鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その4

2015-04-28 05:59:19 | Weblog
「佐久島体験マップ」によれば、佐久島の歴史は古く、浸食によって失われた石垣(しがけ)の地層からは、かつて縄文土器の破片が発見されているという。また弥生時代のものとしては3ヶ所の貝塚が見つかり、1世紀から3世紀にかけて作られたさまざまな様式の弥生式土器も出土しているとのこと。海を生活の場とした海部族の末裔たちによって、江戸時代には海運業で繁栄した、とも。文献の中に初めて佐久島の名前が現れたのは、7世紀後半の藤原京時代。藤原京跡から、土地の産物を献上した際の荷札に、「佐久嶋」と書かれた木簡が出土したといい、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析島」(さくしま)の名が見つかっているとのこと。島名の由来としては、崇神天皇の頃(前1世紀)、伊勢の斎宮の郷に作彦という臣がいて、伊勢志摩の島を見回る折に島を訪れ、その景勝を大いに気に入って移り住み、農業を始めたことから「作島」と呼ばれるようになったと伝えられる、とありました。縄文時代の昔から人々が住みついた島であり、豊富な魚貝類と美しい景観に恵まれた島であったようです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その3

2015-04-27 05:47:00 | Weblog
すでに触れたように、崋山は佐久島においての見聞の様子を、神島のように日記に詳しくまとめてはいません。しかし佐久島へ渡ったことは確かであり、さまざまなことを見聞し、情報をいろいろと集めているはずです。それらはメモ書きとして箇条書きのように記されているわけですが、それらがどういう内容であるのかをまず確かめてみたい。〇人数三千、千石五百衛門頭、これハ佐久の島の事。〇大船十四五艘、いさハ二十艘、五百上通三枚梶有。〇懸宮ノ鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、此島立初之社。〇八釼(はちけん)の宮、神主長太夫。〇宗(崇)運寺、浄土深草派、三州中島宗(崇)福寺末、中興開山融山伝済大和尚、宗(崇)福寺第四世、天文元年寂。〇阿弥陀寺、慧寒梅玉和尚、五年前寂。〇正念寺、塩神祖コノハタノ故事。〇妙海寺。〇松林寺。〇影向庵宗(崇)運寺所末。以上が崋山が佐久島について記すメモ書きのおそらくすべて。ではスケッチはどうかというと、①村落風景②佐久島風景(弁才船が描かれる)③海岸風景④島のようなものが描かれた海岸風景⑤階段状の岩場が描かれた海岸風景⑤お寺らしき建物と小型帆船が描かれた海岸風景⑥岬と岬先端の岩礁を湾越しに描いたもの⑦集落内の道筋の風景。以上7枚が佐久島で崋山が描いたスケッチであると私は推定してます。以上のメモ書きの記述とスケッチをおさえた上で、佐久島一周の海岸沿いのハイキングルートを、西港から時計と反対回りに歩いていきました。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その2

