぐに習得してしまって、イタリア語でも英語と同じように
彼女の小説の繊細な文章をすいすい書いたのかと思ってたら
そういうわけでは全然なかった。

ジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたと知って以来、
きっと言葉の天才であるのと同じように語学の天才でもあって、
どんくさい苦労も悩みもなく、特別な才能で書いたのだろうと思ってたのです。
いや、努力はしただろうけど凡人の努力とはレベルが違う、
努力の天才でもあるのだろうと、勝手に思い込んでた。

でも、決してそういうわけではなく、何年も勉強しても中々使えない、覚えられない、
いろいろなやり方を試しても、まだイタリア語は遠い、というような
普通の人と同じような過程を同じように経ているのだった。
とても覚えがある。凡人と違うのはその先のことだろう。

ジュンパ・ラヒリは小説を2冊読んで映画化されたものも見たし
原語で読んだ短編もあるけど、この本のほとんどがエッセイだからか、
それともイタリア語で書かれたからか、小説とは随分感じが違ってたけど、
イタリア語をこれだと思ってからの長い年月を書いたエッセイは
やはり良いのです。中身は同じ人間だものね。
2篇だけ入っている短編小説の、黒い服をなくして探す女性の話、
黒い服は言葉のメタファーだというところがとても素直に感じて好きだな。

なんか、心強くなって、またなにか外国語を勉強したい気持ちになってしまった。
英語もろくにできないまま、どんどん忘れていってるのにね。

語学をやるとき、自分は読み書きしないと頭に入らないタイプなので
勉強もそっちから入りたいんですけど、
一度フランス語で絵本を読むというワークショップに参加したときに、
心の準備も何もなしで行ったのに、先生はフランス語しかわからず、
いきなりフランス語での自己紹介を順番にさせられてすごい焦ったことがある。
・・・どうも、自己紹介をしろと言ってるようだ、
あ、端っこの人がジュマペル〜(マイネイムイズ〜)って言い出したぞ!
というレベルでフランス語がわからないまま始まったのですが、
何十年か前のほんの少しのフランス語知識と、英語の強引なフランス語化で、
動詞の活用も冠詞の男女は全部勘で人生最大にデタラメに話してたら、
だんだん楽しくなって子供のように覚えるってこれか!と思ったのです。
いや、子供のように学ぶ英語学習法ってのは大否定しているのですが、
最低限のおぼろげな文法知識と英語の語彙の助け、
それと外国語を話すときの勘があるとこんな風になんだか通じるようになるのかぁ、
とすごく面白い体験だった。
こういう語学のやり方も面白いかもしれないなぁ。

「少年が来る」

2019-03-22 | 本とか
ハン・ガンの「菜食主義者」は、すごい小説だと思いつつも、
暗く重く痛いようなぬるぬるした壊れやすさが生理的に気持ち悪くてすごく疲れて、
もうこの人の本はいいわと思ってたけど、
同じ作者の「少年が来る」を借りて少し読み始めたら、まず、
キツい状況下の優しい人のことを、やはりとても繊細に描写していて舌を巻いた。
柔らかい布を幾重にも巻いたような手でするノック、
幼い鳥のようにふわっと抜ける魂・・・参ったなー。うまい。やさしい。うまい。
彼女の文章の繊細さは、気持ち悪さも優しさもどちらも激しく増幅させる。
ここでは互いを思いやる姉と弟の描写がとてつもなく優しくて、
泣かせる箇所でないのに泣けてしかたないし、その後の悲しい箇所ではもう涙ボロボロ。
すごい本だな。「こちらあみ子」並に衝撃を受けています。
描写に大げさなところはなく、どのような悲惨な場面でも筆致は静か。
どのような悲しみも怒りも、やはり静かに書かれていて、
エンターテイメント的な盛り上がりや感動はなく、
そういうところに何も落とし込まない誠実さに感動します。
後半はきつい描写も多く、拷問の激しさ、その中で心を殺される人など
読んでてつらい部分が多かったけど、
この作者の本は、もっと読まなければいけないなぁとしみじみ思った。

独裁的な軍事政権に反対する民主化デモが軍により鎮圧され
大勢の学生や人々が殺され拷問された韓国の光州事件(1980)で
殺された人たち、拷問された人たちのエピソードが、
時間や空間を時々超えながら、行きつ戻りつ語られる小説。
不思議な二人称で書かれていて、最初、読み始めはかなりとまどいます。
「君」って誰なのか。「あなた」って誰なのか。それを語っているのは誰なのか。
でも途中からひきこまれる。
その事件のおぞましさに、立ち向かう人の覚悟に、その末につけられた傷の深さに。
まだ子供と言える少年たちもいた。
性的な拷問を受けた女性もいた。
生き残ってしまったことが苦しい人もいた。
子供を亡くした後悔を一緒背負っていく母親もいた。

