教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「生きる」ための出発点

2008年05月04日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 私は、2005年から日記をつけ始め、やがてブログを書き始めました。ホームページの更新代わりだとか、日記の三日坊主の防止など、ブログを始めた理由はあまり面白くない理由でしたが、いつもその内容は自らの生活を見つめ直し、よりよい生き方を模索するものだったと思っています。昨年以来、ブログを始めた頃とは比べものにならないくらいの重い責任を負うことになり、従来のように好き勝手に毎日書くことができなくなりました。しかし、書いている内容は実質昔と同じだと思います。今でも、今の自分に表現できる範囲で、自分の生活を振り返り、自分の生活をより前進させようとしているのです。
 最近たまに、気分転換に無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年(青銅社の初版は1951年)を読んでいました。昨日、読み終わったところです。『山びこ学校』に所収されている中学生の綴方は、1950年前後の山形県の山村における子どものくらしを生々しく感じさせるものでした。貧しさに苦しむ中で明るく生きている子どもの姿が思い浮かべる度に、あぁ人間は社会を憎むことで生きていけるのではなく、苦しいながらも今を楽しんで生きていけるんだと思いました。そして、彼らの「今」を彼ら自身が丁寧に見つめることで、現在や将来、彼らがどうすべきか知っていく様を見て、現状認識の重要性に改めて気づかされました。
 日本の教育方法には、生活綴方(つづりかた)というものがあります。生活綴方とは、子どもに自らの生活や自らの環境をつぶさに観察させ、書き記させることによって、自らを表現する力を身につけさせるとともに、自らを取り巻く問題を考え、解決する糸口を見出させる教育だと、私は解釈しています。理想と現実の間の矛盾を気づく「概念くだき」だけでは十分ではなく(現実に絶望することで終わりではない)、現実の問題と条件の正確な認識に基づいて解決策を模索することこそ、生活綴方の到達点なのだと思います。自らの生き方と自らをとりまく現実を丁寧に見つめさせ、今よりもよりよい生き方を模索させるのだと思います。
 岩波文庫版『山びこ学校』の鶴見和子氏の「解説」を読んで、この実践が行われていた1950年代の同時期に、「生活記録」という成人版の生活綴方が行われていたことを知りました。そのとき、私のブログも「生活記録」ではないかとふと思いました。私の場合は指導者がとくにいるわけではありませんが、私のブログは単なる日記ではなく、自分の生活を見直して、生活改善の方策を模索するものです。また、多くの読者に、陰に陽に教えられ、支えられてきました。このブログのおかげで、要所要所で、自分の進むべき方向を見出すことができたと思っています。
 今の世の中は、絶対的な生きる指針(価値)はなく、建前と現実が大きく離れていて、自分はどう生きていくべきかわからなくなりがちです。自分の進むべき方向がわからないならば、今の自分の生活を丁寧に見つめ、周りの人々や書物などからヒントを得ながら、自分で自分の生活をよりよくしていくしかないのだと思います。『山びこ学校』を読んで、1950年前後の山形の山村の中学生が自らの生活を綴りながら自分なりの答えを紡ぎ出していく様を見ていくうちに、そんなことまで考えていました。自分の生き方は自分で見出していくしかないけれど、それは何もないところから見出すのではなく、今の自分の生活を土台にして見出すものだと思います。
 自分の人生は、誰かに与えられるものではありません。自分はどんな生き方をしているのか。どんなところで、どんな状況下で生きているのか。それらを少しでも正確に知ることこそ、将来の自分を作り出す出発点なのだろうと思います。教員は、受持の児童生徒学生の今と将来を左右する重要な職にあるとともに、自らの人生を生きています。今の世の教員は、児童生徒学生が自らの生活を見直す手助けをするとともに、教員自身もまた自らの生活を見直すことが必要なのではないでしょうか。
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