2015-04-26 06:05:38 | Weblog
神島において、又右衛門に案内されて灯明山(とうめやま)に登っていく途中で、崋山の詳しいそれまでの記述がなぜ中断されてしまったのかはわからない。また翌日、畠村を出立した記述から始まって古田村から船に乗って佐久島へと向かう途中で崋山の記述は中断し、佐久島での見聞の詳しい記述はなく、それ以後吉良村に上陸して田原に帰着するまでの詳しい記述もありません。見聞をメモ書きしたものと途中でスケッチした絵があるばかりです。崋山は、この旅は、「御系譜」と「巣鴨老公」の「三河志」の「御用」を兼ねた旅であると日記の冒頭に記しています。「御系譜」とは「三宅家系譜」であり、その三宅家系譜のための調査であるということですが、これは『毛武游記』の旅や『游相日記』の旅と共通するものでした。「巣鴨老公」とは田原藩11代藩主三宅康友の世子友信のことであり、巣鴨の田原藩下屋敷に隠居する身でしたが、「老公」と言われながらも当時28歳の若さ。『三河志』をまとめたいという意志を持っていて、崋山にそのための現地取材を依頼したのでしょう。崋山としては、この旅を利用して田原藩の領地やその周辺海域などをしっかり見ておきたいという意識があったでしょう。「佐久島」訪問の後は、「岡崎より吉田、豊川、鳳来寺などへも」行こうと考えていたようですが、崋山の旅は藤川宿から東海道に入り、吉田(豊橋)経由で田原へと帰るというかたちで終わっており、旅先のメモをしっかりとまとめる(神島までのように)余裕がなく、旅は何かの理由であわただしく終えられた気配があります。「国府村大社明神」や「長徳(福)寺」がメモ書きで出てきますが、崋山は岡崎や豊川方面には足を向けてはいないようです。「送二川俊三返雪吹礼介ヲ訪」というメモ書きもあり、東海道二川宿まで鈴木春三を送り、帰りに「雪吹礼介」を訪ねたようですが、これがいつのことであったのかはわからない。そして「廿五日、六時」に田原を出立して江戸へと向かっています。旅の途中で何らかの理由で急ぐ用事が出来て田原へと急いで戻り、その後江戸へと向かうまであたふたと崋山は過ごしたようなのですが、その理由や事情は何であったのか興味のあるところであるけれども、確かめることはできません。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その1

2015-04-24 05:59:26 | Weblog
崋山の『参海雑志』の旅の日程と行程を、あらためてここで確認してみたい。旅に出立したのは天保4年(1833年)の4月15日(陰暦・以下同)。田原城下をお昼に出立して高松村の冨士見茶屋で昼食を摂り、赤羽根村の遠見番所に立ち寄って、若見、越戸(おっと)などの村を経て和地村の医福寺に宿泊。翌16日は堀切村の小久保三郎兵衛(供人の鈴木喜六の縁者)の家に立ち寄り、その後見人である政右衛門の案内で新築なったばかりの常光寺を見学。その後、堀切村を出立して伊良湖村に至り、伊良湖明神に参詣。芭蕉塚に寄ってから伊良湖の浜より乗船し、伊良湖水道の「ドワイ」を渡って神島南岸の「ニワの浜」あたりに上陸。島長である小久保又左衛門の家に宿泊することになります。翌17日の早朝、島の東海岸の岩の上から荘厳な「日の出」を眺めた後、朝食を摂ってから又左衛門の弟の案内で島見物に出掛け、灯明山(とうめやま)の中腹にある八代(やつしろ)明神や頂きにある灯明堂の施設などを見学します。そして灯明堂から戻った崋山一行は、島の船に乗って伊良湖の浜へと戻り、そこから陸路、左手に西山長池や豊島池を眺めながら畠村へと向かいました。畠村に到着すると、この地を支配する大垣新田藩の陣屋(畠村陣屋)をスケッチしています。この日、崋山一行がどこに泊まったかはわかりませんが、おそらく畠村の免々田(めめだ)川沿いの旅籠に宿泊したものと思われます。崋山は旅に出立する前から、「伊勢の国の神島」とともに「三河の国のさく嶌」を訪ねることを予定していましたが、なぜ佐久島へ渡ろうとしたのか、その理由はよくわからない。4月18日の記述は、いきなり畠村を出立するところから始まります。免々田川に沿って古田(こだ)村まで歩き、そこから船に乗って佐久島へと渡っています。佐久島見物を済ませた後、その日のうちに佐久島から幡豆郡の吉良(きら)あたりに上陸し、吉良にある吉良氏菩提寺華蔵寺(けぞうじ)に立ち寄っています。吉良道を利用して東海道藤川宿へと出ているはずですが、この日(4月18日)の夜、どこに宿泊したかはわからない。おそらく藤川宿に泊まったものと思われますが確証はありません。東海道吉田宿を経由して田原に帰着したのは翌19日か20日のことであったでしょう。不思議なことに、神島までの記述とは異なり、佐久島以後田原帰着までの詳しい記述はほとんどありません。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その最終回

