老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

植物とのふれあいの中で ①   ~サツマイモ その1~

2016年05月12日 20時48分07秒 | 園芸福祉・植物とのつながり
 私の関わっている園芸福祉では、植物と人間の繋がりを非常に大事にしますが、私も園芸福祉に関わりだしてから、色々な植物との繋がりを、かっての記憶と共に改めて思い起こすように努めたり、地球生物の大先輩としての植物の知恵と不思議さなどを意識するようにしています。

 その一部は、2年前に癒しの園芸の会の会報「はないずみ」の紙面で連載で発表させていただきましたが、今回これを加筆修正の上で紹介します。

数回にわたる連載となりますが、トップバッターはサツマイモです。


<サツマイモ その1>

 癒しの園芸の会が運営している「癒しの園芸講座」という園芸福祉関係の講座では、「救荒作物」という講演を設定し、現在の日本人がほとんど忘れかけている“飢え”とこれを救った救荒植物の代表としてのサツマイモやジャガイモをテーマにして勉強しますが、サツマイモは、私にとっても植物との触れ合いの原風景ともいえる作物で、色々な出来事を思い出させてくれます。

 私が神戸で生まれたのは“戦前”の昭和16年5月ですが、神戸も段々と空襲を受けるようになり、幼い頃に播州の山崎という町の母親の実家に一人で疎開していました。間もなく、仕事で神戸を離れられない父を残したまま昭和20年に一家が山崎に疎開してくるのですが、私の記憶に残っているのは終戦後からの事です。

 その頃は、如何に田舎とはいえ食べ物は入手しにくく、野菜が多い粥や、「すいとん」「はったい粉」の記憶が強く、サツマイモはイモ粥/蒸しイモ/干しイモ、更に蔓の煮物など、様々な食べ方をしました。
確かに“腹が減った”という記憶は鮮明に残っているのですが、良く言われる“情けない”いうようなことは感じなかったように思います。というのは、私たちの世代は食べ物がある程度豊富だった(?)時代など記憶になく、物心ついたのは既に食べ物が極端に少ないのが当たり前の世界だったからでしょう。

 さて、私のサツマイモ栽培への繋がりですが、疎開時代は当然ながら借家の裏の畑を借りてサツマイモなどを作っていましたが、より記憶に残っているのは小学校2年の時(昭和24年)に神戸に帰ってからです。住まいは父がやっと手に入れた粗末な家でしたが、父が知り合いに頼み、まだ空地のままの焼け跡の住宅地や、後には山間部の河原の土地を借りてサツマイモを植えていました。
当然ながら農作に適した肥沃な土地ではなく、肥料なども満足にない時代なので、家の便所から下肥を肥担桶(こえたご)で運ぶのですが、まだ力のない小生はといえば、天秤棒の前後に肥担桶を担いだ父の後から付いて行き、畑で肥かけや水やりを手伝う程度でした。
当時は肥の匂いも苦にならず、時にはチャッポン、チャッポンと桶から飛び出す肥が服についてもそれ程気にならなかったですね。

 ただ、暑い中まだ家もまばらな広い焼け跡の道を通り、肥担桶を運んだのと、せっかく苦労して育てたサツマイモが盗られない内にと、まだ充分に生育していないのに収穫したのが妙に記憶に残っています。

 また、焼け跡の住宅地に作った畑では、畑を耕すと時々焼夷弾の容器が出てきて、怖々畑の隅におきましたが、クズ鉄拾いの人がこれらを一生懸命あつめていました。
更に、今から考えれば笑いの種でしょうが、父が使っていた肥担桶には父とこの肥担桶の共有者であった父の友人の名前が鮮やかに墨で書いてあったことで、この時代、肥担桶が如何に貴重な所有物だったかということがわかります。(まさ)

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