光州事件については、映画「タクシー運転手」を昨年見たばかりなので
映画の中のシーンが蘇り、わたしの想像力を助けます。
小説自体には、メッセージを振り回すようなところはないんだけど、
これほどの犠牲を払って、こうまでして手にした民主主義なのか、
と改めて韓国の民主化運動を思う。











「宝石 欲望と錯覚の世界史」

2019-03-21 | 本とか
最近友達に借りた本をよく読んでる。
自分の本も順番を待ってるんだけど、人から借りると返さなきゃと思うので
自分にしては早く読めるという利点があります。

これは、ダイヤモンドの婚約指輪が必要な贅沢品となっておよそ80年、
その歴史は電子レンジの歴史と同じくらい、と書いてある、宝石と世界史の本。
2段組で分厚く、翻訳は硬く読みにくいながらも、面白かった。

そこからダイヤモンドの価値というものがどんなインチキ商売の産物であるかが続く。
インチキ商売というか、デビアス帝国の悪辣さですね。
世界のダイヤモンド市場をほぼ一手に握ってる独占大企業という認識はあったけど、
こんな、まるでダイヤモンドヤクザと呼びたくなるような極悪非道な歴史があったとは。

ダイヤモンドの希少価値は、もはや幻でしかないのに、
人の印象を操作すると言う仕事に勤しんで、いくらでもあるありふれたダイヤを
ダイヤの婚約指輪という幸せで美しいコンセプト、神話にしたデビアス。
1940年前後、貴族という主要な顧客層をなくしたにデビアスが売りだしたのは
ダイヤ自体よりもむしろそこに付け足したきらきらしたイメージという付加価値の方で
ダイヤモンド買ったと思ってる人、あれは思想を買ってるだけだから、
と、見下すように書かれている。

デビアスが婚約指輪という「伝統」をでっち上げて、
数十年ですっかり世界に浸透させてしまった手口には恐れ入る。
婚約指輪に興味がなかった極東の国、日本でさえ、
80年頃にはアメリカに次ぐ第二の市場になったのだからすごいものです。
しかしよっぽどうまくやったにしても、こうして
「伝統」をでっち上げるのって簡単なんだなぁと思うと
昨今の歴史改竄主義者のしぶとさにも納得がいくし、怖いものだなと思いますね。

そういえば、昭和の映画で、財閥を舞台にした面白いものはいくつもあるけど、
デビアス家の歴史を大河的に描いた映画が観たいなぁと思いました。
絶対面白い。
以前見たティファニーのドキュメンタリー映画はキラキラして楽しいけど毒がなかった。
デビアス王朝の大河ドラマなら毒も陰謀も悲恋たっぷりありそうだし、
ドキュメンタリーではなく波乱万丈のドラマにして見せて欲しいです。

デビアス以上に嘘つきで勝手なのがスペインのクイーンイザベル。
ヨーロッパの歴史を読むと、カトリック教会の行ってきた(あるいは利用してきた)
あまりに多くの残虐な行為に、本当に呆れ返る。
そのあともどんどん、悪辣でわがままな支配者たちが出てくるのですが、
彼らの紡ぎ出す歴史を、宝石を切り口にして読み解くのはとても面白かったです。

この本の中では、ダイヤモンドはありふれたもので、
ブランドやイメージででしかないと何度も繰り返し指摘されているので
どんどんダイヤモンドが欲しくなくなりましたが、
後半のエメラルドや真珠の話を読むと、今度はそれらが欲しくなります。
特に真珠は、ヨーロッパの欲深い王や女王たちとまるで違い
うどん屋の息子から真珠王にのぼりつめた御木本幸吉について、
彼の真珠の、世界の宝石の中で占める位置や、その意味など丁寧に書かれていて
御木本さんすごい!えらい!と感心。
自分の持っている、ほとんどつけたことのないパールのアクセサリーを
久しぶりにゴソゴソと取り出して眺めたりしました。