2015-04-23 05:22:24 | Weblog
 荘厳な日の出を眺めてから崋山が戻ると、さっそくご飯を進められました。飯は焚き下ろしたばかりで熱々ではあったものの、やはり昨夜のように小石混じりで石が歯にあたり、崋山は閉口します。弟の又右衛門が顔を出して、「兄の又左衛門は人別帳を整えて、未明に鳥羽の役所へ出掛けました。お客様のご機嫌よきようもてなすようにと言って出掛けたので、今日は島の見物はいかがでしょう。ご案内いたします」と申し出る。その後またご飯が出されて、これが正式な朝食であるようで、平椀、汁物、焼き魚などが出ます。l出された料理はみな魚肉で、汁にはわかめが入っている。朝食後、磁石や遠眼鏡などを携えて、崋山たちは又右衛門の後について島見物に出発します。時刻はもう午前10時近い頃でした。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その9

2015-04-21 13:07:22 | Weblog
崋山が神島で聞き取ったさまざまな情報の中で、私が興味関心を持つのは、又左衛門や又右衛門が語った又左衛門家の生業(なりわい)の内容と、「おまつという女」の語った自分の経歴、海女や島の生活の様子です。この2つの話に共通するのは、島の生活が「諸物」の「交易」によって成り立っているということ。島で獲れた漁貝類を売買したり、生活必需品を手に入れる方法は、「諸物」を「交易」する又左衛門家や三四郎家が所有する「廻船」によって成り立っていたということです。その「廻船」は大型の「廻船」(長距離航海の船)ではなく、近・中距離を航行する小型の「廻船」。船の呼び名としては「いさば船」と呼ばれる100石積前後の船(帆船)であったと思われます。崋山は以下のように記しています。「この嶌にて三四郎、又左衛門といへるは、網船の主にて元〆といふものなり。先祖より遠沖に漁する事を禁じ、島の長としてたゞ猟の売買をなし、尾勢志紀参に往来して諸物を交易せるのミなり。」 「いさば船」に乗り込んだ船乗りたちが、伊勢湾や三河湾、熊野灘あたりを舞台に各地を往来して、漁獲物の売買をしたり、諸物の交易を行って、利益を上げていたことになります。東海岸の白い岩の上で日の出を眺めていた崋山たちを、「朝かれい(朝食)の用意が出来ています」と呼びに来た又左衛門家の「小もの」のように、又左衛門家には「いさば船」の船乗り(水主)など多数の「小もの」(使用人)がいたものと思われます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その8

2015-04-21 06:10:34 | Weblog
崋山は又左衛門やその弟又右衛門、島の漁師や女たちからさまざまな情報を積極的に聞き取っています。「岩の花」のこと、「左野の井」という「目薬」のこと、海を吹く風のこと、「いせ海老」や「シマ海老」のこと、八代(やつしろ)神社に関すること、大津波のこと、「島長」としての生業(なりわい)のこと、履物のこと、女たちの服装のこと、「立網」を使っての沖合いでの漁のこと、ワカメや昆布の採取の方法や海女の漁の仕方のこと、家数や船数、産物や行事、八代神社の遷宮のこと、寛政年間(12年)の「トウリンボウ」と呼ばれる大風による大海難事故のこと…。とりわけ崋山が強い関心を持って聞いたことは、太平洋のはるか沖合に出た時に「いぎりすなどいふ黒船」を見掛けるようなことはないか、ということでした。翌4月17日(陰暦)の早朝、島の東海岸に出掛けて日の出を眺めた時も、崋山は太平洋の大海原の向こうに「アメリカ」という国を意識しています。「予云(よいう)」と、崋山がわざわざ自分から聞いたことをこの部分の日記に記しているのは、「この島人の漁ハ大洋二三十里外(実際は「三里」ほど南の沖合-鮎川注)にこぎ出で釣網する事なれバ、かのいぎりすなどいふ黒船ハ見かくる事あるや」と問うたことだけであり、それだけ崋山が強い関心を持っていたことを示しています。その問いに対して、島人はどう答えたか。「近年中国の船が漂着したことがあって、それについては長崎にその漂流船を送ったことがあるが、黒船というものは極めてまれであり、ただ遠い沖合いを航行しているのを見掛けることがあるばかりで、それがどういうものかはよくわからない」ということでした。「黒船」のことをよく知っている者は誰もいなかったということであったのですが、崋山は、この島を支配する鳥羽藩主の厳命があるものだから、島人たちは詳しくは知らないと言い張っているのであろうと推測しています。つまり、本当はいろいろと知っているのではないか、知っているのだけれども藩庁から厳しくお達しを受けているものだから言わないだけだ、と崋山は推測しているのです。崋山がなぜそのような推測をしたかはわからない。しかしそれなりの根拠があってそう推測したのでしょう。その根拠についてはよくわかりませんが、相州浦賀の近辺や渥美半島東海岸の村々を歩いた時に、どこかでそのような情報を耳にしたのかも知れません。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その7

