教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

なぜ戦後の長野県で教育会が存続したか

2023年11月28日 19時30分41秒 | 教育研究メモ
 このたび、信濃教育会の機関誌『信濃教育』第1644号(特集:我が教育会の取組 No.4)に拙稿を掲載していただきました。信濃教育会は、1886年創設の伝統ある現役の教育会です。その存在は、広島県内でも知っている人は知っている(管理職経験者など)というぐらい、実は全国でも知られています。科研費の研究グループの分担で、信濃教育会の研究を進めており、その関係で書かせていただきました。
 内容構成は以下の通りです。図書館で複写依頼すれば手に入りますので、興味のある方は依頼していただき、ぜひ読んでいただければ幸甚です。

白石崇人「なぜ戦後の長野県で教育会が存続したか―1948年信濃教育会運営研究委員「教育会の在り方」を読み直す」(『信濃教育』第1644号、信濃教育会、2023年11月、1~17頁)
 はじめに
1.1940年代後半の教育会をめぐる歴史的状況
2.本会運営研究委員「教育会の在り方」の特徴

(1)学校に限らない、教育・文化関係者に広く開かれた教育振興の組織
(2)個性・文化発展のための自由意志と友愛・協力による自治組織
(3)児童福祉のための自由な研究調査と教養深化・拡大
 おわりに

 日本の教育会は、明治期に各地で様々な規模と問題意識をもって誕生した、最も伝統ある教育職能団体です。戦後に教育の民主化を進める中で、多くの教育会は1946~48年にかけて解散しましたが、存続した教育会もありました。その代表の一つが信濃教育会です。これまでの教育会史研究では、1940年代後半を教育会の「終焉」の時代ととらえてきましたが、存続した教育会も結構あるし、「教育会」の名がなくなっても団体の在り方に連続性を見て取れることが明らかになってきたので、今では「終焉」という見方はされなくなってきています。では何なのだろう。この数年間で展開されてきた教育会史の多くの研究は、この問題を考え続けているように思います。
 教育会を中心に1940年代後半を考えるとき、重要なのは、「戦後もなお、なぜ一部の教育会は存続したのか」という問題です。教育会は戦前最大の教育団体でしたので、この問題は、教育団体における戦前戦後の連続性を考える重要な問題です。その中でも特に、現在に至っても存在感を発揮しているゆえに、「信濃教育会がなぜ戦後に存続したのか」という問いは、極めて具体的で興味深い問いになります。この問いに基づく基礎研究として取り組んだのが、このたびの拙稿となります。

 信濃教育会はなぜ戦後も存続したか。その理由解明はこれまで複数の先行研究でも取り組まれてきましたが、実際にはとても複雑で、まだ全容解明には至っていないように思います。しかし、少なくとも言えることは、1948年3月に公開された運営研究委員「教育会の在り方」という文書があったことは存続の重要なカギとなったのは間違いないです。戦後に解散してしまった教育会は、教育・社会の民主化のなかでどのような組織として改組するか、その構想を描き切れませんでした。しかし、信濃教育会(および長野県内の郡市教育会)は、改組の構想(「教育会の在り方」)を描き切り、改組を果たしました(しかも「教育会の在り方」をまとめたのが郡市教育会の代表たちであったということも大事)。その構想が文書「教育会の在り方」であり、これこそ戦後の長野県で教育会が存続した理由の一つです。
 拙稿はこの「教育会の在り方」の内容を分析しました。信濃教育会や各郡市教育会の関係者にはもちろんですが、教育会史や教育団体のこれからに関心のある人にも読んでほしいです。

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