教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

ルソー・ペスタロッチー・フレーベル

2005年07月28日 20時35分49秒 | Weblog
 とんでもなく巨大なタイトルを挙げましたが、特にしっかりした話ができるわけではありません。単に、今日の読書会(皇至道『西洋教育通史』)の範囲が、ルソー、ペスタロッチー(ペスタロッチ)、フレーベルだったのでタイトルに挙げただけです(おいおい~)。
 教育を勉強した人なら絶対に名前は知っている三大教育思想家、後ろの二人は大教育家でもありますが、私の知識はほとんど単語集に載っている程度でした。今日はその三人の思想等を学びました。ルソーまでは難なく理解できたのですが、ペスタロッチー・フレーベルとなると複雑化して難解。単語集程度の知識なら簡単なのですが、一歩踏み込むと、途端に難しくなる人物であることを体験しました。明治日本ではアメリカからペスタロッチーを受容したといわれてますが、受容したのは彼の教育思想の裏付けを持った教育方法ではなく、アメリカで形式的に変質した教授法であったことが言われています(中野光「明治初期における近代的教育方法の受容とゆがみ」『金沢大学教育学部紀要』第10号、1962年)。その後ヘルバルトも、ドイツのヘルバルト派学者によって形式化され、それのみを移入して満足していた時代があったことが言われています。
 方法と目的・思想は不可分のものです。形式化する、すなわち方法から目的・思想を抜いてしまうことと考えると、明治日本人はあまりに彼等の教育思想が理解しがたくて教授の技法のみを受容したのかな、などと思いました。フレーベルの教育思想・方法の根本である「神」という概念を、私なんぞは「じゃあ、そういうことにしておこう」とまるごと受け入れなくては理解できませんでした。まあ、この場合は「神」という訳語が適当でないのかもしれません。日本語の「神」とは八百万の神を指し、今の日本人には擬人化されている神しか思い浮かばないのですから。
 17:00に読書会を開始して、いつもは18:30ごろに終わるのですが、当然それくらいじゃ終わりません。後輩の院試のための勉強を兼ねていますから、投げっぱなしではまずいので相談しながら理解していました。そのため、今日の終了時間は20:00。よく勉強した、という感じです。まあ、一つのテキストと相談による理解ですので、いずれ研究書や本人の著書などを読んでフォローしなくてはなりませんが。
 上に訳語が適当ではないのでは、ということを挙げましたが、同様のことが今日別の面でもありました。上記の読書会に先だって、15:00から16:30まで教育史研究会例会に参加していました。今日のテキストはE・H・カー(清水幾太郎訳)「歴史と科学と道徳」『歴史とは何か』(岩波新書、1962年)でしたが、この中で、歴史が科学でないという議論は「英語特有の現象」であると訳されていますが、これは?(ハテナ?)という印象がします。そこで、これは「英国特有の現象」の誤訳ではないのか、と研究会会員の一人であるMさん(西洋教育史専攻)が発言しました。そう訳せば、この章は、歴史が科学でないという議論は教養層の保身的発言にすぎないという、一つの結論で貫かれるのです。原語と対照させてないので確かなことは言えませんが、ううむ、訳語って大事だなあ、とうならされました。
 まあ、私は外国語が大の苦手なので、批判できる立場にはございませんが
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