2015-04-20 05:51:35 | Weblog
崋山たちが、両側に人家が並ぶ谷川に沿って坂道を上がり、又左衛門の家を訪ねると、又左衛門は突然の武士の訪問にびっくりした様子。供の鈴木喜六が、この方は田原城下からやってきた客人で、和地村の医福寺から長流寺に泊まるようにと紹介されたのだと言ったところ、又左衛門はたいそう喜んで、「それで安心しました。ではまずはこちらへお入りください」と言って、炉辺に迎え入れ、お茶やたばこ盆などを出し、もてなしてくれました。やがて付近の人たちも物珍しくやってきて、まるで桃源郷に入った漁師のような気分を崋山は味わいます。そうこうしているうちに、奥の間に畳を敷き並べて、「まずこちらへお入りください」と案内したのは、又左衛門の弟で又右衛門というもの。この又右衛門は、翌日、崋山たちを島見物に誘い、案内をしてくれる人。又左衛門には17,8歳ばかりの娘がいるから、年齢はおよそ40半ばほど。弟の又右衛門にも娘がいて、又右衛門所有の網船が帰って来た時、その妻も娘も、海女たちに混じって網から魚を取りだしたり、網を乾かして収めたりなどまめまめしく立ち働いています。又左衛門の17,8ばかりの娘も含めて、女たちは、伊勢松坂の縞木綿で作った襦袢のようなものを着て、その上に前垂れというものを結んでおり、帯をしている者は一人もいない。家の中では女たちはそのような服装だが、磯に出る時には女たちはみんな上半身は裸で、腰に襦袢状のものを巻きつけているだけ。仕事に出る時には「あしなか」を履いて、磯辺を歩いたり走ったりしています。神島の漁師の妻や娘たちは海女をなりわいとしており、「おそろしきあら海の中にくゞり入」ってアワビやワカメなどを採取しており、崋山たちが上陸したと思われる「ニワの浜」周辺の岩礁地帯は、特にアワビがたくさん採れる場所であったのです。崋山は、海女は「漁夫の妻娘どものミこれをなりわひとし」と記しているから、「島長」として漁獲物の売買や諸物の交易をもっぱらとしている又左衛門やその弟の又右衛門の妻や娘たちは、海女としての仕事はしていなかったものと思われます。しかし父親の持ち船(網船)が漁から帰って来た時には、漁師の女たちに混じって、網から魚を取り出したり、網を乾かしたり、乾かした網を収めたりと、まめまめしく立ち働いていたのでしょう。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その6