あと、えぐい女王やえげつない王の話の後で、
豪華で精緻な卵型の宝飾品で引っ張りだこになった
無敵の宝石職人ファベルジェという人がが出てきたときも、ほっとしました。
芸術作品とも言える美しいものを生み出すのに
大きな工房をもち、何百もの従業員の福祉と健康に気を配り、
彼らの才能を活かし、十分に褒めて育て、利益は分かち合うという素晴らしさ。
帝政ロシアにおいては奇跡の人だったのでは?
ていうか、今の日本でも中々ないかもしれませんね。

「cook」

2019-02-20 | 本とか
坂口恭平さんの、料理の本ではなく、料理の日記でもなく、料理をすることの日記かな。
実用ということでは、わたしにとってはほとんど役に立たない本だけど
料理をすること、知っていくことの楽しさが、手書きの文字とスマホの写真から
滲み出ているのが気持ちいいなぁと思う。
料理は気持ちの安定に役に立つというのを、わたしは身にしみて知ってるけど、
それが、リアルタイムの興奮や感動とともに書かれているのがなんかいいのよ。
坂口さんは素直なのよねぇ。色々と荒削りなところや無謀なところは多くて
それがいい方にも悪い方にも転ぶ人だと思うけど、
この本に関しては、とてもいい方に転んでます。

料理の本に関しては、わたしはもう本当にたくさん持ってるから、
よっぽどアイデアのいいものか、センスのいいもの、気持ちのいいものしか買わない。
これはその中では「気持ちのいいもの」のカテゴリーかな。
ここにあるレシピを作りたいというわけではなくても、これ読むと
連休は何を作ろうかなぁと楽しみになる。猫に邪魔されるけど。

さすらい読書

2019-01-25 | 本とか
元々、読むのが遅く、鬱や老化による集中力低下で、あまり本が読めません。
とはいえ、いっときは1行読むのも大変なくらい読めなかったことを思うと
今はずいぶんましになって、本を読むのがとても遅い人、くらいには読めます。
よかった。
ところが、猫が来て以来、また本が読めなくなっています。
お風呂での読書はなんとかしているけど、猫のいるところでは
ずっと邪魔されるのでとても読めない。
特に人に借りた本などは、かじったり登ったりしようとするので
猫のいるところでは全く読めません。

長いこと借りてる、二段組みで分厚い宝石と歴史の本をなんとか読みたくて
仕事の帰りにカフェなどに寄るのを試してみました。
明るくて、まわりに気を使わずいられるところ、というので
ファミレスやパン屋さんのイートインなど。
仕事の後だし、だいたい3、40分で集中力がなくなるので
そんなにたくさん読めませんが今のところいい感じ。
分厚い本がもうすぐ読み終わりそうです。
仕事と家の間で気分転換する役にも立つみたい。

前に、読書会の課題本を間違えてて、当日の朝に買って夕方まで
集中力が切れたら次のカフェ、と、カフェをはしごしながら
分厚い本を1冊なんとか読みきったことがあります。
7時間くらい、電車の中でもバスの中でもずっと読んでて
会場に着く直前に読み終わった。
→「ミランダジュライではあるけれど」
この時に、なんかちょっといいなと思ったのです。
本を読むのが遅く1冊の本に何日もかかるわたしでも
カフェなどで集中して読めば半日で1冊くらい読めてしまうし、なんか楽しい。
仕事の後だとはしごはできないし、もう集中力も出ないけど
家でないところで本を読むのは、かなり好きみたいです。
学生時代は電車の中でも歩きながらでも読んでいたのに
今は基本的にいつでも眠いので、電車ではすぐに寝てしまうけど。



須賀敦子さん

2019-01-12 | 本とか
お風呂では喉も鼻も楽なので、風邪でもまだ本が読める。
須賀敦子の短いスケッチ風のエッセイを読んでいたけど、ほんとに上手くて素敵。
主にたくさんの人との短い出会いの思い出について書かれてる。
こういう風に書きたい。
こういう風に書くにはどうしたらいいのかしらん。

ロンドンのアパートの半地下の老婦人姉妹の住む部屋に気づいたときの話で、
子供の頃読んだロシアかどこかの
半地下に住む靴屋さんの話を思い浮かべるシーンなんだけど、
こういうふと古い何かをふわっと思い出す感じ、
似た感じのことはわたしも書くことがあるけどまったくこんな風には書けない。

もっと構成考えて、何度も整理して、削って、ボキャブラリを増やせば、
こんな風に書けるのか?

