東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

長府 功山寺,毛利邸,乃木神社などをウォーキング(2/4)

2015年11月25日 | 歴史探訪他ウォーキング

 功山寺の見学が終わると、近くの長府毛利邸に行きました。とても趣のある館でした。長府藩がいつ頃できたのかは知りませんが、本庁の毛利に次ぐ面積を治めていたようです。ところで、長州藩と岩国藩の関係が面白いのです。戦国時代のことです。毛利元就の次男である元春が、養子に入って吉川を乗っ取りしました。その孫である広家が実質的な岩国藩の藩祖です。そのため長府藩よりも古く格がある藩と言うことになります。

   長府毛利邸に向かう道     長府毛利邸の建屋       長府毛利邸の内部
  

 岩国藩は長府藩などの支藩とは別に見られていました。それは、関ヶ原での毛利に対する裏切り行為のためだそうです。関が原の戦いでの配置を見ると、吉川は徳川家康の背後を襲える絶好の位置にありました。裏切りがなければ家康必敗だったはずです。そうなれば西軍の大将であった毛利は、日本の盟主になれたはずなのです。しかし、結果は毛利方西軍の惨敗。徳川家康は恩のある吉川を残し、毛利を取り潰したかったようです。紆余曲折後、幕府からみて吉川を毛利と同格の外様大名扱いにしたようで、それがさらに江戸期の毛利と吉川の複雑な関係を作ったようです。

                  長府毛利邸の縁側から、素敵な庭を見ながら


 幕末の長州征伐で再び裏切りが起きないよう、毛利本庁は岩国藩にとても気を使ったとか。南奇兵隊は、本陣を室積からわざわざ不便な石城山に移して第二奇兵隊に正規化しました。そして、万が一にも裏切りしないように、石城山から岩国藩に心理的圧迫をかけていたとの話を読んだことがあります。岩国にやや近い石城山に本陣を置いたのも、そんな意味があったのかも知れません。その後、第二次長州征伐で岩国藩が幕府と戦う覚悟を決めたため、石城山から専福寺に本陣を移し周防大島に出陣したのだとか。

            長府毛利邸から長府観光会館への戻り道、古江小路


 長府毛利邸は、当然のことながら純和風建築です。ほとんどの部屋は畳が敷かれていました。庭も立派で雨が降る梅雨時は苔が見事ではないかと思います。庭に出られるようにサンダルが置いてありました。さっそくサンダルを借りて、庭のすみずみを堪能しました。そして、お昼前に毛利邸を出て車を駐車している長府観光会館に戻りました。その道すがら、とても素敵で趣のある古江小路を通りました。

   創作料理店ひろなか       ご馳走の数々         次々に出る料理を堪能
  

 長府観光会館に戻ると、A君が予約していた料理店に車で向かいました。車で15分位の場所にある創作料理四季の味ひろなかです。座敷に通されて、出てくる和風料理を待ちました。しばらくすると、美味しそうな料理が次々に出てきました。史跡巡りも楽しいですが、その土地の美味しい料理を堪能するのも楽しみです。A君予約ありがとう、とても美味しかったです。

            今回ウォーキングした下関市長府の史跡探訪ルート


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