2015-04-19 06:30:13 | Weblog
前に挙げた参考文献『郷土志摩No44 神島特集号』によれば、戸数の六割は「小久保」という姓で、この姓は渥美半島にも沢山あるとのこと。崋山が訪れた渥美半島の太平洋岸の村、堀切村においても小久保姓が多く、実際、案内人の田原藩士鈴木喜六の縁戚ということから立ち寄った家も、小久保姓(三郎兵衛)でした。崋山を常光寺に案内してくれたのも小久保政右衛門(三郎兵衛の後見人)。また伊良湖村にも小久保姓が多かったようであることは、現在の伊良湖神社の参道沿いにあった「平成二十六年 初穂料奉納者」名簿から推測することができました。「小久保」姓以外に「藤原」姓も多く、それ以外は「寺田」「前田」「池田」「天野」の姓であるという。また島の旧家は屋号が「梅屋」「柏屋」「井筒屋」であり、そのどれもが「小久保」姓。この三家が「島の親方」であったという。ちなみに、三島由紀夫が神島を訪れた時、宿泊してお世話になったのは、当時漁協組合長の寺田宗一さんであり、この方は「寺田」姓。では、崋山が訪ねた「又左衛門」という「島長」の姓は何であったかというと、「網船の主」で「元〆」であり「旧家」でもあるということから考えて「小久保」であったに違いない。つまり「小久保又左衛門」であり、その弟は「小久保又右衛門」であったのです。もう一人の「旧家」で「網船の主」である「三四郎」もおそらく「小久保」姓であったでしょう。崋山は、「和地の威(医)福寺より消息せしかば、此家(又左衛門家)をたどり長流寺といふに宿からんと、先(まず)其(その)又左衛門が家」を訪ね、そして結局、長流寺には泊まらずにその又左衛門家に宿泊しています。この「長流寺」は堀切村の常光寺の末寺であり、明治初期には廃寺になっています。つまり曹洞宗のお寺でした。和地村の医福寺は、崋山一行がこの旅において第一泊目を過ごしたお寺であり、やはり曹洞宗のお寺。崋山はその医福寺の住職の紹介を受け、神島に渡ったら同じ曹洞宗の長流寺(堀切村の常光寺の末寺でもある)に泊まろうと思っていたのです。『郷土志摩 神島特集号』によれば、他の桂光院や海蔵寺(現在はない)も曹洞宗であり、堀切村の常光寺と関係が深い。ということであり、この神島に住む人々は、渥美半島太平洋岸の堀切村ないし渥美半島突端(伊良湖岬)の伊良湖村などとつながりのある人々が多いようだ、ということがわかってきます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その5

2015-04-18 06:25:51 | Weblog
崋山が「ニワの浜」付近で描いたスケッチは、私の推定では4図あります。①神島、船ヲアグル図②神島海岸を望む③海岸岩石④洞穴の4図。もう2図、「相崎」「相崎、弁天山、ナゴラコノハナ」というスケッチがありますが、これは「ニワの浜」からやや離れた「古里(ごり)の浜」付近から「弁天岬」を描いたもの。①のスケッチは崋山らが乗った船が着岸したと推定される「ニワの浜」そのものを描いたものであり、②は「ニワの浜」の上から伊良湖岬方面を望んだもの。③④は「ニワの浜」の北東部に露出しているカルスト地形を描いたもの。かつてはここの波打ち際に「洞穴」があったものと思われますが、現在はコンクリートの高い防潮壁が造られたことにより、その「洞穴」は失われています。崋山はこれらのスケッチを、「ニワの浜」に上陸した直後に付近を歩いて、次々と描いたものと思われます。そして「ニワの浜」を出発して、島北側にある集落へと向かう途中、「古里(ごり)の浜」越しに弁天岬を描いたスケッチが、「相崎」および「相崎、弁天山、ナゴラコノハナ」。崋山は現在の「弁天岬」を「相崎」、そしてその先端を「ナゴラコノハナ」と記しています。私が、伊良湖浜から漁船に乗った崋山らが上陸したところは、島の南側の弁天岬の付け根、「ニワの浜」であると推定したのは、以上の崋山が描いたスケッチ群によります。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その4