追悼文にはまってたことのあるあるわたしですが、
亡くなった作家の文庫本のあとがきが
素晴らしい追悼文になってることもありますね。
お風呂で読み終わった「塩一トンの読書」のあとがきがそうで、
教え子だった青柳祐美子さんが書かれているのですが、
とてもしみじみしてしまった。やっぱり追悼文はいいなぁ。

漢詩

2019-01-11 | 本とか
前に文学フリマで、漢文が読める!みたいなすご〜く薄くて小さいのに高い本を買って
(値段を聞かずに買ってしまった。500円くらいと思ったら2000円近くした…)
でも全然親切な本ではなくて、読めるようになりそうになく、
がっかりしてたんだけど、
この前漢詩の本を買ったらすごく良いので、リベンジした気分です。

ただ、この本は漢詩の訳とエッセイはどちらもとてもいいんだけど、
読み下し文みたいなのはついてないので、口ずさめないのが残念。
目で読んで楽しむ本ですねぇ。

俳句や詩の一節が、何かの状況で口に出ることはあるのに、
漢詩は馴染みが薄いですよね。
でもでも、そろそろ漢詩なども口ずさみたいのよ。
だって賢そうでかっこいいもん!笑

漢詩を読む教室とかあったら行ってみたいなぁと思ってググってみたら
わたしのような感じの教養のないいい加減な者が行けそうなのが中々ない中、
居酒屋でやってる会があった。すばらしいな。
でも初中級向けだから無理。入門以前の常識もないし敷居が高い。
そのうちやりたいことのリストに加えといて、とりあえず買った本を読みましょう。

図書館と下品さ

2019-01-09 | 本とか
大分県の杵築市立図書館が、預金通帳型の「読書の記録」システムを導入していて
その通帳風のものには、貸出日、タイトル、著者名、本の価格が機械で印字される、
という記事(→毎日新聞)に対して

>コレ、「借りた本の価格や、月ごとの合計金額が印字される」ってのが
>ものすごく卑しくて嫌いだ。借りた本の冊数やページ数が出るのは別にいい。
>しかし「買ったら何円したのがタダで読めた」と利用者を満足させるのは下品だし
>図書館がやるべきことじゃない。

と書いてる人がいて、まあそう考える、本好きの人も多いかもなぁと思う。
でもこれ、下品かもしれないけど、わたしはこういう下品さは嫌いじゃない。
根が関西人だからかなぁ。
高い本を図書館で借りて読むと、内容の良さはそれはそれとして、
やっぱりお得感を感じてうれしくなってしまう下品な人だわ、わたし。
セールで安くなってたりしたら、必ず安さを自慢する。
高級さではなく、お得感を自慢する関西人気質?を下品と言われたら
うーん、確かにそうかもね。

お金とスペースが無限にあれば、買って読むかもしれない本を
図書館で借りて読む人は多いだろうし、みんなの税金で本をシェアして
誰でもみんなで楽しんだり学んだりするのが図書館というものだろうから
お得感を感じること自体は間違いではないと思います。
でも、その金額について考えることや、得した金額を見て喜ぶこと、
図書館がそういうお得感を強調することを、卑しい、下品だと思う気持ちもわかる。
本の世界は豊かで深く、本を読むということはお金ではかれるものではない、ものね。
だけど、本や本を読むことを、そんな風に、正しくきれいで高尚なところだけに、
お金では決して換算できない清い場所だけにしておく必要もないと思うのです。

いいじゃないですか、今月は図書館で4冊読んで5600円分得しちゃった〜!って
そんな風に思っても、いいじゃないですか。いや、いいよ。
読まないよりよっぽどいい。
本を読むのは、テレビ見たりLINEしたりするより地味だし時間も取る。
いくら得したかという金銭的お得感につられたからでもどんな理由からでも、
読めばやっぱり得られるものや感じるものがあるわけだし、
そういう「下品さ」でもっておすすめしたからって、何か問題ってあるかなぁ?

上品なものは素敵だけど、下品さが全部不快で良くないと思う人は、
この雑多で多様な人たちの住む世の中では生きにくかろうと思う。
生きにくくて結構、と上品な場所から言い返されるかもしれないし、
個人的には、そういう真面目な上品さがどこかにある人が好きですけどね。

アルアルと一発芸

2018-12-08 | 本とか
以前読んだ俳句の本をまたパラパラ読んでて
川柳と俳句の違いについて、
川柳は、あるあるネタであるが、俳句は一発芸だと書いてあった。
つまり、
川柳は読んだ人がだいたいみんなちゃんとわかって、共感を楽しむ良さ。
俳句はおっ!と思って惹かれてもわからないところがあって、
それぞれが続きや解釈を想像する良さ。
わかる楽しさとわからない楽しさ。
なるほど。
俳句は全部わかっちゃダメで、開いてないといけないそうです。
だから俳句は詩というより散文。
ポエムになっちゃだめなの、ポエムは閉じた自己完結だから。

