散歩者goo 

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昨日記130106日(9/0晴 講演会まとめ 市立中央図書館)

2013年01月07日 17時00分12秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日は、午前中昨日記で一昨日の講演会の講演会のまとめを試みた。
講演会で、特に興味のあった哲学からの視点を述べられた鷲田氏の話をメモしていた。
その前の新宮氏の話もメモしていたが、精神分析のラカンからの視点で話され、「構造に横切られた感覚」の説明は理解できなかった。
建畠氏の話も、草間彌生の話はよく分かったが、それ以外私の勉強不足で分からなかった。

哲学からの問いかけは、私にとって非常に刺激的で得るものが多かった。
特に、20世紀の現代美術の方向性についての分析は、哲学者らしく非常に斬新・的確で説得力があり面白かった。
現実に、純粋芸術のミニマル等では、何も描かないという傾向も見かける。
この分析を新しい視点として本にして見せてほしいと思った。
ただ、記号論的視点から見ると、芸術は又違った様相を見せるだろう。
思想、哲学には、自然科学のような絶対は、ありえない。

精神分析にしても、様々な問いかけが行われているし、最近の脳科学の発達により、精神分析と欝や統合失調の脳に起因する病理の研究も進んでいて、治療の有効性も問われることになるだろう。
現実に、うつの一部では、脳に起因する原因が解明され、薬物等の治療も進んでいると聞く。

午後も昨日記で講演会のまとめを行っていたが、図書館で本を借りたかったので、昨日記を途中で切り上げ、大阪市立中央図書館に行った。
そこで考古学関連の本と、一昨日の講演会で話のあったラカンの解説書とを借りた。
帰りに、いつものファストフードでお茶を飲みながら、早速ラカン関係の本を読んだ。
分量のある本なので、少し時間はかかりそうだ。
ラカンと精神分析と組織の問題が解説されていた。
フロイトの精神分析もいろいろ批判があり、当然その後継者と自負するラカンも同じだが、やはり徒弟制度のような形でないと正確な診断が下せないというのは、自然科学的な観点から言うと疑問に思う。
ある意味、きわめて文学的かもしれない。
文学的ということは、主観的もしくは恣意的になりやすいということだ。
精神分析では、まさに、小さな兆候を加工、拡大、誇張、して解釈する。
生の芸術は、解釈するほどもつれるという、鷲田氏の指摘は鋭い。
鷲田氏はそれをセレンディピティとして評価または批判しているのかもしれないと感じた。(どちらとも取れる。)

帰宅後は、残りのまとめを書きあげ、その後プールで初泳ぎを楽しんだ。
よくすいていたので、5-600mほどクロールでゆっくり泳いだ。
家に戻ってからは、大河ドラマを見ながら食事をした。
平清盛は話題性を狙い、大物歌手等も起用したが、過剰な演技や演出に加え、話がどろどろして愛憎劇が多く、なじめなかった。
今回の「八重の桜」は、初回を見る限り好感が持てそうだ。



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