2015-04-17 05:59:32 | Weblog
神島の灯明(とうめ)山の山頂に建っていた灯明堂は、崋山のスケッチ3図に描かれています。一つは神島全景のスケッチ、一つは神島海岸を望んだスケッチ、一つは山頂の灯明堂そのもののある施設をほんそばで描いたスケッチ、これらの3図です。神島全景のスケッチでは、神島で一番標高の高い灯明山の頂きに灯明堂の建物が建っているのがよくわかります。伊良湖水道からも灯明堂の建物はよく見えたのです。神島海岸を望んだスケッチでは、左端の山の上に灯明堂の建物が描かれ、この山が灯明山であることがわかります。ではこれは島のどこからどこを見たものかと言えば、海上の向こうに伊良湖岬が見えることから、崋山らが上陸したと思われる「ニワの浜」の上あたりから伊良湖岬(渥美半島)方面を見渡したものと考えられます。画面真ん中の森の繁りが描かれているあたりは、現在「監的哨」があるあたりになるのではないか。山頂の灯明堂の建物を間近に描いたスケッチでは左端に陸地が描かれていますが、これは伊良湖岬の骨山(現在はその頂上に伊良湖ビューホテルが建っています)ではないかと思われます。この2図からも、崋山は神島から伊良湖水道を隔てて指呼の間にある伊良湖岬を意識していることがよくわかります。この崋山がわざわざ灯明山の山頂に登ってその姿を描いた灯明堂は、『郷土志摩 No44 神島特集号』によれば、高さ9尺(約2.7m)で浦賀奉行の所管。灯火は油(魚油や菜種油)。点火用の灯明皿は鉄製で、灯心は長さ5寸ほどの普通行灯(あんどん)に使っているものと同じであったという。崋山のスケッチを見てみると、灯明堂全体を覆う4本柱の大きな屋根のある建物があり、その中に2階建ての灯明堂が建っています。灯明皿があって灯火が燃やされるのは、その2階部分の内部であり、この2階部分の四周の窓は障子窓になっているように見えます。灯明堂そのものの高さが9尺であるとすると、それ全体を覆う屋根付きの吹き抜けになっている建物は、高さ14、5尺ほどはあることになり、高さ5mほどもある巨大なものであったということになります。従って、伊良湖水道の海上からも、また「ニワの浜」近くの高台からも、その灯明堂の建物はよく見えたのです。『渡辺崋山集』の頭注によると、この灯明台は明治6年(1873年)に廃止されたという。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その3

2015-04-15 06:31:25 | Weblog
崋山の「神島、船ヲアグル図」を子細に検討してみたい。この絵を私は神島の漁師が漁を終えて船で浜辺に帰ってきたのを、島の女性たちが船を浜に引き上げたり、網に入っている漁獲物を船から浜に上げるのを手伝っている様子を描いたものと思い込んでいましたが、実はそうではなく、崋山たちを運んできた伊良湖浜の漁船(小型帆船で帆はすでに下ろしている)を、磯辺でアワビ捕りをしていた島の女(海女)たちが、浜辺に着岸したその漁船を打ち寄せる波で動かないようにおさえている情景を描いたものだと判断しました。荷物を両脇に抱えて立っていて、今まさに船から浜に下りようとしている日焼けした男は、崋山たちを伊良湖浜から運んできた漁船の3人の船乗りたちの一人であり、その両脇に抱えた荷物は、崋山一行(特に供人)が田原から背負ってきた旅の荷物であるでしょう(魚でもなく、魚が入った網でもない)。崋山によると、沖合いの揺れ動く船から一人の船乗りが綱を持って浜に泳ぎ着き、その綱を力を限りに引っ張って船を引き寄せようとしていると、島の女たちが何人も群れ集まってきて、一緒に綱を持って船を引き寄せてくれたのです。船が着岸すると、船乗りは崋山らを背負って小高い岩の上におろし、それから荷物などを船から運んで、それが終わるとすぐに船に乗り込んだのです。小高い岩の上から、崋山は白い腰巻ばかりを身に付けた島の女たちが、押し寄せる波にずぶ濡れになりながら、着岸した船が動かないように、そして荷物を持った船乗りがふらつかないように、力いっぱい船の舳先の方や舷側を押さえている姿を感動しながら眺め、そして活写したのです。今なら、その情景を見てカメラのシャッターを切るようなもの。崋山は女たちは「老少を分かたず」髪を「江戸にいふところの島田(=島田まげ)」にしており、髪に飾りを付けていないと記しています。なぜなら、島の女たちは皆あわびや海草をとるために海に入るからだ、と説明しています。実際、「神島、船ヲアグル図」に描かれた5人の女性は、2人が島田まげをしており、あと3人は島田まげを外して伸ばした状態(ポニーテール状)にしています。布紐で結んでおり、飾り(かんざし等)は付けていません。海に潜る時は、まげの元結を外して長い髪をざんばらにした状態で、大きく息を吸って頭から勢いよく入っていったのでしょう。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その2