そういえば、9月の初めの夜中にベッドで風の音を聞きながら作った句

雨止みて風鳴く夜や蝉静か

に、歌人の友達が「そして輝くウルトラソウル」と続けてくれて、
なんだそれは?と思ったら、B’zの歌詞だったのね。
そして、どんな俳句にでもくっつけてみる遊びが以前流行ってたのね。笑

それはともかく、上の蝉静かの句は、説明的すぎて、わかりすぎて
つまらない句ということになりますね。精進します。


海外文学の棚

2018-10-19 | 本とか
ミランダ・ジュライの新刊買いがてら、
これをもらいに近所の一番大きな本屋行ったけど(中規模紀伊国屋だよ)
海外文学の棚がめっちゃ小さくなってて、本棚一つ分もなくて、
クレストブックスが5冊くらいしかなくて、フリーマガジンもなくて、
大変気分を害したので、別の本屋で買うわ!と帰ってきた。
海外文学と詩歌で本棚1つ分くらい。
そこそこの広さもあるのに、文学を冷遇しすぎで、
ぷんぷん!アマゾンで買うぞこら!とすごみたくなる。
実店舗の本屋で買いたいのになぁ。

昔は海外文学ももっと読まれてたきがするし、
洋楽ももっと聞かれてたきがするし、洋画ももっと見られてたきがする。
その頃日本文学や邦画が元気なかったせいかもしれないけど。
今は日本文学も読みきれないくらいいい本があるだろうけど、
外国の本ももっと読むべきと思うー。
わたしにとって、小説の楽しみって、
海外文学の楽しみが8割くらいなんだけど。
行ったことない国の物語。

「弥勒」

2018-09-02 | 本とか
昔読んだ篠田節子の「弥勒」という本のことを、折に触れて思い出すのです。
とある小国の理想に燃えた革命が、先鋭化独裁化して狂気となっていく様子を
重く深く細やかに描いた小説で、世界の理想について考えるときに時々思い出す。
手元にないので記憶がおぼろげだけど、もう絶版なのね。残念。

近代のいくつかの、独裁化して極端な抑圧や悲惨な虐殺などの恐怖政治に陥った革命は
こういうものだったのかなぁ、と初めて、実感を伴ってわかった気がした本です。
教科書で知る、自分とは関係ない歴史上の出来事や国や人物ではなく、もっと近く、
今の世の中になるまでに、あちこちで起こったこととして、
これからもどこかで起こるかもしれないこととして、
あるいはたった今、起こっているかもしれないこととして。
あの国のあの時代も、あの国のあの時代も、元はこういう理想から始まったのかと、
ひしひしと感じながら読んだのを覚えています。何十年前だったか。

本の中で、革命の中心にいる指導者は、ストイックでとても清廉な人物で、
高邁な完全平等社会という理想への極端な邁進が、
過酷な労働と、人肉まで食べるような飢餓をひきおこすのでした。
でもそこまで行ってもわたしはこの人物を嫌いにはなれなかった。
冷酷で無慈悲に見える計画や方法の失敗だけでなく、
そもそもその理想自体が不自然で、間違っているのはわかっているんだけどね。
そして、この本の主人公は、そこに飛び込んだ部外者の日本人の方なんだけど
その主人公についてはほとんど覚えていないのです。
この小国の革命家の美しかった理想の失敗の、悲しさばかり、覚えています。
独裁による組織の硬直化と腐敗という汚れた悪、という面より、
理想から出た、元は善意の暴走という面の方が、より悲しく心に残ったのでした。

今の日本が独裁化しておかしくなるとしたら、
それは愚かで身勝手な戦争好きの現政権による醜悪な形だろうから、
高邁な理想からの失敗という悲しさは微塵もないでしょう。
ただただ醜いばかりになるのだろうか。

どちらにせよ、独裁にいいことはないなと、しみじみ思う。
経済的発展の途上で、独裁的な政権となったことのある国はいくつもあって
仕方なかった、おかげで発展できたのだと考える人も多いだろうけど
そうでなければ、もっとよかったのでは、とやっぱり思う。
経済の発展が遅くなっても、そこで弾圧された人たちが、殺されたりせずに
なんとか生きている方がよかったのでは、と。