2015-04-14 06:48:20 | Weblog
崋山らが上陸したところは神島の北側の集落のある側ではなく、神島の南側の磯辺でした。その磯辺は海が深くて、折悪しく波が逆巻いていました。したがって、帆を下ろして櫓を押して磯辺に近付こうとしても、波のために船は引き返され、引き返されたかと思うと磯辺近くに打ち寄せられるといったことを繰り返し、どうしてもうまく着岸することができない。そこで船子たちは碇(いかり)を投げ入れて船が沖合いに流れないようにした上で、綱を持って磯辺に泳ぎ着き、力を限りにその綱を引いて船を磯辺に近付けようとしているうちに、この島の腰巻ばかりをつけた女たちが何人も群れ集まって来て、その綱を一緒に引いてくれたので、船は無事磯辺に着岸することができました。船子たちは崋山たちを背負うと小高い岩の上に下ろし、また荷物も船から運んで、それが終わると直ちに船に乗り移って碇を上げ、潮に引かれて伊良湖の浜に向けて戻って行きました。磯辺の小高い岩の上に立つ崋山たち3人は、伊良湖の浜に向けて離れていく船を眺めながら何となく物悲しい気分になり、かの俊寛が罪を得て薩摩国鬼界島(きかいがしま)に流された時と同じ気分を味わうような心持ちになりました。さて、崋山らが上陸した場所はというと、「島の南辺」と崋山が記しているように、神島の南側の磯辺であり、私はそれを「ニワの浜」と推定しました。現在、神島小学校と神島中学校があるあたり、そのグランドの南側の磯辺になります。ここからは「古里の浜(ごりのはま)」を左手に見て北側の集落へと向かう道があり、これは昔からあった道であるものと思われます。「下ひも」(=腰巻)ばかりを付けた上半身裸の女性が何人も群れ集まってきた、というその女性たちは、神島の海女(あま)たちであり、「ニワの浜」でアワビや牡蠣(かき)などの素潜り漁をしていた女性たちであったでしょう。崋山はあとで、「磯に出るものハあしなかをはきて走る。女は皆はだかにて、ふんどしばかりにこしをおほひ、そのなりはひをなす」と記しています。「神嶌、船ヲアグル図」および「神島風俗」のスケッチを見ても、女たちが下半身に付けているのは「ふんどし」ではなくて白い腰巻であり、その姿で、海女として海に潜ってアワビやカキなどを獲っていたのです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その1

2015-04-13 06:09:42 | Weblog
崋山は「神島」全景のスケッチの箇所に、「周廻凡一里強、賦役五石八斗目 外浦役 カコ方金 旧家又左衛門、三四郎」と記しています。頭注によれは゛神島村は志摩国答志郡にあり鳥羽藩領。天保郷帳には「十石余、うち五石は無反別、五石は浦役銀五百六十匁」とあるとのこと。「カコ方金」の「カコ」とは「水主」のことであり、「水主」としての仕事に掛かる税もあったものと思われます。「又左衛門」については、後に。「又左衛門といえるものハ島長にて、和地の威(医)福寺より消息せしかば、此家をたどり長流寺といふに宿からんと、先(まず)其(その)又左衛門が家を尋ぬ。」とあり、又左衛門は「島長」であり、和地の医福寺の住職から紹介状をもらっており、この又左衛門をまず訪ねてから、紹介された長流寺に一泊しようと崋山が考えていたことがわかります。また崋山は、「この嶌にて三四郎、又左衛門といえるは、網船の主にて元〆(もとじめ)といふものなり。先祖より遠沖に漁する事を禁じ、島の長としてたゞ猟の売買をなし、尾勢志紀参に往来して諸物を交易せるのミなり。」と記しており、又左衛門家と三四郎家は、漁獲物の売買をし、伊勢湾・三河湾一帯に往来して諸物の交易に携わっていたことがわかります。また「網船」(漁船)の元締めでもありましたが、自ら漁に出ることはなく、専ら漁獲物の売買と諸物の交易に従事していました。又左衛門の弟の又右衛門も、漁はしないで、「ただ交商をのミむね」としていました。「凡百軒」もある神島の人家の中で、この旧家の又左衛門家と三四郎家だけは、漁を行わず、神島で獲れた魚貝類の売買と諸物の交易に携わっており、その行動半径は紀州・伊勢・志摩・尾張・三河と、熊野灘・伊勢湾・三河湾一帯に及んでいたことがわかります。その際の、魚貝類売買・諸物交易のための船とは、「いさば船」(近・中距離用の「小廻り船」・小弁才船)であったでしょう。つまり「尾州廻船」の「小廻り船」と同様な船であったものと思われます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その最終回

2015-04-12 03:47:35 | Weblog
崋山は『参海雑志』に船の種類の名前として、「大船」、「いさハ」、「テントウ」などを記しています。船の絵としては、伊良湖浜から神島へと渡った、「小山ノはな」および「神島渡海」に描かれた六反帆ほどの漁船、「畠村螺ヲ捕ル」に描かれた、魚介類を獲るための「畠村」の漁船、佐久島と思われる浜の沖合に浮かぶ「弁才船」などを描いています。船子や漁師から聞いたと思われる風の名前についても詳しく記しています。「南風まぜ、辰巳風イナサ、東風コチ、西ハ西風、北よりハ北風、東北ならひの大ナルモ(ノ)ヲベットウ」。「大船」は「弁才船」のことであり、「いさハ」は「いさば船」のこと、「テントウ」は「天当船」のこと。「弁才船」は一般に200石以上の「大廻し」(長距離航海)に使われた船で、大型のものは「千石船」という場合もある。「いさば船」は200石以下の小弁才船で、「小廻し(中・短距離航海)に使われた船であり、全国津々浦々の廻船はほとんどが「小廻し」の廻船でした。「小廻し」の廻船を「いさば船」と総称していたという説もあります。「天当船」は、大型漁船や大型運搬船のことで、「弁才船」を「天当船」という場合もあるようです。崋山が描く帆のない小型漁船は、猪牙船(ちょきぶね)と呼ばれるものと思われます。三河湾や伊勢湾には「尾州廻船」と呼ばれる「弁才船」や「いさば船」、漁師が使う小さな「猪牙船」や「小荷足」に似た小型帆船などが活発に往来しており、神島や佐久島へと渡った崋山は、その活発な大小さまざまな船の往来に目を瞠(みは)ったものと思われる。風向きは、大小の帆船を利用する漁師や船乗りたちが最も注意を払うものであったはずで、崋山は漁師や船乗りから聞いたその風(向き)の名前を、しっかりとメモしているのです。 . . . 本文を読む